第9話 母が倒れた!?代償が重い。
病院の廊下は、白すぎて息が詰まる。
消毒の匂い。
遠くで鳴る足音。
天井の蛍光灯が、ずっと同じ音で唸っている。
(現実だ)
宵宮ひよりは椅子に座ったまま、自分の手を見下ろしていた。
爪が白い。握りしめすぎて、まだ震えが残っている。
(ママが……倒れた)
さっきまで――校庭にいた。
“ヒーロー”になったママが、セピアを圧倒して。
そのあと光が剥がれて、膝をついて。
(あれが、頭から離れない)
首元に触れる。
チョーカーは、いつも通り冷たい。
(わたしのせいだ)
そう思った瞬間、胸がぎゅっと縮んだ。
「ひより」
隣から、そっと声が落ちる。
朝倉ひかり。
家族みたいに育った幼馴染の顔が、今日はやけに大人びて見えた。
泣きそうなのを必死で飲み込んで、笑おうとしている顔。
「……だいじょうぶ?」
ひよりは、頷けなかった。
(だいじょうぶなわけ、ない)
口に出したら壊れそうで、ひよりはただ下を向いた。
その向こうで、如月かなでが立っている。
背筋をまっすぐに伸ばして、病室の扉の前。
誰より落ち着いているのに、目だけは鋭く揺れていた。
(如月さん……すごい)
(でも、すごいのに……勝てなかった)
その事実が、さらに苦しかった。
ひよりの視界の端に、ふわりと小さな影が浮いた。
げんえんさん。
ラッコみたいな丸い体。ぬいぐるみみたいな毛並み。
なのに目だけ、いつも通り落ち着きすぎている。
「ママ、今は“直した”よ」
淡々と、当たり前みたいに言う。
「外傷は直した。出血も止めた。呼吸も安定」
「……でも」
げんえんさんは、そこで一拍置いた。
「代行の代償は、直せない」
ひよりの喉が、ひゅっと鳴った。
(やめて)
(それ、言わないで)
でも、げんえんさんは止まらない。
「削れたものは戻せない。だから――」
「うるさい!!」
ひよりの声が、廊下に響いた。
自分でも驚くくらい、荒い声だった。
ひかりがビクッとして、かなでが一瞬だけ目を閉じる。
げんえんさんは首を傾げた。
「怒ってる?」
「怒ってるよ!!」
ひよりは立ち上がって、げんえんさんを睨んだ。
心臓がうるさい。手が震える。
「……なんでさ」
声が、かすれる。
「なんで、ママが払うの」
言った瞬間、涙が喉の奥まで上がってきて、ひよりは歯を食いしばった。
(泣くな)
(泣いたら、もっとだめになる)
げんえんさんは、怖いくらい静かに言った。
「ひよりが止まったから」
「……っ」
「止まるのは普通だよ。怖いもん」
淡々。優しい言い方。
でも、内容が刺さる。
「でも止まったら、死ぬ。だから、ママが前に出た」
ひよりの胸が、痛い。
(わたしが……弱いから)
そこへ、病室の扉が静かに開いた。
看護師が顔を出す。
「ご家族の方、少しだけお話いいですか?」
ひよりの体が強張る。
ひかりがひよりの袖を掴んで、そっと引いた。
「……行こ」
かなでは一歩前に出て、丁寧に頭を下げた。
「私は同席してもよろしいでしょうか。現場に居合わせました」
看護師は少し迷ってから頷く。
「……どうぞ。ただ、簡単なご説明だけになります」
白い小さな面談室。
椅子と机。紙コップの水。
医師は疲れた顔で、でも言葉は穏やかだった。
「外傷は処置できています。出血も止まっています」
医師は言葉を選ぶ。
「ただ、体温が低い状態が続いているのと、倦怠感が強い」
「原因は……」
そこで、医師が曖昧に濁した。
「急性の疲労、過労、ショック。そういう類と考えます」
ひよりは唇を噛んだ。
(違う)
(過労じゃない)
(ヒーローになって……代償を……)
でも、それは言えない。言ったら狂ってる扱いだ。
医師は続ける。
「数日は入院して経過観察しましょう。検査もします」
「意識ははっきりしています。会話もできます。ただ……」
医師は少し眉を寄せた。
「無理に動かさないでください。今は、休ませるのが一番です」
“休ませる”
その言葉が、ひよりの胸を殴った。
面談が終わって廊下に戻ると、ひかりが小さく息を吐いた。
「……よかった……」
よかった、なんて言えるのがすごい。
ひよりには言えなかった。
かなでは、医師の話を頭の中で整理するみたいに目を細めた。
「……外傷は直っている。だが“疲労”が異常。数日」
言葉が端的すぎて、逆に現実味が増す。
病室の扉の前。
ひよりの足が止まる。
(見たくない)
(でも、見ないと)
ひかりが背中をそっと押した。
病室は、静かだった。
白いベッド。
白いシーツ。
ママがそこに横たわっている。
顔色は悪い。
でも、目は開いていた。
そして――髪が、白かった。
ついさっきまでの色が、まるごと抜け落ちたみたいに。
白い髪が枕に広がっていて、見慣れたはずのママが、別人みたいに見える。
(……代償)
ひよりが固まったまま見つめていると、ママはその視線に気づいて、少しだけ笑った。
「……髪? 大丈夫。あとで染めればいいでしょ」
そう言った直後、息がひゅっと浅くなる。
笑ったままなのに、指先が冷たい。
ひよりの喉が詰まった。
(大丈夫じゃない)
(全然)
「……そんな顔しないで」
ママが小さく言う。
その一言で、ひよりの胸が壊れた。
「……ママ……」
声が震える。
ひかりがベッドの横に行って、震える声を押し込めるみたいに言った。
「……ひよりママ……」
ママは短く返して、ひかりの手を軽く握った。
「ひかりちゃん……うん、大丈夫」
それから、ひかりの目を見て、少しだけ笑う。
「ありがとうね。ひよりのそばにいてくれて」
ひかりの目が潤む。
「……うん……」
かなでは一歩前に出て、丁寧に頭を下げた。
「如月かなでです。昨日、現場に居合わせました。突然お邪魔して申し訳ありません」
ママは、かなでの顔を見て小さく頷く。
「……昨日、ひよりを送ってくれた子ね。学校でも……線、引いてた」
ひかりが堪えきれず、早口になる。
「そう!会長!ほんとにすごいの!会長が――」
かなでが小さく咳払いをする。
「朝倉さん。今は静かに」
「ごめん……!」
ひかりが口を押さえる。
ママはそれを見て、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
「……うん。ありがとう。助かったわ」
その“ありがとう”が、ひよりには痛かった。
(ありがとうって言わないで)
(わたしが……)
ひよりは、言葉が出ないままベッドの横に立った。
ママが、ひよりの手を探す。
ひよりは反射で握り返した。
指先が冷たい。
「……怖かった?」
ママが小さく聞く。
ひよりは、頷く以外できなかった。
「……恥ずかしかった?」
ひよりの顔が赤くなる。
ひかりが口を押さえる。
かなでが目を逸らす。
ひよりは、泣きそうな声で言った。
「……それは……今は……やめて……」
ママは苦しそうに笑って、ひよりの手を軽く握り直した。
「分かった。……ごめんね」
その瞬間、ひよりの胸の奥がさらに痛くなった。
(謝らないで)
(謝るの、わたしなのに)
ひよりは、やっと声を絞り出した。
「……ママ……」
喉が詰まる。
言いたいことが多すぎて、どれから言えばいいか分からない。
「……わたし……」
(ごめん)
(ごめん)
(ごめん)
でも、その言葉を言ったら、ママがまた笑って許しそうで、ひよりは言えなかった。
その代わりに、ひよりは震える声で言った。
「……もう……ママにやらせない……」
ママの目が、少しだけ驚いたように見開かれた。
ひよりは続ける。
「……怖いし……恥ずかしいし……」
「……でも……」
ここで止まったら、また誰かが代わりに払う。
その怖さが、ひよりの背中を押した。
「……わたしが……やる……」
げんえんさんがふわりと浮く。
「いいね」
ひよりは睨む。
「今それ言う?」
げんえんさんは首を傾げる。
「褒めた。自分で選んだの、いい」
ひよりは言い返しかけて、止めた。
(……確かに)
(今まで、勝手に口が動いて、勝手に体が動いて)
(わたしは置いていかれてた)
(でも今のは、わたしが言った)
胸の奥が、少しだけ違う。
かなでが静かに言う。
「宵宮さん。なら、必要です」
ひよりが顔を上げる。
かなでは指を折った。
「情報共有。連絡手段。避難導線。撤退条件。役割の固定」
病室の空気が、少しだけ締まる。
かなではママを見る。
「……宵宮さんのお母さま。ご迷惑をおかけしています」
ママは首を振った。
「迷惑とか、そういう話じゃない」
短く言ってから、ママはひよりを見た。
「……ひよりが生きてるほうが大事」
ひよりの目が熱くなる。
かなでは頷いた。
「では、次からはこうします」
「朝倉さんは避難誘導の継続。現場の安全確保を優先」
ひかりがすぐに頷く。
「うん!」
かなでが続ける。
「私は“線”を引きます。裂かれる可能性はありますが、重ねて運用します」
ひよりが口を開く。
「……裂かれたら……どうするの」
かなでの目が揺れない。
「裂かれる前提で、二重三重にします。完全ではありませんが、時間は稼げます」
ひよりは唇を噛んだ。
(時間)
(時間があれば、守れる)
かなではひよりを見る。
「宵宮さんは、線の内側で戦う」
「無理に外へ出ない。出るなら、目的を決めて一歩だけ」
その言い方が、ひよりには救いだった。
(やることが、決まってる)
(迷わなくていい)
げんえんさんが淡々と付け足す。
「あと、隠すの禁止」
ひよりが反射で言い返す。
「……隠すの禁止って、何を――」
げんえんさんは真顔。
「体調。恐怖。あと、恥ずかしいの」
ひよりの顔が真っ赤になる。
「恥ずかしいのは隠させて!!」
一瞬だけ、口調が尖った。
ひかりが小さく吹き出しかけて、慌てて口を押さえる。
かなでが目を逸らして言う。
「……宵宮さんの抵抗感は理解します」
「ですが、戦闘の前に止まるほうが危険です」
ひよりは、ぎゅっと拳を握った。
(止まるほうが危険)
(それは……分かる)
ママが、小さく息を吐いた。
「……ひより」
「うん」
ひよりはすぐに返した。
ママは、少しだけ笑った。
「……今の、“うん”は強いね」
ひよりの喉が詰まる。
(強くなんかない)
(怖い)
(でも……)
ひよりは、自分に言い聞かせるみたいに小さく言った。
「……怖いままで……やる」
げんえんさんが、ふわっと頷く。
「それ、いい」
かなでが、静かに頷いた。
「恐怖を否定しない。停止しない。……それが一番現実的です」
ひかりが、ひよりの肩にそっと手を置いた。
「ひより、わたしも……逃げない」
ひよりはひかりを見た。
(ひかりは戦えない)
(でも、逃げないって言った)
胸が、少しだけ熱くなる。
ママが、最後にひよりの手を握り直す。
「……ひより」
「なに」
「無理はだめ。でも――」
ママは一拍置いた。
「決めるのは、あなた」
ひよりは、ゆっくり頷いた。
(わたしが決める)
(わたしが、選ぶ)
その言葉が、胸の奥に落ちる。
病室を出ると、廊下の白さが少しだけマシに感じた。
ひよりは首元のチョーカーを押さえる。
(まだ、怖い)
(まだ、恥ずかしい)
(でも、次は――)
(止まらない)
げんえんさんが隣で、当たり前みたいに言った。
「次、遠くないと思う」
ひよりは一瞬だけ目を閉じて、深呼吸した。
「……うん」
そして、言った。
「……だから、準備する」
ひかりが頷く。
かなでが短く返す。
「承知しました」
廊下の窓の外、夕方の空が薄い色をしていた。
静かすぎる。
嫌な予感がする静けさ。
⸻
■ その夜
帰宅して、ひよりは布団に潜り込んだ。
体は疲れているのに、目だけが冴えている。
(止まったら、死ぬ)
(止まったら、また誰かが払う)
げんえんさんの言葉が、頭の中で反響する。
かなでの“線”も。
ひかりの手も。
ママの白い髪も。
(……やだ)
(でも……)
目を閉じる。
閉じた瞬間、世界がすっと遠のいて――
ひよりは、もう一度だけ“内側”に落ちた。
⸻
■ 眠りの底
暗い。
でも、怖い暗さじゃない。
音がない。
でも、静かすぎて痛い静けさでもない。
(……ここ)
「……はぁ?」
呆れたような声。
ひよりが振り向くと、そこに“誰か”がいた。
輪郭はあるのに、はっきり見えない。
色が薄いのに、目だけが妙に鮮やかで。
そして、にや、と笑った気配。
「……泣き顔、ブサイク」
ひよりの喉がひゅっと鳴った。
(この子……)
「……誰」
「さぁ?」
肩をすくめる気配。小馬鹿にしたみたいに。
「でも、あんたの中。ずっと前から」
胸の奥がきゅっとなる。
知らない鍵が刺さるみたいに。
ひよりは小さく言った。
「……ママが、倒れた」
声が震える。
言った瞬間、涙が出そうになる。
相手は笑わない。
代わりに、淡々と告げた。
「見てた」
「……だから言ったじゃん」
ひよりが顔を上げる。
「……なにを」
「閉じんなって」
ぴしゃり。
「止まるのは普通。怖いのも普通」
「でも“普通”ってさ、守ってくれないから」
ひよりの胸が痛い。
「……わたしが、止まったから……」
相手は、少しだけ息を吐いた気配。
「うん。だからママが前に出た」
「それが嫌なら――」
「次、止まるな」
ひよりが震える。
「……怖い」
「知ってる」
「……恥ずかしい」
「知ってる」
「……でも……」
ひよりは拳を握った。
「……もう、ママにやらせない」
相手が、にやっと笑った気配。
「やっと言った」
「なら、約束」
「……約束?」
「二人でやるって、決めたじゃん」
ひよりの心臓が跳ねた。
「……二人?」
「そ。あんたと、あたし」
「でも、あなたが戦ったら――」
相手は即答する。
「代わらない」
「手は出さない。前には出ない」
「……じゃあ、なに」
「背中押すだけ」
「逃げそうになったら、ムカつく言い方で引っ張る」
「……最悪……」
「効くでしょ」
悔しい。
でも、確かに効く。
相手が、少しだけ声を落とす。
「あとさ」
「ここで“先輩”とか言うのやめてね」
「言ってない!!」
「言いそうな顔」
ひよりはむっとしながら、でも――ほんの少しだけ息が抜けた。
相手は、最後に言う。
「自分の意思でやるなら、見守る」
「やるって言ったあんたを、見てる」
「サボったら、煽る」
「……やめて……」
「やる」
暗闇が、ふっと遠のいた。
最後に、声だけが残る。
「起きな」
「準備しな」
⸻
■ 目覚め
ひよりは、息を吸って目を開けた。
天井。
カーテン。
いつもの匂い。
でも胸の奥に、さっきの言葉が残っている。
(準備しろ)
ひよりは首元のチョーカーを押さえて、小さく息を吐いた。
「……うん」
「……準備する」




