閑話2 零の間の観測
零の間は、今日も“何もない”はずだった。
――なのに。
並べておいたはずの動物ぬいぐるみたちが、少しだけ寄っている。
まるで、中心を囲むみたいに。
中心にいるのは、もちろん狐のぬいぐるみ。
「……おぬしたちは、勝手に動くでない」
レグナはむすっとしながら、狐ぬいを抱き上げる。
いつも通り、いちばん近くに。いちばん大事に。
「……おぬしは、かわいいのぉ」
ぎゅう、と抱きしめて頬ずりする。
「おぬしは、よい子じゃ。ほんに……よい子……」
返事はない。
それでも妾は、話すのをやめられない。
レグナは指先を上げた。
虚空に、薄い膜が張られる。
観測窓。
水鏡のように揺れ――彩界の景色が映る……はずだった。
だが像は、最初から“端”が欠けている。
丸い窓ではない。誰かの視界の縁を、無理やり切り取ったみたいな形。
(……そうじゃ)
観測窓は万能の眼ではない。
刻印で繋がった者の“見ている周辺”――その縁だけを借りる穴だ。
見たければ、誰かの目を借りねばならぬ。
女王の眼でありながら、女王の眼ではない。
窓の像が落ち着く。
夕焼けの校庭。砂埃。折れたフェンス。
逃げ遅れた生徒たちの“声にならない声”。
そして――その中心。
霧童が笑っていた。
つまり今、妾は“ネブラの周辺”しか見られない。
「へー。折れないんだ。ちっちゃくてムカつくくらいかわいいねぇ」
足が上がる。
とどめの動き。
窓の中で、狐耳の個体――宵宮ひよりが倒れかけている。
黒いフリルが砂に擦れて、汚れているのに。
……リボンだけは、まだ綺麗に揺れていた。
その揺れが、胸の奥を刺した。
(妾の零が滲めば――あれが最初に薄れる)
考える前に、声が出た。
「や、やめるのじゃ!!」
言ってしまってから、自分で自分に凍りつく。
(だめじゃ)
(女王が、こんな声で命令など……)
喉が詰まる。胸が痛い。
狐ぬいを抱いた腕に、力が入る。
窓の像が、ざらりと揺れた。
ネブラが一瞬だけ顔を背けたのだろう。
借り物の視界は、借り物のまま揺らぐ。
(……見たいのに、見えぬ)
妾は慌てて背筋を伸ばす。
深く息を吸う。声の温度を落とす。
“女王”の声音を作る。
「……ネブラ」
その瞬間、観測窓の縁で刻印が灯った。
呼び戻しの印。撤退の刻印。
刻印リンクの上を、命令が走る。
校庭のネブラが眉をひそめた。
『えー。今いいとこなのに』
レグナは目を細める。表情は動かさない。
「撤退せよ」
『……は? マジで?』
ネブラの口は悪い。態度も軽い。
だが――刻印の向こうの“陛下”から、目だけは逸らさない。
『だってさ、今から――』
「……妾の命令が聞けんのか?」
声をさらに冷やした。
零の間の空気が、ほんの少し重くなる。
ネブラの笑みが消える。
舌打ちしそうな顔で、でも――ちゃんと従う顔になる。
『……聞けます。聞けますとも。陛下が言うなら』
「遊びは終いじゃ。すみやかに戻れ」
『……ちぇ』
ネブラは最後に、窓の中の校庭を見た。
線の内側で、ひよりが震えている。
別の個体――如月かなでが前に立っている。
『またね、ちび狐』
その言葉だけ落として、影が裂ける。
刻印の光に呑まれて、ネブラの姿が薄れていく。
――消えた。
同時に、観測窓の像も崩れる。
刻印リンクが切れたのだ。
借りていた視界が、消えた。
レグナは、思わず指先を伸ばす。
(……まだ見たい)
(あの子が、倒れたままなのか)
(リボンが、まだ揺れているのか)
だが見えない。
妾の眼は、誰かの眼を借りねば開かぬ。
「……っ」
息を吐いた。ようやく吐けた。
「……ふぅ……」
そして次の瞬間。
さっきまでの冷たい声が、いとも簡単に崩れる。
「……よかったのじゃ……」
狐のぬいぐるみを抱きしめ直して、頬ずりする。
「おぬし、聞いたか? いま妾、よいことをしたのじゃ」
少し間を置いて、小さく付け足す。
「……ほっとしたのじゃ……」
胸のあたりを押さえて、もごもご言う。
「べ、別に……妾が、あの子のことを……心配したわけでは……」
「ただ……かわいそうじゃっただけじゃ……」
言いながら、もう一回、ぎゅっと抱く。
抱きすぎて、慌てて緩める。
「……すまぬ。いたかったか」
(返事はない)
「……そうか。よかった」
すると零の間の外――私室側から、控えめな気配がした。
「……陛下」
侍女長の声。
低く、静かで、揺れない。
レグナは反射で狐ぬいを抱え直す。
――触れさせぬ。これは例外だ。
「入れ」
裂け目の外、私室の空気が少しだけ混じる。
侍女長は境界の手前で止まり、目を伏せたまま言う。
「撤退の刻印、通りました。静衛にも観測継続の命、回っております」
「……うむ」
そこまでは女王の声。
他の侍女の気配がないのを確かめた瞬間、レグナは声を落とす。
「……心臓が、うるさいのじゃ」
侍女長は表情を変えない。
けれど言葉だけは、いつもより柔らかい。
「陛下の胸が鳴るのは、当然でございます」
その“当然”のあと。
侍女長の視線が一瞬だけ、閉じた裂け目の縁――境界の“位置”を確かめた。
確かめて、すぐ戻る。何事もなかったように。
レグナは気づかぬふりをして、狐ぬいの耳を指でつまむ。
「……ネブラのやつ、最後に“ちび狐”とか言いおって」
「妾の前で言うならまだしも、妾のいないところで言うの……ずるいのじゃ」
侍女長は一拍置いて、淡々と返す。
「霧童殿は、わざと陛下を苛立たせる癖がございます」
「……知っておる」
知っている。
知っているのに、胸がざわつく。
レグナは小さく息を吐いて、侍女長を見ないまま言った。
「……助かったのじゃ。ありがとう」
侍女長は、ほんの僅かに頷く。
「……お役に立てて、何よりでございます」
言葉は丁寧なのに、どこか“含み”がある。
――それが何なのか、レグナは考えないことにする。
考えたら、零の間がもっと寒くなる。
「……下がれ。必要なら呼ぶ」
声を女王の温度に戻す。
侍女長は一礼し、音もなく退いた。
私室の“生活”が遠のき、零の間に零だけが残る。
レグナは狐のぬいぐるみに頬を寄せた。
「おぬしは、妾の味方じゃろ……?」
返事はない。
だからレグナは、勝手に頷く。
「……止めぬな」
「おぬしは、妾にやさしい」
「……ずるいな」
そして、いちばん子供っぽい願いを小さく落とす。
「妾も……かわいくなりたい」
「……だめかのぉ……?」
零の間は何も返さない。
だからレグナは狐ぬいを抱きしめて、少しだけ丸くなった。
「……おぬしは、ここにおれ」
「妾は……明日も、がんばるのじゃ」
その言葉だけは、子供っぽくならなかった。




