閑話3 撤退命令
零彩の帝国――玉座の間。
天井は高く、柱は冷たい。
壁面を走る刻印光が、脈みたいに淡く点滅している。
音が無いのではない。
音が“許されていない”。
虚無王ゼロ・レグナは玉座に座り、顎をわずかに上げていた。
背筋は真っ直ぐ。視線は落とさない。
――ここにいる間だけは、“女王”でなければならない。
扉が開く。
軽い足音。軽い気配。軽い態度。
霧童が入ってきた。
「陛下ー。ちょい聞いていい?」
「……玉座の間じゃぞ。口を整えよ」
「はいはい。女王陛下」
礼はする。最低限。
だが、刻印の整えだけは完璧だ。
忠誠が本物だからこそ、腹が立つ。
少し遅れて、黄昏公が入る。
黒外套の裾を流すように、騎士の礼で膝を折る。
「陛下。次こそは、このセピアが美しく刈り取りましょう。陛下の御前に相応しい静寂を――」
さらに静黙卿が一歩後ろに立つ。
寡黙な巨体がそこにあるだけで、空気が締まる。
「……報告の続きを聞く形か」
ミュートの低い声に、ネブラが肩をすくめた。
「いや、報告じゃなくてさ。質問。前回、なんで撤退させたの?」
ネブラがにやにやしながら続ける。
「あれ、めちゃくちゃ面白かったじゃん。
未知が出たって言うなら、なおさら擦り潰してデータ取れば――」
(“面白い”で動くな、このクソガキ……)
レグナは表情を動かさない。
声だけ冷たく落とす。
「理由は二つじゃ」
ネブラが目を細める。
「ふたつ?」
「一つ。未知」
レグナは淡々と言う。
「確定情報が少ない相手に、こちらの手札を無駄に晒すな。
――遊びではない」
「でもさー、勝ててたじゃん」
「二つ。溜まり方が、早すぎた」
その言葉に、ミュートの目がわずかに動いた。
「……ゼロクロムが、ですか」
「そうじゃ」
レグナは頷く。
「彩と音が歪む速度。静寂が染みる速度。
――回収の効率が良すぎる」
ネブラが目を丸くする。
「え、じゃあ倒したらもっと――」
「逆じゃ」
レグナが遮った。
「倒せば終わる。終われば溜まらぬ」
セピアが、わずかに愉悦を滲ませる。
「なるほど。刈るのではなく、“育てる”と」
「言い方が気に入らぬが、概ねそうじゃ」
レグナは指先を止める。
「前回は、あの個体を“生かしておいた方が貯まりやすい”と判断した」
ネブラが不満そうに頬を膨らませる。
「……なにそれ。ムカつく。遊びたいのに」
ミュートが低く釘を刺す。
「ネブラ」
「はいはい」
ネブラは舌打ちしそうな顔で黙る。
だが黙り方すら、どこか納得していない。
レグナは冷たくまとめた。
「未知を観測し、溜まりを最大化する。
妾は“勝つ”ために退かせたのじゃ」
静寂が落ちる。
ネブラは一瞬だけ目を細めて――すぐに跪く。
「……御意。女王陛下」
生意気でも、崇拝は本物だった。
「下がれ」
三人が下がる。扉が閉まる。
玉座の間に“許された沈黙”だけが戻る。
レグナは、ほんの少しだけ息を吐いた。
(……これでよい)
(よい、はずじゃ)
だが胸の奥は、まだ静かにならない。
レグナは玉座に座ったまま、指先を軽く持ち上げた。
虚空に、薄い膜が張られる。
観測窓。
ただし像は最初から欠けている。
丸い窓ではない。誰かの視界の縁を切り取ったような形。
(……妾の眼ではない)
観測窓は万能ではない。
刻印で繋がった者の“見ている周辺”だけを借りて覗く穴。
つまり――今映っているのは、静衛の視界の縁。
街。灰。割れたアスファルト。
領域の膜が、薄く残っている。
そして戦場の中心――
黄昏公の刃が走る。
美しく、冷たく、確実に。
(……いつも通りじゃ)
そのはずだった。
視界の端で、光が弾けた。
白髪の女が、立っている。
宵宮ひよりの母。
弱っているはずの人間。
戦闘員でもないはずの人間。
なのに――
セピアが、半歩下がった。
(……下がった?)
レグナの胸がどくんと鳴る。
窓が、ざらりと揺れた。
視界を借りている静衛が、目を細めたのだろう。
借り物の像は、借り物のまま不安定になる。
(見たいのに、見えぬ……!)
それでも、見える範囲だけで分かる。
強い。
予想外に、強すぎる。
だが同時に――その強さは長く続かない。
呼吸が浅い。
足元がわずかに揺れる。
冷えが、窓越しにも分かる。
(代償)
(……あれ以上やらせたら壊れる)
そしてもう一つ。
(セピアが削られる)
それも許容できない。
四静卿が欠ければ、溜まりも観測も崩れる。
――崩れるのは、嫌だ。
嫌、という言葉が喉の奥で暴れる。
女王の口には出せない言葉。
レグナは指先を刻印へ触れた。
声だけを“女王”に落とす。
「セピア。退け」
観測窓の向こうで、セピアの動きが止まる。
『……陛下?』
「退け。妾の命令じゃ」
短い沈黙。
『……御意』
セピアが引く。
美しく、悔しさを隠したまま距離を取る。
窓がまた揺れ、そして像が薄れる。
静衛が後退したのだ。
視界の縁が遠ざかる。
(……まだ見たい)
(あの女が、倒れたのか)
(生きているのか)
(ひよりは――)
だが、見えない。
妾の眼は、誰かの眼を借りねば開かぬ。
観測窓が閉じる。
玉座の間に静寂が戻る。
レグナは、息を吐いた。
(……よかった)
(退いた)
胸がうるさい。
うるさすぎて、また余計な言葉が漏れそうになる。
レグナは立ち上がった。
歩幅を整え、顎を上げ、玉座の間を出る。
廊下。
侍女たちが控えている。
若い侍女が一歩出かけて止まる。
もう学習している。
年長の侍女――侍女長が前へ出る。
その手が外套の裾を整え、刻印飾りを直す。
他の侍女が距離を取った瞬間。
レグナは、侍女長にだけ声を落とした。
「……助かったのじゃ。ありがとう」
侍女長は目を伏せたまま、微かに頷く。
「お役に立てましたなら」
余計な言葉はない。
昔から、この侍女はレグナが揺れる前に会話を閉じてくれる。
レグナは女王の温度に戻す。
「……下がれ。必要なら呼ぶ」
「御意」
侍女長は音もなく退く。
私室。
扉が閉まった瞬間。
「…………っはぁぁ……!」
肩ががくん、と落ちる。
威厳が鎧みたいに、ずるりと剥がれた。
レグナは部屋の奥へ滑り込み、裂け目を開く。
零の間。
色も音も境界も薄い。
“零”だけの空間。
そこに、狐のぬいぐるみ。
抱き上げた瞬間――堪えていたものが爆発した。
「なんじゃ、あれは……!!」
「かっこよすぎるじゃろ!!」
狐ぬいに頬をこすりつける。
「母親は、あんなにかっこよくて……」
「娘は、あんなにかわいくて……」
「……ずるいのじゃ!!」
言ってから、慌てて強がる。
「……いや、ずるくはない。最強なのじゃ……!」
でも声が震える。
「なんじゃあの立ち姿……」
「なんじゃあの光……」
「なんじゃあの……“守る”って感じ……!!」
そして、ふっと声が弱くなる。
「……でも……」
狐ぬいをぎゅっと抱く。
抱きすぎて、慌てて力を抜く。
「……あれ以上は、かわいそうなのじゃ……」
「強いのに……壊れそうなのじゃ……」
胸の奥が痛い。
痛いのに、理由を言葉にしたくない。
言葉にしたら、認めてしまう。
――妾が、奪う側だと。
レグナは狐ぬいに額をこつんと当てる。
「妾の零が近づけば……彩は薄れる」
「音も、意思も……」
自分の指先を見つめる。
「命令を出さずとも、妾がそこに居れば、零は滲む」
「滲んだぶんだけ、あの子たちは薄くなる気がするのじゃ……」
声が震える。
「……いやじゃ」
「消えたら、いやなのじゃ」
次の瞬間、癇癪みたいに叫ぶ。
「やだやだやだ!!」
「妾は虚無王ぞ!! 妾が“やだ”とか言うでない!!」
言ったのに、言っちゃった。
矛盾が胸の奥でぐちゃぐちゃする。
レグナは狐ぬいを抱きしめて、少しだけ丸くなる。
「……でも……」
ぽつり。
「……妾が止めたのじゃ」
それは誇りではなく、震える確認だった。
「……退かせたのじゃ」
「……壊れる前に」
狐ぬいは何も言わない。
だからレグナは勝手に頷く。
「……おぬしは、ここにおれ」
「妾は……明日も、がんばるのじゃ」
その言葉だけは、子供っぽくならなかった。




