#2
所長は苦笑した。
「そうそう。懐かしいなぁ……かなり昔に描いた絵なんだ。でも、自分の中で傑作だと思ったものの評価って最低だったりするんだよね。その絵に興味を持ってくれたのって、君と……昔お世話になった上司だけだ」
そうなのか。すごい素敵だと思うのに、やっぱり美術品の価値は自分には分からない。
「この絵のタイトル、あわい……でしたよね。淡色の淡い?」
「そう」
「俺ずっと考えてたんですけど、これって海の中でしょう? 水中に沈む展望台。周りに散らばる白い球体は光じゃなくて水泡」
「大当たり」
所長はこちらに視線を移し、パレットを置いた。
「俺の思い出。お気に入りの場所が沈んじゃったから、忘れないように描いたんだ」
筆をパレットに押しつけて、所長は続ける。
「家族が全員揃って行った最後の場所なんだ。それ以外はろくに出掛けなかったんだけど、月一はピクニックするのが恒例でさ……それも親が離婚する前、犬が死ぬ前、兄が精神病になって人を襲って、怒った相手からぐちゃぐちゃに殺される前のことだけど」
ぞっとした。言葉が出てこなくて、ただ彼の瞳を見つめてしまう。
まだ若いが、この施設を管理している彼は時々異次元を見ている。他人が見てないものを、いやあえて見ないようなものを直視する。自分はそれが面白いと思ったのだが、不気味だとか人間味がないとか言って彼を避ける入所者もそれなりにいる。
「沈んだ……っていうのは?」
「家族といたときは何回も行ったんだけど、離別してからは一回も行ってないんだ。車で行けばせいぜい二時間くらいの場所なのに。……それってもう、自分の中で消滅したも同然でしょ。だから記憶だけを頼りに、この先もずっと行かないだろう場所を描いた」
所長は立ち上がって、君も描く? とキャンバスを指さした。見る専門なのでとやんわりと断り、片付けをして共に部屋を出る。
「それより行木さん、先生は何だって?」
「あ……とりあえず経過観察って。内服薬も変わってません」
「そうか。行木さんは特に頑張ってるから無理しないでね。なにかあったらすぐに言って」
「ありがとうございます」
熱帯魚が泳ぐ水槽の手前で立ち止まり、彼は餌をやった。普段は優雅に泳いでいる魚も、たまに小さな魚を追いかけ回したりしている。こんな小さな世界でも派閥ができるんだから、人間社会なんてもっと悲惨だ。
「何か、何もかもどうでもよくなっちゃう時ってあるよね」




