第8話 母、変身!?ヒーローすぎる。
放課後の校庭は、いつも通りうるさかった。
ボールが弾む音。
運動部の掛け声。
笑い声。
色と音が混ざって、世界がちゃんと“生きている”。
――その“生きてる”感じが、急に薄くなった。
(来る)
宵宮ひよりの耳が、勝手に伏せた。
喉の奥がきゅっと締まる。
遠くで、金属が捻じれるみたいな破壊音。
空気の温度が落ちて、色が抜けていく。
(まただ)
校庭の端、体育倉庫の影が――裂けた。
黒い割れ目が開いて、灰みたいなものが溢れ出す。
無表情の兵が列をなした。
淡い刻印の光を帯びた、灰兵。
――虚獣ではない。
虚獣が“獣”なら、灰兵は“兵”。
虚無王国の下位戦闘員。使い捨ての隊列。
悲鳴が上がる――はずだった。
音が、落ちた。
ボールが転がって止まる。
風が止まる。
遠くのサイレンすら薄い膜の向こうへ追いやられて、世界が息を殺す。
(なに……)
静けさの中心に、ひとつの影が立っていた。
黒い外套。白い手袋。
古い騎士譚の挿絵みたいな気取った装い。
仮面めいた整った顔に、冷えた微笑。
「――ああ。なんと無様で、なんと賑やかなことだ」
低い声が、校庭の隅々まで届く。
まるで“響かせる音”だけを選んでいるみたいに。
「我が名はセピア。静卿が一席」
一歩、踏み出す。
足音はしない。
なのに、地面だけが軋む。
「零彩の帝国の名において――」
白い手袋が、ひらりと宙を撫でた。
「その“色”と“騒がしさ”を、返してもらおう」
かなでの声が、静けさを断ち切る。
「全員、校舎へ! 走ってください!」
如月かなでは一歩前に出て、首元のプリズムコアに触れた。
光のラインと薄い紋様が弾け、白と淡青の軍装へ切り替わる。
「プリズム・セイバー、起動」
盾とレイピアが現れる。
かなでは迷わず、盾を地面へ当てた。
淡い星紋が走る。
「線の内側へ! 外には出ないでください!」
床に引かれた境界――“線”。
それがあるだけで、逃げる方向が揃う。
「走って! 中! 早く!」
ひかりが声を張る。転びそうな子の腕を引き、背中を押す。
ひよりは、その動きを見ていた。
(逃がしてる)
(如月さんが、線を引いてる)
(ひかりが、走ってる)
喉が詰まる。
身体が硬くなる。
怖い。
痛い。
恥ずかしい。
首元のチョーカーが、冷たい。
触れるだけであの日の全部が戻ってきそうで、指が動かない。
(……でも)
(また誰かが、殴られるのは――嫌だ)
ひよりは、震える息で一歩出た。
「宵宮さん、戻って!」
かなでが即座に声を飛ばす。
でも、ひよりは止まれなかった。
(決めたんだ)
自分で。
ひよりの指が、チョーカーに触れた。
光が弾けた。
薄い紋様が全身を走り、ローズピンクと黒のフリルが盛られていく。
胸元のコアが虹に屈折して、世界が一瞬だけ眩しくなる。
(やだ……)
(やだ……でも)
恥ずかしさで頭が白い。
でも体は軽い。力だけが溢れてくる。
灰兵が迫る。
ひよりは腰のリボンを掴んだ。
リボンが武器化して伸びる。リボンブレード。
(加減……)
まず絡め取る。
足を縛る。腕を縛る。動きを止める。
「……来ないで……!」
指を弾く。
――霧散。
灰が風に溶ける。
(倒せる)
(倒せるのに……怖い)
次々に来る灰兵。
ひよりは必死に“線の内側”へ追い込むように動いた。
足元が軽すぎる。
一歩で距離を詰めすぎる。
着地で地面が沈む。
(また……やりすぎ……)
そのたびに、かなでの線が守ってくれている。
瓦礫の破片が線の外へ弾かれる。
生徒の足元に星紋が点いて、踏ん張れる。
かなでは灰兵をレイピアで制圧しながら、線を引き直し続けた。
冷静に、端的に、状況を締める。
「朝倉さん、退避の継続。入口を一つに絞ってください」
「うん!」
その時。
セピアが、ゆっくりと線の前に立った。
白い手袋で、埃でも払うみたいに指先を振る。
「……端正だ」
かなでの線を見て、セピアは楽しそうに目を細めた。
「君は“線”で世界を仕切るのだな。……実に愛らしい発想だ」
かなでの眉が僅かに動く。
「主観ですね」
短いツッコミ。
でもセピアは微笑みを崩さない。
「美は客観だ。陛下がそうである」
そして、言い切った。
「美とは、ただ一つ。虚無王」
その名を口にした瞬間、校庭が一段冷える。
声だけが“正しい音”みたいに響く。
「陛下の美に比べれば、君たちは皆――不格好だ」
セピアの指先が、境界の上をなぞった。
ただ、それだけ。
線が――紙みたいに裂けた。
「……っ!」
かなでの目が初めて揺れる。
線が崩れる。守りが崩れる。導線が揺らぐ。
「線は引ける。だが――守れるとは限らない」
セピアが一歩踏み込む。
無音が濃くなる。世界が薄くなる。
その刃が、ひよりへ向いた。
「そして、君」
セピアはひよりを見下ろす。
「美しくない。……だが、目障りなくらい光る」
(やだ)
(見ないで)
ひよりの喉が鳴る。
痛みの記憶が、皮膚の下から蘇る。
「醜いのに眩しい。悪趣味だな」
息が浅くなる。
耳が伏せる。しっぽが震える。視界が狭くなる。
「恐怖は音だ。色だ。――削れる」
セピアの刃が落ちる。
かなでの盾が割り込んだ。
――金属音は、しない。
盾が“削られて”いく。白銀の表面が静かに散る。
「……っ」
かなでは踏ん張る。線を引き直す。星紋を重ねる。
でも、押し戻せない。
(格が違う)
ひよりの胸が潰れる。
足が動かない。
喉が鳴る。
恥ずかしさと痛みが一気に戻って、視界が狭くなる。
「……やだ……」
声が漏れた。
「……まだ、喚くのか」
セピアの声は、冷たかった。
「……見苦しい。静寂に還れ」
刃が、ひよりへ向く。
(終わる)
その瞬間、背中に腕が回った。
「ひより!」
ママの声。
次の瞬間、ひよりの体が浮いた。
ママがひよりを抱き抱えるように引き寄せ、そのまま前へ出た。
「ママ……!?」
(なんで、ここに――)
――連絡。
“隠すな”と決めた。
間に合う速度で、ここへ。
セピアの刃が落ちた。
ママの肩口を掠め、赤が散った。
でも、ママはひよりを離さない。
「……大丈夫」
震える声じゃない。
“母親の声”だ。
げんえんさんが、ふわりと浮いて言った。
「……このままだと、ひよりは死ぬ」
ママは即答した。
「分かってる」
そして、ひよりを抱いたまま、低く言った。
「ひより。目、閉じないで」
ひよりは震えながら首を振った。
閉じたい。逃げたい。
でも、抱えられている腕が強い。
げんえんさんが続ける。
「代行起動。……できる」
かなでが息を呑んだ。
「……大人は適合しないはずです」
げんえんさんは頷く。
「本来は無理。でも“代行”なら短時間だけ」
「代償はあるけどね」
ひよりが必死に叫ぶ。
「だめ!!」
ママは、ひよりを抱き直して、静かに言った。
「いい」
その言葉は、ひよりじゃなく――自分に言っているみたいだった。
「ならいくよ」
げんえんさんが、ひよりの首元を見る。
「解除」
光が剥がれた。
フリルが消える。軽さが抜ける。
チョーカーが熱を持ち、虹色の光が外へ溢れるように“解放”された。
ママがひよりを抱いたまま、胸元を押さえる。
「……来い」
解放された虹光が、ママの胸元へ吸い込まれていく。
プリズムの核が生まれ、ラインが走る。
次の瞬間。
ママが“ヒーロー”になった。
白銀のボディスーツ。短いマント。
胸元に星のコア。透けるバイザー。
狐耳と、しっぽ――ひよりと同じ証が、凛と立つ。
そして、若い。
ひよりと同じくらいの年齢に見える。
ひかりが、思わず声を漏らした。
「……ヒーロー……」
かなでが息を呑む。
ひよりは、ただ見ていた。
(ずるい)
(かっこいい)
(悔しい)
セピアの目が僅かに細まる。
「未知の発光現象……」
ママはセピアを正面に見据えたまま、横目だけでかなでを見た。
「如月さん、周りを! こいつは私が相手するわ!」
かなでは一瞬だけ驚いたが、すぐに表情を引き締めた。
「……承知しました!」
かなでは盾を地面へ当て直し、裂けた境界を“上書き”するように星紋を走らせた。
「線の内側へ! まだ外にいる人は戻ってください!」
避難が、もう一度“形”になる。
その間に――ママが、セピアへ踏み込んだ。
「触らないで」
声が低い。揺れない。
セピアの刃が閃く。
――今度は、空気そのものが削れた。
斬撃の軌跡に沿って、色が薄くなる。
芝の緑が灰へと寄る。
(これ……当たったら……)
ママは避けない。
白い手袋の指が、刃先を挟んだ。
きぃ、と遅れて金属音が鳴った。
握り潰す。
刃が粉みたいに散った。
セピアの微笑が、ほんの少しだけ歪む。
「……美しい抵抗だ」
一瞬だけ称えるように言って、次に冷たく続けた。
「だが、陛下には届かない」
セピアの足元に刻印が走り、無音が厚くなる。
視界の端が、薄い膜で覆われるみたいに鈍った。
セピアが、騎士の礼をするみたいに片膝を引いた。
「ならば――“美しくないもの”は、静かに消えるといい」
次の瞬間。
ママが踏み込んでいた。
速い。
音より先に、距離が詰まる。
拳が、セピアの腹へ入った。
空気が割れ、遅れて衝撃音が校庭を叩いた。
セピアの外套がたわみ、足元の刻印が一瞬だけ乱れた。
セピアが反撃する。
肘。膝。刻印の“線”で切り裂く。
――それすら、ママは最短で潰す。
肘を叩き落とし、膝を返し、肩で押し込む。
体格差も距離も、全部“正面”からねじ伏せる。
セピアの目が細まる。
「……力の質が違う」
ママは言葉を返さない。
拳。
膝。
肘。
最後に顎。
一撃ごとに、セピアの“静けさ”が裂けていく。
無音が薄れる。空気が戻る。色が戻る。
セピアが後退しようとして、足が止まった。
ママの手が外套の襟を掴んでいた。
「――ここ」
短く言って、引き寄せる。
そして――叩きつけた。
地面が沈んだ。
校庭に浅いクレーターができ、砂が舞う。
セピアが咳もせずに立ち上がる。
だが、刻印の光が乱れている。
その瞬間。
セピアの胸元の刻印が、別の光に塗り替わった。
撤退刻印。
セピアが小さく舌打ちする。
「……今いいところなのに」
目が冷える。
「陛下の命令が聞けんのか?」
言い返すような声。
だが次の瞬間、セピアは“騎士”の顔に戻った。
「……承知」
そして、最後にママを見て言った。
「次は、観測してから壊す」
裂け目へ溶ける。灰兵も消える。
音が戻る。風が戻る。世界が戻る。
校庭に残ったのは、息を飲む人々だけだった。
追い払った。
勝った。
でも――。
ほんの一瞬、ママの動きが鈍った。
バイザーの奥で、焦点が揺れた。
次の瞬間、光が剥がれる。若さが抜け落ちる。
ママは元の姿に戻り、膝をついた。
「……っ」
ひよりが駆け寄る。
「ママ!!」
抱き起こすと、体が異様に冷たい。
げんえんさんが近づいて、塩をさらさらとママの全身に振りかけた。
傷は塞がる。血も止まる。
でも、顔色が戻らない。
ひよりが叫ぶ。
「早く!! 早くママを治してよ!!」
げんえんさんは真顔で言った。
「ケガなら直せる」
「でもこれは、ケガじゃない」
ひよりの息が止まる。
「代行起動の代償」
「削れたものは、ぼくでも戻せない」
胸が、ぎゅっと潰れる。
(……戻せない)
かなでが状況を切る。
「……敵性反応、なし。追撃もありません」
かなでの変身が解ける。
制服姿に戻っても、目は揺れない。
「移動します。宵宮さん」
ひよりは頷けなかった。
喉が潰れそうで、声が出ない。
ひかりが横から手を差し出す。
「ひより、いっしょに! ね!」
ひよりは、やっと小さく頷いた。
ママの手が微かに動いて、ひよりの指を探す。
ひよりはぎゅっと握り返す。
その指先が――ほんの少し、ざらりとした。
塩の粒みたいに。
げんえんさんが、ぼそっと言う。
「……君のママ、がんばったね」
「でも次に同じことしたら――“残らない”かも」
ひよりの顔が真っ白になる。
「……やだ……」
夕日が沈みかけて、影が長く伸びる。
その影の中で、ひよりは小さく決めた。
(怖いままでも、前に出る)
(もう、ママに――やらせない)
校庭の喧騒が戻ってきた。
でも、ひよりの世界はまだ薄い。
静けさが、遠くで笑っている。




