一、“影”現る
さわやかな朝だった。
土地柄、日差しは暑いが、砂埃が立たない程度の風が頬に心地よい。土煉瓦の家が立ち並ぶ光景は珍しいものではないが、この邑はその数が多い。オアシスに隣接するため、栄えているのだ。
やや寝坊した少年は独り、顔を洗おうとオアシスに向かってぶらぶら歩いていた。
黒い髪によく焼けた肌はこの近辺の人間に共通する特徴だが、好奇心に輝く大きな目と人懐っこそうな笑顔が、見る者に好印象を与えている。
名を、ラクシオと言う。少年から青年へと変わる十五歳だ。
目を擦りながら慣れた道を歩いていると、青い湖が現れる。水面に乱反射した日光が寝起きの目に突き刺さり、ラクシオは呻き声を上げた。慌てて腰に縛っていた薄織りの布を外し、目隠しする。薄織りなので向こうは透けて見えるが、光はやや遮られた。これで一先ず、目が見えなくなる心配は無い。
ラクシオは歩を再開するのだが、前方から押し殺した笑い声が聞こえてきた。その済んだ高い声には、聞き覚えがある。
「レイン、笑うなよ」
「ごめん、でもラクシオがあまりにも可笑しいから……」
薄布越しに不満な視線を向けると、木陰で可憐な少女が肩を震わせている。ラクシオは見慣れたものだが、たいていの人間は彼女に見惚れる。滑らかな肌と豊かな髪に、整った容貌。そして何よりも印象的なのが、天球高くに昇った月と同じ、銀の瞳。
レインは、“神の愛し子”だった。この砂漠では、銀色の瞳を持つ子供をそう呼び習わしている。幼子は死にやすいものであるにもかかわらず、銀眼の子供はほとんどが成人し、なにか優れた才能、“神才”を持つので、神に愛された子供とされているのだ。
「人を見るなり笑うなんて失礼だ」
「ごめんって」
謝っているようには聞こえない。
ラクシオの不満げな顔を見て取ったのか、レインは白い服の裾をはためかせながらラクシオのすぐ前までやってきて必要以上に顔を近づける。こうなるとラクシオは顔が真っ赤になりそうなのを誤魔化しつつ、「次からは気を付けろよ」と言うしかないのだ。レインがこうなることを狙ってやっているんだとは分かっているけれど。
ラクシオが顔を洗っている間、レインはほっそりとした足を水に付けていたので、服で顔を拭ったラクシオはレインに尋ねた。
「レインはこんな所にいていいのか? 明日からは夏至祭だから、準備があるだろう?」
毎年、夏至を最終日にした三日間、砂漠の各邑では盛大な祭りが開かれる。邑長の家系の娘が神に雨を乞い、若者たちが剣舞を捧げて災厄を払う。料理が行商人にも振舞われ、若い男女の出会いの場にもなる祭りだ。
邑長の一人娘たるレインは、儀式の初日からオアシスの中島に作られた神殿に篭り、最終日に笛と舞を披露する。どちらも一流であるのに加え、この美貌だ。最初に神事を請け負った十年前から人気を集めている。
ラクシオも今年から剣舞に参加することになっていた。普通なら練習にいそしむところだが、幼いころから棒きれを振り回していたラクシオなので、基本は出来ている。したがって、練習はさっさと終わっていた。
「いいのよ。どうせ去年までと同じ事やるんだから。あ~あ、わたしもお祭り見物したい」
「ご愁傷様。じゃあ俺、邑長に雑用を仰せつかっているから」
レインが神事をやらなかったら年に一度の雨が降らないかもしれないので、ラクシオにレインの我侭に付き合う気は無い。雨が降らなければ、オアシスも涸れてしまうと伝え聞いている。
「え、行っちゃうの?」
きょとんとして尋ねてくる少女に、ラクシオは悪戯っぽい表情で、
「うん。抜け出すと後が怖いからさ」
と告げて、邑長の待つ屋敷に向かって走り出した。
地面の熱さに、靴を履いてこなかったことを後悔するころ、ラクシオは邑長の屋敷に到着した。
レインも住むこの屋敷は、邑で唯一軒、木造だ。恵みの雨が降っても痛まないその家が、ラクシオは羨ましくて仕方ない。足腰の弱ってきた祖母と二人で家の溶けた壁や屋根を修繕するのは、時間がかかるし辛いからだ。
「ラクシオ、参りました」
家の中に入る前に、足の爪先を二度地面に振り下ろす魔除けの仕草をする。こんなものに意味があるのかは不明だが、やらなければ怒られる。邑長は素行にうるさい。あの頑固親父からどうして儀式を抜け出したがる娘が生まれるのかは、ラクシオの中で最も解けそうに無い疑問だったりする。
中から返事は聞こえなかったが、ラクシオは入り口の掛布を潜って日陰に入った。貴重な木の床はひんやりとしていて、砂っぽさがない。実に羨ましい。
邑長は出かけているのかと思ったのだがそうではなかった。部屋の奥に、木枠に色とりどりの布を張った仕切りが置かれており、その向こうに複数の男たちが座っている。屈強な男たち――半数は剣を身に着けている――が集まる中で、邑長も神妙な顔をして座っていた。一度レインに縁談が来たときもこんな顔をしていたけれど、それなら武装した男たちが集まっているのはおかしい。
だれもラクシオに気付いていないらしく、張り詰めた空気のまま話し合いは進む。
「それでは、南邑の民は……」
邑長が苦しげな声で正面の男に問いただした。正面の男は居住まいを正し、それに負けないほど重々しい声で答えた。
「この少女を残した全員が“影”に喰われたようです。しかしこの娘は、あまりの恐怖にか言葉を忘れてしまったようで……」
よく見ると、壁際に一人の女の子が座っている。年頃はラクシオやレインより五つ六つ幼い。それなのに、見ていてぞっとするほど表情が無かった。
「哀れな娘だ。我が妻に世話をさせよう。……して、例の物は?」
「こちらにございます。しかしこの剣、どのようにしても抜くことが叶いませぬ」
そう言いつつ男は、白い布で丁寧に包まれた棒状の物を差し出した。ラクシオが剣舞の稽古に使ったのと似た大きさの剣だ。
邑長は深いため息をついた。
「神より賜りし神剣も、使い手がいなければ役立たぬ。他の手を講じねばな。……では引き続き任に当たれ。明日からは夏至祭が始まる。この邑は守り抜くのだ」
「確かに」
男たちは邑長を除いて全員が立ち上がり、ラクシオが入ってきたのとは反対側の出口から出て行った。外は明るいのでその姿は直ぐに逆光で見えなくなったが、彼らの装飾品や剣がたてる音が聞こえなくなるまで、ラクシオはその出口を呆然と眺めていた。
「聞いていたのか」
呆けていたラクシオに、邑長は座ったまま声をかけた。咎めるような口調ではないが、居心地の悪さを感じる。
邑長が手招きするので、ラクシオは近寄って床に腰を下ろした。壁際には、先ほどの少女もいる。やはり、表情はない。
“影”とは、この砂漠に出没する怪物のことだ。形は人に似ているが、表面が滑らかで、色が無い。身の丈は人間の何倍も長く、全体的に細い。夕暮れ時の影法師を想像しておけば、大凡同じような姿だと考えてよい。その点では、正しく影だ。
そして“影”は、時折人里離れた場所にふらりと現れ、旅人を襲う。その長い腕に捕まえられた人間は発狂し、終には命を落とす。砂漠の民にとっては太陽から身を守ってくれるはずの影を、恐怖の対象に変える存在だ。いくら旅人が足掻こうと、超然とした力で捕らえ続けられる。そして“影”には、刃も毒も通用しない。
“影”に捕まり死ぬことを、「影に喰われる」と言うのだ。
「邑長、南邑が襲われたって……」
幼いころから砂漠の民は、“影”の恐ろしさを繰り返し語られる。大抵の相手になら腕っ節で立ち向かうラクシオとて、刃も毒も効かない相手は恐ろしい。
邑長は疲れた表情で頷き、長いため息をついた。
「祭りが終わるまでは伏せておきたい。いいな?」
「はい。……でも、“影”が邑を滅ぼすなんて、聞いたことがありません」
そもそも、ラクシオは“影”の存在すら疑っていたのだ。語り部の老婆の恐怖心に満ちた声と、彼女の弟が“影”に喰われた話は耳に残っているが、その老婆も「ここ数十年、“影”は現れていない」と言っていた。
「事実だ。しかもその邑は、太古の昔、神より授かったと伝わる神剣を奉じていた」
邑長は座右のそれを手に取り、巻かれた白布を丁寧に解いた。中から、見事な細工の鞘と柄が姿を現す。鞘はおそらく銅で、細い金色の線で緻密な幾何学模様が描かれている。柄に巻かれた真紅の紐は、染めたてにも見え、年季の入ったものにも見える。
「その剣、抜けないんですか?」
「ああ。試してみるか?」
神宝だから触るなと言われるかと思ったが、あっさり渡される。
ラクシオは渾身の力を込めて剣を抜こうとしたが、剣身と鞘は一体化してしまったかのように、少しも動かない。抜けないまま振ったり突いたりしてみたが、何も変わらなかった。
あまり期待していなかったとはいえ、些かがっかりした。
抜けない以上は返すしかないので、ラクシオは邑長の顔を見上げた。すると、邑長も残念そうな表情をしているではないか。
「……そうか。お前でも抜けないか」
「何の話ですか?」
訝しげにラクシオが聞き返すと、邑長はわざとらしく咳払いをした。
釈然としない思いはあったが、ラクシオはレインほど口が達者ではない。言い募る間合いを逃したまま、邑長に話を摩り替えられた。
「そうだ、ラクシオ、今年は雑用をする必要は無いから、祭りが終わるまでその娘を見ていてくれないか。妻も私も、これから忙しくなる」
そういって指差したのは、壁際に座ったままこちらを無感動に眺める少女。
「……承知しました」
雑用は面倒だし、少女のことも気になってはいたので、願ったりではある。適当にあしらわれた感はあるけれど、素直に引き下がっておくことにした。
「では、頼む」
邑長は少女に気遣うような視線を向けると、踵を返して館を後にした。