第14話 もう私がいなくても大丈夫!?心の中で、名前が生まれた。
宵宮ひよりは自室のベッドに腰掛けて、スマホの画面を見つめたまま固まっていた。
未読はゼロ。通知もない。
なのに胸の奥だけが落ち着かなくて、呼吸が浅くなる。
(また、来るかもしれない)
いつ、どこで、何が起きるかわからない。
それでも明日は来るし、学校もあるし、笑わないといけない。
ひよりはスマホを伏せて、両手を握った。
指先が少し震えている。
(……わたしは、決めた)
戦う。
守る。
逃げない。
誰かに言われたからじゃない。
助けてもらったから仕方なくでもない。
――自分の意思で。
ひよりは息を吸って、ゆっくり吐いた。
「……明日から、ちゃんと……」
その瞬間、部屋の空気がすっと薄くなった。
音が遠い。
時計の針の音すら、膜を一枚挟んだみたいにぼやける。
視界の端がほんの少し滲んで、“内側”が開いていく感覚。
(……来た)
ひよりが瞬きをした瞬間、そこはもう“部屋”じゃなかった。
黒でも白でもない、曖昧な光の境目。
霧みたいに揺れる場所。
――そして、少女が立っている。
前に“会った”。
夢か現実か曖昧な場所で。
「次に固まったら、私が出る」って、冷たい声だけ置いていった、あの子。
ひよりより少しだけ小柄で、態度は気だるげ。
なのに目だけ妙に鋭くて、覗き込むみたいにひよりを見てくる。
少女は肩をすくめるみたいに、ため息をついた。
「……やっと決めたんだ」
声は耳じゃなく、胸に響いた。
ひよりは唇を噛んだ。
言い返したい気持ちと、言い返せない気持ちが、同時に喉を塞ぐ。
「……うん」
それだけで精一杯だった。
少女はふっと笑う。
軽い笑い方なのに、その奥がどこか寂しい。
「そっか。じゃあ――もう私、いなくても大丈夫だね」
ひよりの背中がぞくりとした。
「……え?」
理解するより先に、心が拒否した。
「ちょ、ちょっと待って。なにそれ……!」
少女はひよりの動揺を楽しむみたいに、指先をくるっと回す。
「だって、そうでしょ。
今までさ、“怖いから”って止まってたのに。今日は違った」
ひよりは拳を握る。
言い訳じゃない、怖かったんだ――って叫びたい。
でも彼女は、たぶん責めてない。
責めてないからこそ、余計に痛い。
「……いなくなるとか、勝手に決めないで」
声が震えた。
少女は、はぁ、と大げさにため息。
「勝手に決めてないよ。
“役目”ってやつが終わっただけ」
「役目……?」
「そう。
あんたが“自分で立つ”まで。
それだけ」
ひよりは、ぐっと言葉を飲み込む。
正しい。
正しいのに、嫌だ。
「嫌だよ……」
少女は少し驚いた顔をした。
それから困ったように眉を寄せる。
「……なんで」
「なんでって……」
ひよりは言葉を探した。
うまく言えない。
うまく言えないけど、言わないと、本当に消えそうで怖い。
そこで、ひよりは気づく。
――名前を知らない。
ずっと“彼女”のまま。
呼べないまま、ここまで来た。
夢の中でも、現実でも。
「内側の声」みたいに、ただ響いて――それだけだった。
ひよりは震える息で言った。
「……ねえ。あなたの名前、なに」
少女は一瞬、目を見開く。
そして、口元を歪めた。
「今さら?」
「今さらだよ……!
でも、今さらでも、聞きたい」
少女は黙った。
沈黙が怖くて、ひよりは一歩踏み出す。
「お願い。名前、教えて」
少女は視線を落としたまま、ぽつり。
「……別に、ない」
「……ない?」
「最初から“役目”だけで作られたみたいなもんだし」
胸の奥がぎゅっと潰れる。
「そんなの……やだ」
ひよりは必死に首を振った。
「名前がないって、そんなの……いなくなるのと同じじゃん」
少女の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「……あんたさ」
「うん」
「やっぱ、面倒」
言い方は軽口なのに、声が少しだけ震えている。
ひよりは、笑いそうになって笑えなくて、ぐしゃっと顔をしかめた。
「面倒でいい。
面倒でも、わたしは……あなたを、“あなた”って呼びたい」
少女は諦めたみたいに肩を落とす。
「……じゃあ、勝手につければ」
「勝手にって……」
「いいよ。
どうせ、あんたが呼ぶ名前なんでしょ」
その言葉で、ひよりの胸の奥に、すっと一本の芯が通った。
自分が呼ぶ。
自分が決める。
ひよりは、少しだけ悩むふりをした。
本当は、最初から決まっていたのに。
ずっと心の奥で鳴っていた。
怖さの中でも、恥ずかしさの中でも、消えなかった“残り音”。
(……残響)
ひよりは顔を上げ、まっすぐ見た。
「……エコー」
少女が目を細める。
「エコー?」
「うん。
あなたの声、いつも……わたしの中で響いてたから」
言い終えた瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなる。
痛みが消えるわけじゃない。
でも、“ゼロ”だった場所に輪郭ができた。
少女――エコーは鼻で笑うみたいに息を吐いた。
「……ふーん。まあ、悪くない」
ひよりは、泣きそうなまま笑ってしまった。
「ねえ、エコー。……いなくなるの、やっぱり嫌だよ」
エコーは少し黙る。
それから視線を外したまま、ぽつり。
「……いなくならないよ」
「え」
「“表に出ない”だけ。
あんたが前に進むなら、私は“奥”に戻る。
それだけ」
ひよりは、胸に溜まっていた息をゆっくり吐いた。
「……じゃあ、ずっと、そこにいる?」
「頼りすぎるのは禁止」
エコーは、少しだけ意地悪く言ってから――
声をほんの少し柔らかくした。
「……あんたには、他にも頼れる人、いるでしょ」
ひよりは一瞬だけ、ママの顔が浮かんで――でもそこで終わらない。
学校の廊下。
逃げ道を作る“線”。
走って人を押し出す背中。
如月かなで。
朝倉ひかり。
(……うん)
「……いる」
「でしょ。
あの二人、ちゃんと見てるから。あんたも、ちゃんと見なさい」
ひよりは頷いた。
「……うん。わたし、ちゃんと……一緒に進む」
エコーは最後に一度だけ、ひよりを見た。
目は相変わらず生意気で、でもどこか優しい。
「……じゃ。行っておいで」
「……エコー」
呼ぶと、エコーは片眉を上げた。
「なに、まだ泣くの?」
「泣かない」
「へえ」
「……泣かないけど」
ひよりは胸に手を当てた。
「ありがとう。
ここまで、響いてくれて」
エコーは一瞬だけ目を逸らし、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……その言い方、ずるい」
次の瞬間、空気がすっと薄れた。
心の中の輪郭がほどけ、部屋の暗さが戻ってくる。
時計の針の音。
街灯の光。
いつもの夜。
ひよりは、ベッドの端で小さく息を吐いた。
胸の奥が痛い。
でも、そこに確かに“名前”が残っている。
(エコー)
ひよりは涙を拭って、立ち上がった。
「……よし」
声は小さい。
でも確かに、自分の声だった。
明日、かなでと会う。
ひかりと並ぶ。
怖いって言えるようにする。
怖いって言っても、置いていかれないって信じる。
仲間がいる。
そして胸の奥には、消えない残響がある。
ひよりは布団に潜り込み、暗闇の中でそっと呟いた。
「……おやすみ、エコー」
返事はない。
でも返事がなくても、確かにそこにいる。
ひよりは、目を閉じた。




