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今度は私があっけにとられてしまう。
笑われるようなこと言った覚えは、ないんだけど。
でもリルの笑い声は、おかしくて仕方ないっていうより、呆れて投げやりに声を立てているように聞こえた。
「子供がかわいそうだって? 子作りは契約ですることじゃない? からかってるのか? どれも、婚約前に散々おれが君に言ってきたことじゃないか! 一切聞く耳を持たなかったのは君だろう? 夫婦となるんだから、幼馴染として以上にお互いを知る時間を持とうとおれが言っても、君は遊興に明け暮れて一度も向き合おうとしなかった」
絶句した。
金色の瞳が、本物の肉食獣のように私をにらみつけて燃えている。
嫌われている――っていうより、これはもう、憎まれている。
「君はその気性のせいで、小さいころから友人がいなかったな。集まってくるのは、小金や飲み食いを目当てにした、つまらないやつらばかりで、周囲の顰蹙を買い続けてきた。それでもおれは幼馴染として、君を誹謗し貶めるやつらから、ずっと君をかばってきたつもりだ。君との縁談が持ち上がった時も、おれは――おれだけは、戦屋の金目当ての結婚とグリフォーンの人々に笑われているのも承知で、君を妻として愛そうとした」
リルの眼の光は強い。
そこにこもっているのは、まごうかたなき怒りだった。
でも、どうしてだろう。
私には、リルが、涙を流さずに泣いているように見える。
リルは、続けてまくしたてた。
「今日までに、おれなりに心の整理をつけたつもりだったよ。契約のことも、一度飲んだ条件だからな、ああ、守ろうとも。だがその初夜に、おれが君に言い聞かせ続けたことを逆におれに説き始めるというのはどういうことだ? どこまでおれを道化にするつもりなんだ」
「ち――」初めて聞く二人の話に圧倒されていた私は、ようやく口を開いた。「違うの、リル。私は記憶喪失で、まさかリルが私に言っていたことと同じ話をしてるなんて、思ってもいなくて。お願い、信じて。私、あなたをばかになんてしてない、思ったこともない」
狼狽するあまり、敬語もどこかへいってしまった。
こうなったら、彼にしたら荒唐無稽にしか聞こえないとしても、転生のことを打ち明けてしまおうか。
それがいいかもしれない。そうだ、このまま話を取り繕うより、そのほうがずっといい。
この世界の誰に信じてもらえなくても、リルにだけは私の言葉を信じて欲しい。
この世で一番悲しいことは気持ちが通じないことだ、とは誰の言葉だっただろう。
私の一番の恩人に対して、私が誠実であろうとしていることだけは、分かってもらいたい。
でも。
リルの眼光は、緩まなかった。
「記憶喪失、な。……それを信じろと、本気で言っているのか? 君が記憶喪失や人格変化、あるいは悪霊憑依なんかで騒ぎを起こすのは、おれだけを騙した時と、周りを巻き込んだ時とで、合わせればかれこれ十回を超えるんじゃないか?」
「な……」
転生のことをどういう順番で話すか考えようとしていた、私の頭の回転が、止まった。
そんな。これじゃどうしたって、信じてもらうことなんて。
いまさらですが記憶喪失というのは嘘で、本当は別の世界から転生してきたんです。あなたたちは、私がプレイしていたゲームのキャラクターなんですよ。
そんな話……
途方に暮れて、私はうつむいてしまった。
見下ろすと、私のものじゃない体がそこにある。
スタイルがよくて、美しくて、本当なら憧れてしまうような。
でも、私の大切な人を、深く傷つけてきた人の体……
「まあ、分かったよ」
えっ、と顔を上げた。
「な、なにが? ……ですか?」
なにを分かってくれたんだろう? 記憶喪失のことだけは信じてくれる、とか?
「君に今夜、その気がないことだけは分かった。無理強いなんてしたくない。城に帰るさ」
そう言うと、リルはシャツとジャケットを手早く羽織った。
「大きな声を出してすまなかった。……なんにせよ、もう少し冷静になってから話そう。お互いにな」
「リ……」
その背中に、手を伸ばして。でも、届くはずもなく。
彼は出ていき、部屋のドアがぱたんと閉められ、間もなく、馬が遠ざかっていく音が聞こえた。
冷たいシーツの上で、膝を抱える。
すると、ドアがノックされた。
「……どう、ぞ」
鼻声でそう言うと、マティルダが戸惑いながら入ってきた。
「ユーフィニア様? リルベオラス様は、お城へお戻りになったのですか?」
月明かりの中で、こくりとうなずく。
その私の顔を見て、マティルダが驚いた顔をしながら、ベッドの横まで来た。
そして、私の傍らに座る。
「わたくしは、グリフォーンにおられたころからユーフィニア様のおつきでしたが、泣き顔を拝見したのはずいぶん久しぶりです」
「ん。私今、ひどい顔してるよね」
「……なにがあったのです?」
「……マティルダ。ユーフィ……私って、めちゃくちゃ評判悪い?」
「いまさらなにを。周辺諸国では、最悪に近いでしょうね。姫という地位をいいことに、お金の使い方は荒くて汚い、人の気持ちは考えない、勝手気ままで生活は乱れているときていますから……」
「ふふ。本当、最悪だね」
マティルダの肩に、横から頭を、こつんと乗せさせてもらった。
彼女の細い指が、そっと私の背中をさすってくれる。
「なんだか今日のユーフィニア様は、幼い少女のようですね」
本当は、ユーフィニア本人より、マティルダより年上なんだけどね。
って、そんなことは今よくて。
「マティルダ、昔から私のこと知ってるんだ?」
「メイドとしてお勤めする以前のことは、市井の噂程度でしか存じませんが」
「たとえば?」
「たとえば……枚挙にいとまもありませんが、貧しい農夫を差別したとか、民の税を勝手に倍増させようとしたとか、神への供物の子羊の肉をつまみ食いして、メイドに罪をなすりつけたとか……後は、あまり口にしたくない言葉を含みますので、ご容赦を」
半ば覚悟して訊いたのだけど、それでも顔が引きつる。
「ははは……困ったもんだね。じゃあ、私の評判が悪い中、リルだけはかばってくれていたって、本当?」
「本当ですとも。どう考えてもユーフィニア様に非があるとしか思えない細大様々な事件が起きるたびに、リルベオラス様は他国の王子でありながら、グリフォーンの大臣や宰相、果てはあなたの御父上に対してまででも、堂々と論陣を張ってユーフィニア様を守っておいででしたよ」
疑っていたわけじゃないけど、本当なんだ。
リルってやっぱり、いい人だなあ。
「ただ、それでユーフィニア様が特別恩に感じたり、反省して行動を改めたりということは、残念ながらありませんでしたが」
「えへへ。そうなんだね……。なら、結婚する時、ずいぶん反対された?」
「それはもう、リルベオラス様を敬う者たちからは、一様に。中には、あなた様を妃にするのであれば、つき合いを考えると言った国や商家まであるようですから」
「そうかあ……。その上、子供の幸せなんて顧みない子作りの契約なんてさせて、本当にひどいなあ、私は……。しかも、初夜に寝てたし」
「ね……寝……?」
マティルダが引いてしまった(それはそうだ)。
リルを侮辱してしまったことで、つい、泣いてしまったけど。私がそんなふうに、さめざめとしている場合じゃない。
ついこの昼間に心に宿した決意は、嘘じゃない。
リルに、不幸な結婚なんてさせない。
「マティルダ」私は体を起こした。「私、リルには幸せになってもらうよ。なにをしてでも」
私――ユーフィニアでは、リルを幸せにはできない。
それなら。
それなら、離婚するしかない。
そしてできるなら、リルが本当に好きな人と結婚してもらいたい。
そうしたら私は私なりに、もし元に戻れなくても、この世界でやれる限り生きてみよう。
心細い思いもするかもしれないけど、リルさえ幸せになってくれるなら、きっと私も気を強く持って気持ちで生きていけるよね。
月の光が、私のシルバーブロンドを輝かせている。
もう涙は止まっていた。