閑話1 玉座の間
虚無王の私室には、最低限の“生活”が揃っていた。
大きすぎる天蓋付きのベッド。磨かれた鏡。衣装棚。水差し。書見台。
豪奢ではあるが、どれも「虚無王としての生活」を回すための機能品だ。
そして――その部屋の奥。
誰にも見えない位置に、裂け目のような“奥行き”がある。
零の間。
色も、音も、境界も薄い――“零”だけの小さな空間。
虚無王ゼロ・レグナは、そこに座り込んでいた。
敷物の上。玉座ではない。王冠も外套もない。
腕の中には、狐のぬいぐるみ。
いちばんのお気に入り。
「おぬしは、今日もよい毛並みであるな」
頬を寄せる。
返事はない。だが、それが平常だ。
「……おぬしは温い。零の間は寒くはないが、心は冷える。――ずるいのぉ」
言ってから、はっとして咳払いをする。
「……いや。妾は女王じゃ。ずるいなど、言うでない」
ぎゅ、と抱きしめ直す。
その瞬間、零の間の“外”に、わずかな圧が混じった。
刻印の気配。外側からの呼びかけ。
零の間の縁が、ぴり、と張る。
(……来る)
レグナの背筋が反射で伸びる。
狐のぬいぐるみを、ぴたりと離す。
「――おぬしは、ここで待て」
声が硬くなる。
零の間の隅に置かれた、他の動物ぬいぐるみたちへ、目線だけを流す。
「おぬしたちは……黙しておれ」
裂け目を閉じる。
“零”の気配を、私室の生活空気の奥に押し込める。
まるで最初から存在しなかったように。
次に私室へ戻ると、扉の前に侍女が複数、膝をついていた。
先頭に年長の侍女――侍女長。
後ろの若い侍女たちは、息を殺すのがまだ下手で、わずかに肩が上下している。
「女王陛下。ご報告がございます」
侍女長の声は低く、揺れない。
「四静卿が玉座の間に揃っております。霧童殿より、緊急の報告が」
レグナは一拍だけ息を止め――そして、何もなかったように顎を上げた。
「よい。行く」
侍女たちがすぐ動く。
外套が差し出され、刻印の飾りが整えられていく。
「陛下、外套を――」
若い侍女が手を伸ばした瞬間、レグナの声が鋭く落ちた。
「触れるな」
空気が凍る。
若い侍女の手が止まる。
侍女長が何も問わず、一歩前へ出る。
「……失礼いたしました。私が」
「うむ」
たった一音。
それだけで若い侍女たちは背筋を伸ばし、視線を床へ落とす。
侍女長の手には無駄がない。
襟。肩。外套の重み。刻印の位置。
“女王”を仕立てる作業に、一切の感情が混ざらない。
仕上げが終わる頃、侍女長が小さく囁いた。
「……陛下。いつも通りで」
レグナは他の侍女がいるのを確かめてから、冷たく言った。
「当然じゃ」
侍女たちが一斉に頭を垂れる。
扉が開き、廊下が伸びる。
歩幅は一定。視線は落とさない。
私室の“生活”は背中に置いていく。
玉座の間だけが舞台だ。
――ただ、曲がり角で、若い侍女たちが距離を取った瞬間。
レグナは侍女長にだけ、声をほんの少し落とした。
「……助かったのじゃ。ありがとう」
玉座の間では決して落とせない温度。
幼い頃から、この侍女は王冠より先にレグナの泣き顔を知っている。
侍女長は驚きも誇りも見せず、ただ微かに頷いた。
「お役に立てましたなら」
それだけで会話は終わる。
終わらせるのが、互いの理解だった。
玉座の間は、沈黙が刻まれた大広間だった。
高い天井。冷たい柱。
壁面を走る淡い刻印光が、静かに脈打つ。
音が“ない”のではなく、音が“許されていない”。
虚無王ゼロ・レグナは玉座に腰を下ろし、背筋を伸ばす。
顎をわずかに上げ、目線は落とさない。
――ここにいる間だけは、“絶対者”でなければならない。
足元、左右に影が並ぶ。
四静卿。
さらに少し離れて、気配の薄い影がひとつ――静衛。
霧が巻き、ネブラが膝をついた。
「――報告っす、女王陛下」
ミュートが一歩だけ前へ出る。
低い声が、刃みたいにまっすぐ落ちた。
「ネブラ。陛下の御前だぞ」
ネブラは肩をすくめる。口元だけ笑って、礼を“整える”。
「へいへい。……女王陛下」
(このクソガキ……)
だが膝の付き方は正しい。
視線は逸れず、刻印も乱れない。
忠誠は本物。だから厄介だ。
レグナは視線だけでミュートを制し、冷たく言った。
「……よい。申せ、ネブラ」
「彩界の街区で薄化、予定通り。静寂フィールドも、きれいに沈みました」
ネブラが指先でログを展開する。
虹色に屈折する軌跡――敵側の観測に刺さる異物。
「ただし問題。未知が出た」
映るのは、狐耳の個体。
光のライン。薄い紋様の発光。
チョーカー状の“コア”――ハート形の構造体。
「外装顕現型。起動と同時にラインが走る。物理干渉も成立」
「それに……学習速度が異常。最初は暴発気味なのに、数十秒で収束した」
ログが切り替わる。
拘束。確定。――そして刻印だけが割れる瞬間。
「中級刻印兵の手首刻印だけ割って領域解除。肉は切ってない」
「狙いが“核だけ”。偶然じゃない。やり方を知ってる」
レグナは淡々と問う。
「零彩結晶の採取は」
「ノルマ分は達成。十分“溜まり”ました」
ネブラは平然と言った。
「だから撤退。未知相手に中級擦り潰すの損っす」
レグナは短く言う。
「よい。観測を継続せよ」
「静衛、準備。四静卿、対応案を提出せよ」
「了解っす、女王陛下」
ネブラは立ち上がりかけ――余計なことを言う。
「……追加。外装、ムカつくくらいかわいい」
玉座の間が凍る。
ミュートの咳払いが、空気を辛うじて保った。
レグナは表情を崩さない。
「それは報告事項か?」
ネブラは真顔で押し切る。
「報告っす。視認効果が高い。油断させる」
「煽ってくるくせにビビってんの、丸わかりで最高。ギャップが強い」
「……余計な評価は要らぬ」
レグナは冷たく切り捨て、結論だけ落とした。
「分類:未知。優先度、最上」
「容赦なく、だ」
――この場では。
報告が終わり、幹部が下がる。
扉が閉まるまで、レグナは一切崩れない。
扉が閉まった瞬間。
「…………っはぁぁ……!」
肩ががくん、と落ちる。
威厳が鎧みたいに、ずるりと剥がれた。
廊下に控えていた侍女たちが一斉に近づく。
「陛下、お戻りに――」
レグナの声が即座に冷たくなる。
「下がれ」
若い侍女たちは息を呑み、揃って退く。
侍女長だけが、いつも通り一歩残る。
他の気配が消えたのを確認してから。
レグナは侍女長にだけ視線を向けた。
「……さっきの」
言いかけて、言い直す。
“女王”の語尾を削って、余計な威圧を捨てる。
「……助かったのじゃ。ありがとう」
侍女長は、ほんの僅かに微笑む。誰にも見せない程度の角度で。
「恐れ入ります」
――その言葉のあと。
侍女長の視線が一瞬だけ、レグナの背後――閉じたはずの“奥行き”の位置に触れた。
触れて、すぐ戻る。何事もなかったように。
レグナは気づかぬふりをして、声を女王の温度に戻す。
「……必要なら呼ぶ」
侍女長は一礼し、音もなく退いた。
扉が閉まり、私室にようやく“生活”が戻る。
レグナは、誰にも見られない速度で部屋の奥へ滑り込み――
零の間を開いた。
狐のぬいぐるみを抱き上げた瞬間、堪えてたものが爆発する。
「なんなのじゃあれは!!」
「かわいすぎるじゃろ!!」
狐のぬいぐるみをぶんぶん揺さぶる。
「おぬしは見たか!? みたか!?!?」
「黒いのに、ふわふわで、ひらひらで……りぼん!! りぼんじゃぞ!!」
「ずるい!! ずるいずるいずるい!!」
言ってから、はっとして抱き方を弱める。
「……すまぬ。いたかったか」
(返事はない)
「……そうか。いたくないか。よかった」
そして急に声が小さくなる。
「……あと、あの子と……」
「……お友達になりたいのじゃ」
恥ずかしくなって、また強がる。
「べ、別に!! 妾は女王じゃし!!」
「お友達など、いらぬしぃ~!!」
……と言いながら、狐ぬいの耳を離さない。
「……でも」
「……お友達、ほしい」
ぽつり。
レグナは狐ぬいに額をこつんと当てる。
「妾が近づいたら……奪ってしまう」
「妾の零が滲めば……あの子の彩が、薄れてしまうのじゃ……」
想像が勝手に伸びる。
砂に擦れた黒いフリル。
それでも揺れていた、あの小さなリボン。
「……あのりぼんの色が、最初に消えたら……」
「妾、いやじゃ……」
声が震える。
「……いやじゃ」
「消えたら、いやなのじゃ」
次の瞬間、癇癪みたいに叫ぶ。
「やだやだやだ!!」
「妾は虚無王ぞ!! 妾が“やだ”とか言うでない!!」
言ったのに、言っちゃった。
矛盾が胸の奥でぐちゃぐちゃする。
レグナは狐ぬいを抱きしめて、少しだけ丸くなる。
「……おぬしは、ここにおれ」
「妾は……明日も、がんばるのじゃ」
その言葉だけは、子供っぽくならなかった。




