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飲み屋で

「……しかし、お母ちゃんが入院したときはオレ、泣いたなあ…」





―真希10歳、留花8歳 父克哉39歳の苫小牧での冬―



幼い姉妹に気づかずバックし続ける白い乗用車、


逃げても迫り続ける車にふたり姉妹は気が動転して、動けなくなっていた。


それに気づいた克哉はとっさに満身の力を込めて

バックしてくる車を押し返した。


父と娘が緑町の定食屋で夕食を取り終えた帰り道での出来事だった。




この年、母淑子は市内の精神病院に入院した。



ある冬の日、

母親が

傷のついたレコードが何度も同じ箇所を珍妙に奏でるようにブツブツと独り言を、時には妙に甲高い声を発しながら朝食の支度をしているのを、姉妹三人は怯えながら見ていた。


近所の主婦仲間との人間関係が原因の発病だった。



末っ子の依子はまだ二歳と幼いことから、小樽の淑子の実家に預けられた。



母は入院の前に娘たちがさびしくないようにと、


家計をやりくりしてオルガンを買い自分のかわりに家においた。



上二人の娘たちは初めて母のいない冬を父と過ごした。


昼食は学校の給食。


夕食は父が帰宅してから

親子三人で線路向こうの緑町の定食屋によく行った。


朝食はどうしていたのか、覚えていない。


食べない朝もあったと思う。


留花が後に

‘お腹が空いて給食の時間まで水ばかり飲んでいた’と言っていたから。


母親のいないあまりに散らかり放題になった部屋をみた父克哉が

涙をポロポロこぼしながら

真希と留花に「お母ちゃんがいないぶん、しっかりやらなきゃダメだろう?なっ?」


幼い姉妹は、部屋を散らかして叱られたということよりも、初めてみる父親の涙にただただ驚いていた。



この冬、克哉は深酒をして部屋のストーブの前で寝入ってしまい、膝がストーブに当たり火傷しているのにも気づかぬくらいに泥酔していた。


骨が見えるくらいに肉が焼けていたが、病院には治療に行かなかった。


妻の入院費用で余裕がなかったのだ。



緑町での真希と留花が、夕食の帰り道で白い乗用車に引かれかけたのは、この時期だ。


妻の入院と幼い娘たちの世話に父克哉は疲れ果てていたのだろう。



―真希、これ食え、―

克哉は自分でオーダーしたホッケを真希にすすめた。




「…男が一度長く勤めた会社を辞めれば、だめよ…」


酔いのまわりはじめた克哉は自嘲気味にそう言った。


真希があまりに父親に愛想がないだけに、克哉は間がもたず杯ばかりすすんでしまっている。


他の客と談笑していた女将が、それとなく親子の空気を感じ取ってさりげなく声をかけてくる。


「そういえば佐伯さん大変なんだわよね。元気出してよ、お嬢さん一緒なんだから、ネッ真希さん」

タコちゃんの声かけにようやく真希は顔に笑みを浮かべた。



「タコちゃん、オレの最大の不幸はなあ、あの女房と一緒になったことなんだよ」


真希 27才 克哉 56才―ホーム入所18年前―


真希は大学を卒業し社会人になっていた。


仕事を終え、駅からバスに乗ると、克哉も偶然このバスに乗っていた。


父は車があるはずだがどうしたのか―


そう思っていると、二人が降りるはずのバス停の二つ手前で克哉が


「おい、降りよう。ちょっと飲んでいかないか?」


いつもなら断ってしまうのだが、

今夜の克哉は、それをするのがなぜか憚られた。すがるような目…いまは一人でいることに耐えられないような。

相手をしてやらなければ…お父ちゃんに…。

真希は黙って克哉とバスを降りた。


‘しもきた’という白地に黒い字で書かれた店の名。


女将は青森の下北半島から出てきたのでこの名前になった。


女将の愛称は‘タコちゃん’と呼ばれていた。

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