第5話 勝てない!?敵の撤退命令。
夕焼けの校庭に、銀の線が走っていた。
内側と外側。戦場と退避。境界が引かれただけで、空気の温度が変わる。
プリズム・セイバー――如月かなでは、左腕の星章バックラーを前に、右手の細身の剣を水平に構えていた。
姿勢は崩れない。呼吸も乱れない。けれど、足元の線が薄く揺れている。
線の内側。
宵宮ひよりは、まだ立っていた。いや、立っている“だけ”だった。
膝が笑い、喉が震え、胸の奥が痛い。
さっき、確かに“もう一人”の気配が背中を支えたはずなのに――今はそれすら遠い。
(……怖い)
(でも……ここで倒れたら……)
少し後ろで、朝倉ひかりの声が飛ぶ。
「ひよりも早く逃げて!!」
ひよりが一歩下がろうとした、その瞬間。
空気が薄くなる。
耳が拾った。
見えるより先に、気配が“笑った”。
ネブラ。
軽い声。生意気な笑い。夕焼けの中で、影だけがやけに濃い。
「うわ、まだやってんじゃん。こわ〜」
ネブラは銀の線を見下ろし、かなでを見て、ひよりを見た。
面白い玩具を見つけた目をしている。
かなでの声が飛ぶ。端的で、まっすぐだ。
「……あなたが、ここの責任者ですか」
ネブラは肩をすくめた。
「責任者とか言っちゃうんだ。お嬢さんって感じ」
かなでは一歩、前へ出る。
「――ここから先は、通しません」
ネブラが笑う。
「へぇ。お嬢さん、前に出るんだ」
その瞬間だった。
ひよりの胸元――プリズムハートコアの虹光が、沈んだ。
水に落ちるみたいに、光が奥へ引きずり込まれる。
「……え?」
声が漏れるより先に、身体が重くなる。
軽さが、強さが、背骨から抜ける。
全身を走っていた薄い発光ラインが、ぷつ、ぷつ、と消えていく。
リボンは刃の気配を失って、ただの布に戻った。
衣装は消えない。
でも――“戦える感覚”だけが抜かれた。
「……っ、やだ……!」
(解除じゃない)
(奪われた……?)
ネブラは、ひよりを見もしない。
かなでだけを見て、指先を軽く振った。
「じゃあ虹の子、一回“沈んで”て」
その言い方が、ぞっとした。
まるで、スイッチを切るみたいに。
ひよりの口が、さっきまでみたいに勝手に笑えない。
♡が、出ない。
代わりに――素の声が漏れた。
「……やだ……こわい……」
ひよりは膝をついた。耳も、しっぽも力なく垂れる。
胸が痛い。息が浅い。
(ここで……終わる……?)
その“終わり”の手前で、胸の奥がかすかに鳴った。
(……息)
聞き覚えのある気配。
さっき、共同運転でハンドルを半分こした――あの“もう一人”。
(吸って。吐いて。……今は倒れない)
ひよりは歯を食いしばり、浅い呼吸を無理やり整える。
立てない。けど、崩れない。
かなでの視線が一瞬だけ、ひよりへ飛ぶ。
けれどすぐに戻る。線を守る目に戻る。
「朝倉さん。宵宮さんを下げてください」
ひかりが息を呑んだ。
「え、う、うん!」
ひよりは立てない。
ひかりが肩を抱え、引きずるように線の内側を移動させる。校舎の影――人の少ない場所へ。
「ひより、こっち! ね、落ち着いて!」
「……やだ……」
ひよりは声を震わせた。怖い。痛い。息が浅い。
その背中に、校庭の音が叩きつけられる。
金属音。
結界の発光。
地面を滑る気配。
かなでとネブラが、もう動いている。
かなでは盾を前に出し、線を“厚く”する。
足元の銀の幾何学ラインが淡く光り、内側に薄い壁が立つ。
ネブラが、その壁へ歩くみたいに踏み込んだ。
カン。
壁が鳴った。
かなでの腕に、重い衝撃が抜けていく。
(……重い)
ネブラは手ぶらだ。
それなのに、防御が“叩かれた”感覚だけが残る。
「結界、便利だね。お嬢さん」
かなでは即座に突く。
刺すためじゃない。近づけないための“線”。
ネブラはそれを、指で挟んだ。二本の指で。
簡単に。
「へぇ」
挟まれた瞬間、かなでの手首が痺れる。
握力が抜けそうになる。
ネブラが指先で弾いた。
カンッ。
剣が横へ跳ね、かなでの身体が半歩ずれる。
背中の線がざわ、と揺れた。
(崩される)
かなでは即座に盾を床へ当てる。
カン。
銀の線が再び走り、足元に円形の星紋が浮く。
防御ではなく“固定”。自分の足場を作る。
ネブラが笑った。
「まじめ〜」
次の瞬間、ネブラの足が“いなくなった”。
見失った――と気づくより先に、圧が来る。
かなでは反射で左側を守る。盾が鳴る。
ゴン。
受けたはずなのに、足が滑る。砂が飛ぶ。線が一瞬細くなる。
「っ……!」
ネブラの声が、耳元。
「反応、早」
かなでは距離を取ろうとする。
その瞬間、足元に薄い刻印が灯った。
ズン、と足が重くなる。踏み込みが半分死ぬ。
(……拘束)
ネブラが楽しそうに言う。
「逃げられないようにしといた。だってさ、面白いじゃん」
かなでは表情を変えない。
「撤退の余地が消えました。――つまり、ここで止めるしかありません」
「かっこつけてる〜。お嬢さん、好きそう」
ネブラが軽く指を弾く。
空中に刻印が浮き、銀の線にノイズが走った。壁が、ほんの一瞬薄くなる。
その隙。
ネブラが前へ滑る。
かなでの間合いの外側から、線の内側の中心――ひよりのいた方向へ。
ひよりの胸が、きゅっと縮む。
(来る……!)
かなでは盾を叩きつけた。
カンッ!
壁が立つ。ネブラの動きが、ほんの僅か引っかかる。
その一瞬を、かなでは逃さない。
剣の鍔がひらき、刃が伸びる。
――槍。
突きの制圧。
一点で押し戻す、最短の選択。
ネブラの胸へ、真っ直ぐ。
ネブラは避けない。
避けずに、手のひらで受けた。
金属が悲鳴を上げる。
「お」
ネブラが目を細めた。
「当てた。えらいじゃん」
褒めているのに、馬鹿にしている。
槍が止まる。押せない。刺さらない。
ネブラが手のひらを返す。
ぐい、と力の向きがひっくり返り、かなでの身体が前に引かれる。
「っ!」
かなでは盾で床を叩く。星紋が光り、足元が固定される。
倒れない――が、次が来る。
ネブラの膝が、かなでの腹に入った。
息が止まる。内臓が揺れ、視界が滲む。
それでも、かなでは線の前から退かない。
(押されている)
(勝てない)
(でも――守る)
ネブラが、楽しそうに囁いた。
「いい顔してるよ、お嬢さん。必死で」
そして、目線だけが校舎の影へ流れる。
かなでは一歩、前に出て遮る。
「……そちらは通しません」
ネブラがため息をついた。
「ねぇ、そろそろ飽きてきたんだけど」
足が上がる。狙いは壁ではない。
かなでの“間合いの内側”。
「目障りだし――そろそろ消えてもらおうか」
かなでは盾を叩く。カンッ。
壁が立つ。ネブラの足が壁に当たって止まる。
その一瞬で、かなでは突いた。
刺さない。殺さない。押し返すための一点。
ネブラの頬をかすめた。
ほんの一筋、赤い線。
ネブラが指先で触れ、赤を見て笑う。
「……やるじゃん」
かなでは息を吐いた。
「牽制です。――下がってください」
「うん。牽制だね」
ネブラは笑ったまま、声の温度だけ落とす。
「でもさ。牽制って“倒せない”って意味でもあるよね?」
かなでの瞳が揺れる。揺れたのは一瞬だけ。
「……承知しています」
ネブラは壁の向こう、校舎の影を見て口角を上げた。
「じゃ、壊れかけの方、もう一回見よっか」
かなでは盾を叩く。叩く。叩く。
カン、カン、カン。壁を張り直すたびに腕が重くなる。
――そして。
ネブラの足元の刻印が、勝手に灯った。
「……は?」
呼び戻しの印。撤退の刻印。
それはネブラ自身の気まぐれじゃない。
“上”からの命令刻印だ。
ネブラの笑みが、ほんの少しだけ引っかかる。
「えー。今いいとこなのに」
刻印は消えない。命令は命令だ。
ネブラは肩をすくめ、かなでを見る。
「お嬢さん、続きはまた今度ね」
最後に、校舎の影へ視線を投げる。
「またね、かわいいの」
ひよりの胸が、きゅっと縮む。
(見られた)
(遊ばれた)
刻印の光が弾け、影が裂ける。
ネブラは裂け目に半身を沈めながら笑った。
「今日は退くけどさ。次、もっと面白くして」
消えた。
世界の膜が、ぱり、と割れる。
重さが消え、音が戻り、夕焼けが“現実”に戻ってくる。
かなではすぐに線を消さない。
周囲を確認する。残滓。追加の敵性反応。避難経路。
全部を拾って、ようやく息を吐いた。
「敵……撤退しました」




