第3話 正体バレ!?恥ずかしくて死んじゃいそう
朝のキッチンは、いつも通りの匂いがした。
トーストの焦げる匂い。湯気の立つマグカップ。ママの足音。
――いつも通り。
そうであってほしいのに、ひよりの首元だけが昨日のままだった。
服の内側に、冷たい存在感。
チョーカーの感触が「夢じゃない」と言ってくる。
(昨夜、“静かに変身する練習”もした。……無理だった。光は勝手に漏れる)
「おはよ。ちゃんと寝れた?」
ママが振り返って、いつもの声で聞いた。
ひよりは、一拍遅れて頷く。
「……うん」
嘘だった。
目を閉じるたびに、拳の風圧と白い光が戻ってくる。
眠りの底に落ちる前に、現実が引きずり上げてくる。
そして――テーブルの向こう。
ママの腕の中に、ぬくぬく丸まった小さな生き物がいた。
ラッコみたいな見た目の、げんえんさん。
「おはよ」
当たり前みたいに挨拶してくるのが腹立つ。
ひよりは目だけで睨んだ。
(おはよじゃない)
「……学校、行くから」
ひよりは小さく言う。
「……来ないでね」
げんえんさんは「うん」と頷いた。
頷いたけど、信用はゼロだ。
ママがそのやり取りを見て、ふっと笑う。
「……仲、いいわね」
「よくないっ」
反射で声が跳ねて、ひよりは自分の大きさにびくっとした。
ママは笑ったまま――すぐに心配そうな顔に戻る。
「大丈夫? 本当に」
「……だいじょぶ」
言葉だけが先に出て、中身がついてこない。
(学校だけは普通にする)
そう思っている時点で、もう普通じゃないのに。
⸻
校門が見えたころ、前から手を振る人影があった。
「ひより! おはよー!」
朝倉ひかり。
明るい声。いつも通りのテンション。
それが、少しだけ胸をゆるめる。
「……おはよ」
ひかりは近づいてきて、ひよりの顔を覗き込んだ。
「ん? 顔色わる。大丈夫?」
「だいじょぶ、だいじょぶ」
ひかりは笑いながらも、目が鋭い。
「うそだ〜。無理してない?」
(やめて)
優しさが刺さる。
昨日のことを言葉にした瞬間、現実が固定されそうで怖い。
ひよりは視線を逸らして、逃げるみたいに言った。
「……早く行こ」
「はいはい、逃げた」
ひかりは笑って合わせてくれる。
合わせてくれるのが、痛い。
⸻
放課後。
校庭には部活帰りの生徒がまだ残っていた。
ボールの弾む音、掛け声、笑い声。夕方の空はオレンジ。
――その“いつも通り”が、割れた。
遠くで破裂音。
次に、空気が一枚薄くなる。
色が、ほんの少し抜けた気がした。
「え、なに!?」
「やば、あれ……!」
校庭の端。フェンスの向こう。
黒い影が、地面から押し出されるみたいに現れた。
人型に近い。けれど人じゃない。
関節が歪で、動きがぎこちない。
影が固まって生き物になったみたいな質感。
虚獣。
ひよりの胃が、ぎゅっと縮む。
(また……)
「全員、校舎の中へ! 走って!」
声が通った。
如月かなで。
普段は落ち着いてるのに、今は違う。
状況を見た瞬間に切り替わっている。
「固まってる人! こっち!」
「走れる子は先に行って! 押さないで!」
かなでは視線を動かしながら、逃げ遅れを拾っていく。
守る動きが、あまりにも自然だった。
ひかりもすぐに動く。
「こっち! 階段は押さないで!」
「走れる子は先に!」
声がよく通る。
ひかりの“いつもの強さ”が、今は頼もしい。
ひよりも動こうとした。
足を前に出そうとして――
転ぶ生徒がいた。
尻もちをついて、立てない。
虚獣が、その方向へ動く。
かなでが即座に駆け寄った。
「立てる? ……よし、掴んで!」
腕を引き上げ、生徒を背に回して押し出す。
その背中に、虚獣の影が迫る。
「会長! そっち危ない!」
ひかりの声が飛ぶ。
かなでは振り返らず、手だけで合図した。
「朝倉さん、誘導お願い! 後ろ見て!」
「わかった!」
ひかりが走る。
生徒の列をまとめて校舎へ押し込む。
校庭の空気は、もう日常じゃない。
ひよりの呼吸が浅くなる。
「ひよりも早く逃げて!!」
ひかりの声。
(逃げたい)
逃げたいのに、足が固まる。
喉の奥が凍る。
そのとき。
ひよりの耳元に、丸い声が落ちた。
「来たよ」
(……っ)
げんえんさんの声。
視界の端に、ふわりと白い輪郭がいる気配。
ひよりは、息だけで言った。
「……やだ……」
げんえんさんは淡々と返す。
「ひより、変身だ」
背中がぞわっとした。
「ここで!? む、無理……!」
校庭だ。
人がいる。会長がいる。ひかりがいる。
でも、それ以上に――
(あの格好を見られるのが無理……!)
正体がバレるより先に、羞恥が先に来る。
“晒される”って感覚が、息を詰まらせる。
「……やだ、見られたくない……」
げんえんさんが首を傾げる。
「命と、恥ずかしいの、どっちが先?」
「……恥ずかしいのが先……!」
言ってしまって、ひよりは泣きたくなった。
自分が情けない。
げんえんさんはやさしい声のまま、刺してくる。
「命じゃない?」
ひよりは必死に言い返す。
「だって……あんなの……見られたら……」
「恥ずかしくて……しんじゃう……」
げんえんさんは校庭を見て言った。
「もうそんなに人はいないよ」
確かに、大半は校舎へ逃げている。
残っているのは逃げ遅れた数人と――
会長と、ひかり。
一番見られたくない二人が、残ってる。
虚獣が、地面の瓦礫を掴んで投げた。
狙いは――かなで。
「……っ!」
かなでが身構える。
逃げ遅れを押し出した直後で、体勢が悪い。
ひかりの叫びが弾けた。
「会長!!」
ひよりの内心が叫ぶ。
(やめて……!!)
げんえんさんの声が、耳を打つ。
「今」
――選べない。
ひよりは首元へ手を伸ばした。
「……やだ……でも……!」
指先が冷たい石に触れた。
カチッ。
小さな音。
世界が一瞬だけ虹色に歪む。
光のラインが走る。薄い紋様が肌の内側から浮かび上がる。
プリズムの屈折が空気を切り替える。
ローズピンクと黒。
フリル。レース。編み上げ。厚底。
胸元のチョーカー中央で、ハート石が虹光を揺らす。
耳の輪郭にレース状のヴェール。
しっぽの根元に虹色のリング。
(……やだ)
(また……勝手に……)
名乗りが喉まで来る。
恥ずかしさで、息が止まりそうになる。
――瓦礫が、かなでに届く。
ひよりの身体が先に動いた。
左手が前に出る。
結界紋様が走り、虹の屈折が空気を歪める。
瓦礫の軌道が“弾かれ”、斜めに逸れて地面に突き刺さった。
砂が跳ねる。
かなでが一瞬、息を呑む。
「……なに、いま……」
ひよりの口が、勝手に開いた。
「は? そんな遅いの、当たる方が悪いっしょ♡」
(言ってない!!)
内心が叫ぶのに、声は甘くて強い。
変な余裕が混ざる。強がりが漏れる。
かなでが、目の前で硬直する。
「……宵宮さん……?」
ひよりはその視線を受け止められなかった。
守ったのに、いまは“見られている”ことが苦しい。
ひよりは反射で一歩下がり、距離を取ろうとする。
後ろから、ひかりが駆け寄ってくる声。
「ひより逃げなくちゃ!!」
「どこ行くの!? ひより!!」
かなでは一歩踏み込み、言葉を探すみたいに――それでも結局、見たままを言った。
「……宵宮さん。その格好……」
その後ろで、ひかりの声が跳ねる。
「え? ひより?? かわい……!」
(やめて)
(褒めないで。見ないで。いまそれどころじゃない……!)
ひよりの奥歯が、ぎりっと鳴る。
表情を押さえようとして――押さえられない。
(怖いのに、笑ってる)
(やめてよ……)
口が、勝手に強がる。
「見てんじゃねーよ、ざぁこ♡」
(最悪!!!!)
――その瞬間、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
違う。
それを言いたい相手は、そこじゃない。
かなでもひかりも、敵じゃない。
(止めたい)
止めたいのに、喉が勝手に笑う。
視界が滲む。
そのとき。
“内側”から、同じ声が落ちた。
(……息)
ひよりは、息を吸う。
吐く。
浅い呼吸が、少しだけ深くなる。
(……一緒に)
昨夜の夢の、感覚。
“もう一人”が、背中側から手を添えてくるみたいに。
(ハンドル、渡すな)
(握れ。いまは――手)
ひよりは震える指を、ぎゅっと握りしめた。
言葉じゃない。
“動き”で自分を取り戻す。
ひよりは一歩だけ、前に出た。
跳ばない。
重心を落とす。地面を感じる。
かなでとひかりの視線が刺さる。
恥ずかしさが喉を締める。
それでも。
(……守る)
ひよりの目が虚獣へ向く。
げんえんさんが、小さく言う。
「虚獣。……下級規格は“灰兵”って呼ぶよ。昨日のも同じ系統」
(いまそれどころじゃ……!)
でも、その一言で。
昨日と今日が、一本の線で繋がってしまう。
――終わってない。
始まったばかりだ。
虚獣が、地面を蹴った。
影の腕が伸びる。
狙いは――ひかりのほう。
「っ……!」
ひかりが身構える。
でも一般人の反射じゃ、間に合わない。
(だめ!)
ひよりの左手が先に出た。
結界じゃない。
“落とす”方向。昨夜ママの前で言われた、あれ。
薄い虹の屈折が、地面へ滑るように広がる。
影の腕が結界に触れた瞬間、力が真下へ逃げた。
ドン、と地面が鳴る。
影の腕が沈む。動きが止まる。
「……っ!?」
ひかりが目を見開く。
ひよりの口がまた勝手に笑いそうになる。
でも、内側の手が支える。
(言うな)
(言わなくていい)
(手でやれ)
ひよりは、右手のリボンに意識を集中した。
腰の後ろの大リボンが“武器”になる気配を持つ。
布が、刃にも縄にもなる。
ひよりは跳ばない。
踏み込まず、布だけを伸ばす。
パァンッ!
リボンが虚獣の腕へ絡み、次に脚へ回る。
二重、三重。締めすぎない。長く薄く。
虚獣が暴れる。
影がきしむ。引きちぎろうとする。
(ちぎれないで……!)
ひよりは息を吸って、吐いた。
同時に締める。
止まる。
虚獣の動きが、いったん“固まった”。
かなでが、息を呑んだまま呟く。
「……拘束……?」
ひかりが、混乱しながらも声を絞る。
「ひより……それ……何……?」
(答えられない)
答えたら、終わる。
恥ずかしさで死ぬ。
ひよりは視線だけで、二人を押し返した。
「……下がって」
声は小さい。
でも、それは“自分の声”だった。
かなでが一瞬、驚く。
次に、すぐ判断する。
「朝倉さん、下がって。校舎の中へ」
「宵宮さんは――そのまま、抑えて」
「え、でも……!」
「いいから!」
かなでの声が強くなる。
それが、ひよりには救いだった。
“見ないで”じゃない。“動いて”をくれたから。
ひかりが唇を噛んで、走り出す。
残っていた生徒も、それに続く。
校庭が、少しだけ空く。
ひよりは、やっと息ができた。
(……一緒に)
内側の気配が、黙って頷いた気がした。
ひよりは虚獣の胸元――黒い核の位置を見た。
(ここ)
(……終わらせる)
夕焼けの校庭で。
ひよりは逃げ場を失いながら、戦うしかない場所に立っていた。




