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――「頼みごと」から始まる

 1


「ねえ、これだけお願いしてもいい?」


 ヨリカはそう言ってから、相手の顔を見る。

 返事を待つというより、断る理由を考える前の沈黙を与えるための間だった。


「急で悪いんだけど、私だと手が回らなくてさ」


 本当に手が回らないわけではない。

 ただ、自分でやりたくないだけだ。

 その本音は、声の調子を少し柔らかくすることで隠せる。


「あなたのほうが慣れてるでしょ?」


 頼みごとは、相手を立てる形で差し出す。

 能力を認められた人は、断りにくい。

 それを彼女は経験で知っていた。


 助けてもらうことに、罪悪感はなかった。

 困ったときはお互いさま。

 そういう関係でいることが、大人だと思っていた。


 正確には、

 そういう言葉が通じる相手だけを、周りに残してきた。


 誰かが長い愚痴をこぼし始めると、彼女は話を切る。

「で、結局どうしたいの?」

 結論のない時間は、意味がないと思っている。


 相談はする。

 助言も聞く。

 けれど、決めるのはいつも自分だった。


 そのほうが効率がいい。

 何より、決断の後始末を背負わなくて済む。


 最初のうちは、周りも何も言わなかった。


「要領いいよね」

「はっきりしてて助かる」


 そう言われるたびに、

 彼女は自分のやり方が正しいことを確認する。


 返事が遅くなったのは、たまたまだと思った。

 予定が合わなくなったのも、忙しい時期だからだと思った。


「みんな余裕ないんだな」


 そう考えると、話は終わる。

 自分の振る舞いを見直す理由は、どこにもなかった。


 頼みごとを送る宛先は、少しずつ減っていった。

 けれど、完全になくなることはない。


 だから彼女は、

 減っていることに気づかない。


 助けてもらえない日が増えても、

「今回は運が悪かっただけ」と片づける。


 誰かが離れても、

「合わなかったんだな」で済ませる。


 便利に使っていた、という発想は浮かばない。

 使われていたのは、いつも自分のほうだと思っている。


 だって、

 頼みごとはお願いで、

 無理なら断ってよかったはずだから。


 彼女は、

 誰も無理やり引き留めた覚えがなかった。





 2


 ミカコの部屋。


 通知音が鳴ったまま、画面は伏せられている。

 机の上で、スマホが一度だけ震えた。


 開かなくても、だいたいの内容は分かる。

 最近は、そういうメッセージばかりだった。





 最初に手伝ったのは、ほんの軽いことだった。

「ちょっとだけ」

「すぐ終わるから」


 本当に最初は、すぐ終わった。


 次は少し長くなり、

 その次は、終わりが見えなくなった。


 断ろうと思ったことは、何度もある。

 でも、そのたびに別の言葉が浮かぶ。


 ——困ってるみたいだし。

 ——今さら断るのも、感じ悪いよな。


 そうやって引き受け続けた結果、

 いつのまにか、自分の時間が後回しになっていた。





「相談があるんだけど」


 ヨリカからそう言われて、ユリアは席を立った。

 話を聞きながら、頭の中では別の仕事を片づけていた。


 途中で、提案を挟む。


「それなら、こうしたら?」


 彼女は頷いた。

 メモも取った。


 でも次の日、

 何事もなかったように同じ相談を持ってきた。


 そのとき初めて、

 相談ではなく、処理を任されているのだと気づいた。





 リクとヨリカの最寄り駅までの道は、いつも同じだった。


 迎えに行く。

 待つ。

 遅れてきた彼女に、「ごめん」と言われる。


「助かる~」


 その一言で、

 全部が軽く流される気がしていた。


 帰りの車内で、ラジオの音だけが続く。

 話しかける気にならなかった。


 それでも次も迎えに行った。

 行かなくなる理由を、考えるのが面倒だったからだ。





 グループの名前が、画面に表示される。

 彼女の名前もある。


 誰かが、少しだけ返事を遅らせた。

 それに気づいた別の誰かも、返さなくなった。


 特別な話し合いは、なかった。

 相談も、確認も。


 ただ、

 動かない選択が重なっただけだった。





「いい人だよね」


 誰かがそう言うと、

 全員が頷いた。


「悪気はないんだと思う」


 それ以上の言葉は出てこない。

 悪く言う理由も、庇う理由も、もうなかった。


 話題は自然に変わった。





 メッセージは読んだ。

 既読もついた。


 どう返すか、しばらく考えた。


「今回は無理」

「手伝えない」

「ごめん」


 どれも、余計な説明が必要になりそうだった。


 結局、

 返さなかった。


 それが一番、簡単だった。





 偶然、道で見かけた。

 目が合った。


 会釈をした。

 向こうも返した。


 それ以上、近づかなかった。

 用事がなかったから。


 声をかけなかった理由を、

 あとから考えることもなかった。





 その夜、

 彼女は一通のメッセージを送った。


 返事は、来なかった。

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