第2話 帰ったらそこにいた!?つかの間の安堵。
――変身が解けた。
フリルが消え、身体を満たしていた軽さが、すっと抜け落ちる。
ひよりは、その場に座り込んだ。
膝が震えている。
耳も、しっぽも、力なく垂れていた。
「……終わった……」
遠くで警報が鳴っている。
でもそれより、心臓の音のほうがうるさい。
顔を上げると、街が戻っていく途中だった。
割れていた道路が塞がり、崩れていた壁が、音もなく元に戻っていく。
白い粒子みたいな光が舞って、傷が“なかったこと”になる。
(……夢みたい)
夢じゃないから、怖い。
ふわり、と影が落ちた。
げんえんさんが目の前に降り立つ。
「もう大丈夫。戻したよ」
軽い。
あまりにも軽い言い方だった。
ひよりの喉の奥が、きゅっと縮む。
(直せるから、壊してもいい、みたいじゃん)
言葉にできないまま、ひよりは立ち上がった。
今はただ、家に帰って、日常に潜り込みたかった。
歩き出す。
数歩進んだところで、背中に、はっきりとした視線を感じた。
「……来てます、よね……」
少し間を置いて、呑気な声が返ってくる。
「うん」
最悪だ。
ひよりは小さく、でも必死に言う。
「……ついてこないで、ください」
「お願い、します……」
「えー」
「……お願い……ほんとに……」
声が震える。
怖さと疲れが混ざって、言葉がうまく固まらない。
「……帰ってください……」
歩調を速めても、背中の気配はぴたりと付いてくる。
息が苦しい。
「……来ないで……」
思ったより声が大きくなって、ひよりははっとして周囲を見回した。
誰もいない。もう、誰も。
「お願いだから……」
振り返らずに言って、そのまま歩き続けた。
しばらくして――背中の気配が、消えた。
「……帰った、の……?」
いなくなった。少なくとも、今は。
胸の奥が、ほんの一瞬だけ緩む。
その一瞬だけでいいから、呼吸を返してほしかった。
ひよりは足早に家へ向かった。
⸻
玄関の前。
鍵を差し込む手が少し震えている。
金属の冷たさが、現実を連れてくる。
「……ただいま」
「おかえり、ひより」
ママの声。いつもの声。
それだけで、少しだけ戻ってこられた気がした。
靴を脱いで、リビングへ。
ママがキッチンから顔を出す。
「大丈夫? なんだか疲れてるみたい」
「……うん。ちょっと、ね」
それ以上、言葉が続かない。
言ったら崩れる。
ひよりはそのまま自分の部屋へ向かった。
「先に部屋、行くね」
「うん。お茶淹れるから、落ち着いたら飲みなさい」
その優しさが、いまは痛い。
階段を上がって、廊下を歩いて、ドアの前に立つ。
(……鍵、ちゃんと閉めてたっけ)
どうでもいい。
どうでもいいのに、そういうことばかり気になる。
ひよりは扉を開けた。
「……はぁ……」
やっと一人になれる――
と思った瞬間。
部屋の中から、当然みたいな声がした。
「おかえり、ひより」
ひよりの背中が跳ねた。
ベッドの上。
ぬいぐるみみたいに丸いラッコが、ちょこんと座っている。
「……げ、げんえんさん……?」
(なんで、ここに)
息が止まる。
そして止まった分だけ、言葉がぶつかる。
「……なんで……ここにいるんですか……!?」
自分の声が思った以上に大きくて、ひよりは口を押さえた。遅い。
げんえんさんが首をかしげる。
「帰るって言ったから」
「帰るって言ったのは……私の家、で……」
「うん。だから、ここ」
「……だから、じゃ……」
頭の中が真っ白になる。
外での恐怖と、家に逃げたはずの安心が、ぐちゃぐちゃに混ざっていく。
「……ついてこないでって……言いましたよね……?」
「うん。ついてこなかったよ」
「……え……?」
げんえんさんは真顔で言う。
「先に来て、待ってただけ」
ひよりは息を呑んだ。
(言葉の罠みたいなの、やめて……)
震える手でドアノブを掴む。
閉めたかった。締め出したかった。現実ごと。
そのとき。
階段を駆け上がる音。
「ひより!? どうしたの!?」
ドアがノックされる。
背中に冷たい汗が流れる。
「……な、なんでもない!!」
声が裏返った。説得力ゼロ。
ママが一拍置いて、扉越しに言う。
「なんでもない声じゃない」
「開けるよ」
「待っ――」
ガチャ。
扉が開いて、ママが入ってくる。
そして――ベッドの上のげんえんさんを見る。
「……え?」
ママが固まる。
ひよりは喉が詰まって言い訳ができない。
げんえんさんが、ぺこりと頭を下げた。
「こんばんは。げんえんさんです」
ママが、ゆっくり瞬きをする。
「……喋った」
ひよりは枕を掴んで叫ぶ。
「喋るの!!」
ママはひよりを見る。次に、げんえんさんを見る。
そして、ひよりの顔色を見る。
「ひより。これ……どういうこと?」
ひよりは唇を噛んだ。
ここまで来たら、隠せない。
「……今日、公園で……」
喉が震える。
「怪人が出て……」
「街が壊れて……」
「私、殴られて……死ぬって思って……」
言葉が途中で詰まる。息がうまく吸えない。
ママの手が、ひよりの背中に触れた。
撫でるというより、支える。
ひよりはそのまま吐き出す。
「そしたら光が降って……この子が出てきて……」
「世界を守れって……断ったら、間に合わないって……」
ママの表情が曇る。
「ひより……」
声が優しすぎて、逆に胸が痛い。
ママは一瞬目を伏せて――不安を飲み込むみたいに言った。
「……ついに、幻覚まで見たのね」
ひよりの胸がきゅっと縮む。
「ち、ちが……!」
否定しようとした瞬間、げんえんさんが首をかしげた。
「幻覚じゃないよ」
沈黙が落ちる。
ママはゆっくり息を吐いて、言い直した。
「……ごめん。心配で、現実じゃない方向に逃げた」
「でも……現実だった。いま喋ってるものね」
ひよりの喉が震える。
「……信じる、の……?」
「信じる」
即答だった。
「ひよりが嘘つくときは、こんな顔しない」
「いまの顔、助けてって顔」
ひよりは耐えきれず、枕に顔を押しつけた。
「……やだ……」
ママの手が、頭を撫でた。
「やだよね」
「怖かったよね」
げんえんさんが平然と言う。
「ケガや壊れたものは直せるよ。……でもね」
嫌な予感で、ひよりが顔を上げる。
げんえんさんは、言葉を落とす。
「命が止まったら、もう直せない」
「そこまで言わなくていい!!」
ひよりが赤くなって叫ぶ。
ママが小さく息を呑んで、真剣な顔になる。
「それで……ひよりは、どうしたの」
ひよりは枕から顔だけ出して、吐くように言った。
「……変身……した」
「勝手に……口も……変になって……」
「力も……加減できなくて……」
「街……壊した……」
ママの目が揺れる。
でも、揺れたまま、逃げない。
「……それでも止めたのね」
「止めたっていうか……終わったっていうか……」
ママは短く頷いた。
「分かった。じゃあ――ここから先は、現実の対策を考えよう」
「現実の対策って……なにを……」
ママは深呼吸して、いつもの声を作る。
「まず、お茶」
「落ち着かせよ。いまはそれが最優先」
⸻
ママは一度下に降りて、すぐにお茶を持って戻ってきた。
トレイを床に置く。
湯気の匂いが、家の匂いだ。
ひよりは震える指でカップを持った。
熱い。生きてる。
しばらくして――ママが、真面目な顔で言った。
「ひより」
「その“変身”って……私、ちゃんと見てない」
「見たら、分かることがあるかもしれないでしょ」
ひよりの背筋が凍った。
「……や、やだよ……」
「ほんとに……恥ずかしいから……」
「恥ずかしいのは分かった」
やさしい声なのに、逃げ道がない。
「でも――ひよりの身体に何が起きてるか、私が知る必要がある」
げんえんさんが淡々と補足する。
「うん。初期確認。大事」
「家族が知らないままだと、次もっと危ないよ」
ひよりは枕を抱え直して、視線を泳がせた。
「……一回だけだからね……?」
「笑ったら……ほんと、やだ……」
「笑わない」
ママは即答する。
げんえんさんが小さく付け足す。
「ぼくは笑うかも」
「笑わないで……!」
ひよりは立ち上がった。
部屋の真ん中。逃げ場がない。
「……変身……」
声は、いつものゆるい音のまま。
言い切った瞬間――
プリズムハートコアが、きゅっと鳴った。
首に黒レースの太めチョーカー。中央の虹色ハートが脈打つ。
虹の光が一筋、全身へ走る。
光のラインと薄い紋様が肌に浮いて、衣装が組み上がっていく。
ローズピンクと黒。
甘いのに、守るための硬さがある。
フリル、レース、編み上げのリボン。
腰の後ろに大きなリボン。
狐耳の輪郭に淡いヴェール。しっぽの根元に虹色の輪。
(……やだ)
(また、勝手に……)
――口が勝手に動く。
「プリズム・ハ〜ト♡」
(言ってない!!)
さらに止まらない。
「は? なにこれ。うけるんだけど〜♡」
(やめて……!)
ママが目を丸くして、次の瞬間――ぱっと表情が明るくなる。
「……え、待って」
「可愛いじゃない!!」
ひよりの心臓が跳ねた。
「や、やだ……言わないで……!」
って言いたいのに、
「はぁ? いまさら気づいたの?♡」
(言ってない!!)
ママは本気のトーンで続ける。
「だって可愛いよ」
「その黒とピンクの感じ、ひよりに合ってる」
「……“守るための形”って、こういうことなんだね」
ひよりはその場でしゃがみ込んだ。
フリルがふわっと広がって、恥ずかしさが爆発する。
「むり……しぬ……」
げんえんさんが、そこでスッと刺す。
「似合ってるよ。本人の希望とは関係なくね」
「最悪!!」
ママが思わず吹きそうになって、口を押さえる。
「ごめん……でも……言い方がひどい……」
げんえんさんは真顔。
「事実だから」
ひよりは床に突っ伏した。
(……笑顔が止まらない。怖いのに)
(やめて……もう、やめて……)
ママが、そっと背中に手を置く。
「……でも、ひより」
「この姿で、外で――ひとりで戦ったの?」
その言葉で、部屋の空気が少しだけ重くなる。
ひよりは小さく頷いた。
「……うん……」
「……よく帰ってきた」
その声が、ひよりの胸をきゅっと掴んだ。
――やがて、光がほどける。
フリルが消えて、身体の軽さが抜ける。
ひよりは元の姿に戻った。
げんえんさんが淡々とまとめる。
「はい。確認できた」
「次は、“静かに変身する”練習もしようね」
「……やだ……」
⸻
少し落ち着いたころ、ひよりはふいに悔しさが溢れて言ってしまった。
「……でもさ」
枕を抱えたまま、涙目で睨む。
「変身って言ったら……ヒーロー、でしょ……!」
げんえんさんが、きょとんとする。
「ヒーロー?」
「そう……! もっとこう……かっこよく……!」
「ポーズ決めたり……名乗ったり……!」
悔しさの勢いで、ひよりは立ち上がってしまった。
止めたいのに止まらない。
部屋の真ん中に立って、腕を振り上げる。
「変身!!」
(言った……言っちゃった……)
右手を前に突き出し、左手を腰に当てる。
視線を斜め上へ。キメ顔。つもり。
「世界は……私が……守る!!」
静寂。
げんえんさんが穏やかに言う。
「……うん。今のその格好でそれやるのも、十分恥ずかしいと思うよ」
「はっ――!?」
ひよりの顔が一気に赤くなる。
「ち、ちが……! いまのは例えで……!」
げんえんさんは悪気ゼロで追撃する。
「しかも声、ちょっと震えてた」
「言わないで……!」
ママが思わず口元を押さえた。
笑いを堪えてるのが分かって、ひよりはさらに死にたくなる。
「無理……恥ずかしすぎる……」
「私、ヒーローじゃない……」
げんえんさんが、やさしい声で言う。
「うん。つらいよね」
肯定。
でも、それだけで終わらない。
「でも、途中でやめられないよ」
ひよりが顔を上げる。涙目だ。
「なんで……!」
げんえんさんは淡々と言う。
「ひよりは今日、力を使った。守った。壊した。戻した」
「もう世界は、“ひよりがいる前提”で動き始めてる」
「そんなの……勝手だよ……」
「うん。勝手だね」
その肯定が、いちばん怖い。
ひよりは首元のチョーカーに触れた。
冷たい感触。そこに“ある”だけで現実が刺さる。
「……外れない……」
げんえんさんが頷く。
「鍵みたいなものだから。投げ出さないように」
⸻
ママはベッド脇で静かに言った。
「あなたは……この子の味方なの?」
げんえんさんはまっすぐ答える。
「うん。ひよりの味方だよ。あと、世界の味方」
「それ、両立できるの?」
ママの声はやわらかいのに、質問は鋭い。
げんえんさんは少し考えて、いつもの温度で言う。
「できない時がある」
「だから、ひよりには戦ってもらう。途中でやめられない」
ひよりが、枕を抱えて呻いた。
「……ほら……」
ママの手が、そっとひよりの頭に触れる。
「ひより。怖いなら怖いって言っていい」
「恥ずかしいなら恥ずかしいって言っていい」
「……ひとりで抱えないで」
ひよりの目が潤む。
「……でも……私だけじゃ……無理……」
ママは迷いなく頷いた。
「じゃあ、私も一緒にいる」
「できるなら、一緒に戦う」
げんえんさんが、嬉しそうに手を叩く。
「いいね。じゃあ、試してみようか」
「え……いま……?」
げんえんさんがふわりと浮いて、手を伸ばす。
空気が屈折して、透明な石――プリズムの“種”みたいな光が生まれた。
「守りたいって思って。強く」
ママは一瞬だけ目を閉じて、ひよりの手を握る。
「守りたい。ひよりを」
――その瞬間。
ひよりのチョーカーが、勝手に脈打った。
虹のラインが部屋に走り、光がママの輪郭へ吸い寄せられる。
「え……?」
ひよりが息を呑む。
光はフリルを作らなかった。
代わりに、硬質な装甲みたいな外装を一瞬で組み上げた。
胸元にプリズムの紋章。
肩は角張り、腰回りはすっきり。短いコートフラップが翻る。
そして――ヘルメット。
バイザーが“カシャ”と降りた。
(……それ……!!)
ひよりの喉が震える。
(それだよそれ……! それが変身でしょ……!)
ママは驚いたまま、ゆっくり拳を握る。
立ち姿が、妙に“決まって”しまう。
ひよりは思わず叫んだ。
「かっ……かっこよ……!!」
ママが戸惑いながら、ひよりを見る。
「……これ……ひよりの言ってた、ヒーロー……?」
「そう……! そういうやつ……!」
げんえんさんが、少しだけ真面目な声になる。
「共鳴で“一瞬だけ形になった”みたいだね。ひよりの『守りたいイメージ』に強く寄った」
「でも……ママ自身の“器”が追いついてない。持続ができない」
――次の瞬間。
胸の紋章が小さく点滅した。
装甲が砂みたいにほどけ始める。
「……あ」
ママの肩から、外装がほどけていく。
「え、ちょ――」
ひよりが一歩前に出る。
「うそ……消え……」
言い終わる前に、光がほどけた。
ヘルメットが霧散し、装甲も線になって戻っていく。
ママは素の姿に戻り、よろけて壁に手をついた。
沈黙。
げんえんさんが、申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめん。……持続ができない」
ママが息を整えながら、ひよりを見る。
「……私、だめだった?」
ひよりが真っ赤になって叫ぶ。
「そんな顔しないで……! こっちが……泣く……!」
げんえんさんは淡々と続ける。
「本人の適性コアで起動した場合、年齢や体力――“適合度”で持続時間が決まるんだ」
「今のママの状態だと、数秒が限界だった」
ママが小さく息を吐く。
「……そうか。じゃあ、私には無理だったのね」
ひよりが慌てて首を振る。
「無理って……言わないで……!」
げんえんさんは少し間を置いて言う。
「“できない”じゃなくて、“続けたら壊れる”」
「長く続けると……体が耐えられない。危ないからおすすめしない」
ひよりが食い気味に言う。
「おすすめしないなら……やらない……!」
げんえんさんは頷いた。
「うん。基本は、やらない」
「無理やりねじ込む方法は……ゼロじゃないけど、代償がでかい」
その一言が、妙に冷たく残った。
(代償)
ひよりの喉が、またきゅっと縮む。
ママは少しだけ悔しそうに笑って、それからひよりの頭に手を置いた。
「ごめんね。一緒に戦えなかった」
ひよりは首を振った。涙目で、でも正直に言った。
「……一瞬でも、ママ……ヒーローだった……」
ママが少しだけ泣きそうな顔で笑う。
「じゃあ私は別のヒーローになる」
「帰ってくる場所を守る。ひよりがひとりにならないように」
げんえんさんがうんうん頷く。
「それが一番強い役割だよ」
ひよりは枕に顔をうずめた。
「……やだ……恥ずかしい……」
「でも……やめられない……」
げんえんさんが、やさしい声で結論を置く。
「うん。途中でやめられない」
「だから、続けながら調整するしかない」
ひよりが顔を上げる。
「……調整って……?」
げんえんさんが指を一本立てる。
「出力を抑える」
「口調も、少しずつ」
「恥ずかしさは……慣れる」
「慣れない……!」
ママが笑いを堪えながら言う。
「……じゃあ、家では練習ね。静かに」
「やだ……」
げんえんさんが真顔で追撃する。
「静かに変身する練習は大事だよ。家族の平穏のために」
「家族の平穏って……言わないでよぉ……!」
ママがトレイをひよりの前に寄せた。
「お茶、飲も」
「今日のことは、ここで一回、落ち着かせよ」
ひよりは少しだけ迷って、カップを手に取った。
熱が指先から胸の奥へ戻ってくる。
げんえんさんは床にちょこんと座った。
「ひより。ひとつ約束」
「怖い時は、ひとりで抱えない。今みたいに、言って」
ママも頷く。
「うん。言って」
ひよりは小さく、でも確かに頷いた。
「……言う……」
それだけで、胸の奥がほんの少し軽くなる。
完全に逃げ場がないわけじゃない、と初めて思えた。
……恥ずかしさは、相変わらず地獄だけど。
ひよりは枕に顔を埋めた。
「……私の人生……なんでこうなるの……」
げんえんさんが、いつもの声で返す。
「世界を守る係になったから」
「係って……言わないでよぉ……!」
ママが小さく笑った。
その笑いが、ひよりには少しだけ、救いだった。
⸻
寝る前、ふと。
げんえんさんが小さく言う。さっきまでの軽さじゃない。
「……今日の敵は、下だけじゃなかった」
ひよりは顔を上げる。目が乾いて痛い。
「……下……?」
げんえんさんは淡々と答える。
「戦闘員には階級があるんだ」
「下級は灰兵。共通規格の量産。完全使い捨て」
「中級は刻印兵。虚核と“幹部の署名刻印”で起動する私兵」
「上級は静衛。高純度虚核と多重刻印――そして領域が定着してる」
ママが眉をひそめる。
「……今日いたのは?」
「中級――刻印兵は確かにいた」
げんえんさんが、一拍置く。
「それと、上。静衛の気配が一瞬だけ」
ひよりの背中が冷える。
屋上の“視線”。
(……帰ったはずなのに。見られてた)
ママが静かに言う。
「……次があるのね」
げんえんさんは頷く。
「うん。たぶんね」
ひよりは枕を抱きしめたまま、小さく息を吐いた。
怖い。
でも――今は、ひとりじゃない。
その事実だけを、ぎゅっと握って眠るしかなかった。
⸻
夢を見た。
暗い。
部屋でも廊下でもない。音が遠くて、色が薄い。
足元だけがぼんやり光っている。
丸い光の輪。そこに立っているのは――ひより。
……ひよりが、もう一人いた。
同じ顔。
同じ耳。
同じしっぽ。
なのに、目つきだけが少し違う。
まるで「泣く前に笑う」みたいな目。
「……なに、これ」
ひより(もう一人)が、先に口を開いた。
声も、自分のはずなのに――軽い。尖ってる。
「夢。たぶん」
「……夢って言えば、なんでも許されると思ってる?」
「思ってない」
「でも、いまここにいる」
もう一人のひよりは、ひよりをじっと見た。
視線が、喉の奥まで来る。
「戦うの、嫌?」
ひよりは息を呑む。
嫌、って言ったら負ける気がした。
怖い、って言ったら、全部終わる気がした。
「……嫌」
絞り出した。
「……怖い」
「痛いし……恥ずかしいし……」
「勝手に変な声出るし……服も……」
言ってる途中で、喉が詰まる。
泣きたくなる。
もう一人のひよりは、肩をすくめた。
「だよね」
あっさり言った。
否定しない。怒らない。笑わない。
だから余計に、胸が痛い。
「じゃあ、代わろうか」
ひよりは顔を上げた。
「……は?」
「私が前に出る。あんたは後ろ」
「恥ずかしいのも怖いのも、私がやる」
ひよりの背中が冷える。
(それ、ダメだ)
よく分からないのに、分かる。
それは“助かる”けど、同時に――奪われる。
ひよりは首を振った。必死に。
「……やだ」
「それは……やだ……」
もう一人のひよりが、少しだけ目を細めた。
「なんで」
「だって……」
「それ、私が……いなくなるみたいじゃん……」
言いながら、自分でも何言ってるか分からない。
でも、怖かった。
もう一人のひよりは、ふっと息を吐いた。
少しだけ、声の尖りが溶ける。
「……じゃあ、違うやり方」
ひよりが瞬きをする。
「一緒にやる」
「……一緒?」
「そう。一緒」
「ハンドルを片方だけに渡さない」
「怖いのは怖いって言っていい。恥ずかしいのも言っていい」
「その上で――動く」
ひよりは唇を噛んだ。
胸がぐちゃぐちゃなのに、どこかで“それなら”と思ってしまう自分がいる。
「……でも……」
「怖いのに……」
もう一人のひよりが、軽く笑った。
「怖いからでしょ」
「怖いのに動いたら、それは強いってこと」
ひよりの喉が震える。
「強くない……」
「私、全然……」
「知ってる」
「だから、二人でやる」
もう一人のひよりは、当たり前みたいに言った。
「私は、もう一人のあんたなんだから」
その言葉が、胸の奥に落ちた瞬間。
――喉の奥の“余熱”が、ふっと静かになった。
怖いのが消えたわけじゃない。
でも、ひとりじゃない、って感覚だけが残った。
ひよりは小さく息を吸って、吐いた。
「……わかった」
「一緒に……やる……」
もう一人のひよりが、満足そうに頷く。
「うん」
それだけ言って、光が揺れる。
夢の輪郭が溶けていく。
最後に、声が耳元に落ちた。
「起きたら忘れるかも」
「でも、体は覚えてる」
「――息。吸って、吐け」
スポットライトが消えた。
⸻
ひよりは自分のベッドの中で目を開けた。
息が、少しだけ深い。
胸の奥がまだ痛いのに、潰れていない。
「……夢……?」
でも、喉の奥に残っている。
“もう一人”の、同じ熱。
(……ひとりじゃない)
ひよりは枕を抱きしめたまま、もう一度だけ息を吐いた。




