閑話5 越権
天井は高く、空気は冷たい。
ここでは、音すら許可を要する。
虚無王は玉座に座していた。
背筋は伸び、顎は上がり、視線は下げない。
――女王であるための姿。
扉が開く。
先に入ってきたのは霧童。軽い足取り。軽い態度。
続いて黄昏公。深い礼、乱れのない所作。
最後に――静黙卿。
巨体が玉座の前で止まり、膝をつく。
音は、ほとんどしない。
だが。
その胸元、装甲の隙間に――淡く乱れた光が残っていた。
レグナの視線が、一瞬だけそこに落ちる。
誰にも気づかれぬほどの、ほんの一瞬。
「……戻ったか」
声は、女王のものだった。
ミュートは頭を下げる。
「……帰還しました」
「許可は、出しておらぬ」
即座に言葉が落ちる。
空気が、沈む。
ネブラの軽さが消え、セピアは何も言わない。
ミュートは言い訳をしなかった。しないと、決めている。
「……独断で出撃しました」
認める声は低く、平坦。
レグナは頷かない。否定もしない。
「幹部の出撃には、段階がある」
「静衛の配置、観測、退路――」
「それを、おぬしは飛ばした」
淡々と事実だけが並ぶ。
だから、重い。
「結果として、生きて戻った」
「だが、それは理由にならぬ」
一拍。
レグナの視線が、また――ミュートの胸元へ落ちかけて。
だが、すぐに逸らされた。見てはならぬものを、戒めるみたいに。
「……その傷」
言いかけて、止まる。
玉座の間に、わずかな揺れが走った。
レグナは、視線を下げかけて――やめた。
玉座の肘掛けに指を置き、正面を見る。
……女王であれ。
「……戦の最中に負ったものかえ」
心配ではない。確認だ。
そういう形を、取っている。
ミュートは一瞬だけ間を置いた。
「……致命には至っておりません」
「……そうか」
短い言葉。
だが、空気がわずかに緩む。――すぐに、締め直される。
「“判断した”のは、誰じゃ」
「……わたくしです」
レグナが、わずかに身を乗り出す。
玉座が、きい、と鳴った。
「おぬしは、“女王”かえ」
沈黙。
ネブラの軽さが消え、セピアの背筋が張る。
ミュートは、静かに首を振った。
「……いいえ」
「そうじゃ」
レグナは頷いた。
「ならば、越権じゃ」
「妾の戦を、おぬしが決めるでない」
声は柔らかい。
それが、逃げ場を消す。
「忠義は、評価する」
「だが、独断は――静寂を壊す」
ミュートの指が、床に食い込む。
「……次は、命令を待て」
それが、裁定だった。
罰はない。処分もない。
信頼を前提にした、線引き。
ミュートは深く頭を下げる。
「……御意」
レグナは一拍置き、また胸元へ視線を向けかけて――止めた。
「……まずは」
言葉が、わずかに遅れる。
「その傷を、癒せ」
命令の形。声も、女王のもの。
「整えるのは、それからじゃ」
「壊れたまま、戻ってくるでない」
ミュートは即座に答えた。
「……御意」
ネブラが一瞬だけ瞬きをし、セピアは視線を伏せる。
レグナは、すぐに視線を上げる。
「ネブラ。次はおぬしが出よ」
「セピア。封鎖線を整えよ」
「ミュート。治療を終え次第、待機せよ」
三者が応える。
「了解」
「承りました」
「……御意」
扉が閉じる。かちり、と鍵の音。
――そして。
玉座の間に、誰もいなくなった。
レグナは、しばらく動かなかった。女王の姿勢のまま。
やがて、ぽつりと声を落とす。
「……もう、誰もおらぬ」
視線を、玉座の陰へ。
隠してある、小さな影。
狐のぬいぐるみ――おぬし。
そっと手を伸ばし、抱え込む。
「……ミュートがな」
「胸を、やられておった」
声が、少しだけ震える。
「致命ではないと言っておったが……」
「……あやつ、強がるからの」
狐の耳を、指先でなぞる。
「まずは癒せ、と命じた」
「女王の言葉じゃ。正しい判断じゃ」
一拍。
「……それでも」
小さく、息を落とす。
「壊れられるのは、困るのじゃ」
視線が、遠くへ向く。
「……ひよりも、じゃ」
言い切る前に、ほんのわずかだけ言い訳みたいに足す。
「観測で見えた個体じゃが……」
名前を口に出した瞬間、胸が締まる。
「強いが……壊れやすい」
「守りきれるか、分からぬ」
狐のぬいぐるみを、ぎゅっと抱きしめて。
目を閉じる。
「……触るでないぞ。誰も」
「妾の、おぬしは」
零の間は、再び静かになった。




