<第四章 シナリオの幕開けは突然に>
十一月下旬の土曜。
ヘルハウンズの山々が、紅葉してきた。
そして、リルが、戦支度をして出兵することが増えてきた。日帰りの時もあれば、泊りがけになることもある。
おかげで、有名無実化した子作り契約はうやむやになっており、少しだけ安心はしたものの。リルの部隊はグリーシャとの国境のすぐ近くを巡回していて、時折小競り合いが起きることがあるらしい。
さすがにまだ、敵の正規兵と直接戦闘になることはほぼないらしいのだけど、明らかにグリーシャにお金で雇われて散発的に攻撃してくる傭兵団がいくつもあって、一歩間違えば一気にグリーシャとの戦争に発展してしまいそうなのだという。
ゲームのシナリオが始まる一月一日、アリスは小国連合にやってくる。
そうして各国の王子と立て続けに出会っていくんだけど、どうシナリオ分岐しても、一二ヶ月はグリーシャと小競り合いのような戦闘はあるものの、一応平和な状態が続く。
だから、そう大規模な戦いというのはまだないはずなのだけど、それでもリルが武装して先頭に赴いていくのを見ると、落ち着かない。
朝、リルが兵を引き連れてお城から出ていく時は、必ずマティルダに馬車を出してもらって見送りに行った――結婚する前のユーフィニアは、婚約してからもまず行かなかったらしいけども。
すると、毎回たくさんの国民が城門の前に詰め掛けて、大声でリルの部隊へ戦勝祈願のエールを送ってくれた。
「慕われてるんだなあ……」と私が思わずつぶやくと、御者を兼ねて同行してくれるマティルダが「ええ。リルベオラス様は我が国の誇りです」と深くうなずく。
お城からの帰りに、馬車で畑へ寄った。
この日はリビエラとクライネが来てくれていて、畑仕事を見てくれていた。さすがに、自分たちで作業するのは、それぞれの父親である王様に止められたらしい。
私がいなくなる前に、この畑――というより農園のような規模になってきたけど、ここだけはしっかり軌道に乗せたい。
幸い、リルが多忙になっても、ノウハウはお城の役人さんたちにしっかり伝達されていて、ルーズ商会に負けずヘルハウンズのペースで順調に売り上げが上がっている。
「あ」
「どうなさいました、ユーフィニア様?」
「う、ううんなんでもない」
アリスが到着する日がくるということは、リルが私以外の結婚相手と縁深くなった状態で、私がこの国を離れる日が近づいているということだ。
でもあと、ひと月ちょっとで、あのリルに女性を接近させるというのは、どうにも難しい。こうなったら、私がヘルハウンズに残って、アリスとリルをくっつけるように動いてみるとか……いや、リルが、正妻の私がいる状態でアリスとそんなことになるとは思えない。
それなら一度離婚して、陰ながらリルとアリスをどうにか……って、そんな器用なことができる自信もない。
それに。
「……そういえば、この世界の離婚ってどうやるんだろう」
結婚の時も、儀式とか手続きとかリルが言っていた気がする。離婚します、の一言で終わるものなんだろうか。
「は? 今なにかおっしゃいましたか?」
「あっううん、なんでも」
「まあ。うふふ、相変わらず挙動不審でいらっしゃいますね」
「……微笑みながらそんなこと言われたの、私生まれて初めてだと思う。それはそうとマティルダ、図書館に寄れる?」
そうして馬車を図書館に寄せてもらい、外から中身が見えない皮のバッグに、王族のしきたりや離婚についての資料などを何冊も借りて入れて、午後も遅めの時間に邸に帰った。
司書さんに不審に思われないよう、カムフラージュを兼ねてほかの本もいくつも借りたので、バッグはぱんぱんである。
とはいえ、この中に入っている農業関係の本も、バラやハーブや香辛料についての本も、ちゃんと必要があって借りているので、無駄なものはない。
「ただいま、メサイア。私部屋で調べものしてるから、お茶を大きめのポットに入れて持ってきてくれる?」
受験勉強の時にコーヒーで似たようなことしたな、などと思い出しつつ、ベッドに離婚関係の資料を広げた。
作業台風の机は従来の資料で埋まってしまっているので、今ではここが、この邸で一番新しい書類を広げるのに向いたスペースだ。なにしろ、広い。
そして、端から目を通していく。
こんな時、大学に通ってレポートを書いた経験でもあれば要領よく調べられるのかもしれない、のだけど。
「せっ……専門用語が多くて、読むのがとっても疲れるッ……」
この世界の文字自体は、日本語と同じくらいに読み取ることができるのだけど、法律関係の熟語や古語みたいな文章が多くて、そう簡単には読み進められない。
辞典でも一緒に借りてくればよかったと思いつつ、夕方から夜まで、食事の時間以外はひたすらに資料を読んだ。
知識が足りないせいで、それでは離婚が成立しませんなんてことになったら目も当てられない。
そう思って資料と格闘しているうちに、朝が早かったせいもあって、いつの間にかつい、うつらうつらとしてしまった。
はっと気がついて、ベッドの上で体を起こす。
「うう、ベッドで読んでるとすぐ睡魔に負けそう。でもだめだ、ここで弱音なんて吐いたら」
ふるふると頭を振って、背筋を伸ばすと。
私のすぐ横に、もう一人別の誰かが、ベッドに座っていた。
「きゃああああっ!? だ、誰っ!? ……って、リル」
「ああ。今日は思ったより楽に終わったんでな。さっき帰ってきた」
壁掛け時計に目をやると、二十時を少し過ぎたところ。
「早いって言っても、充分遅いよ。疲れてるでしょう。待っててね、今いつものリルのベッド用意するから」
「いや、気にしないでくれ。おれのほうも今、それどころじゃなくなったしな」
私は体を起こしたところで、ぴたりと動きを止めた。
「そうなの? なにかあった?」
「ああ。なかなかの重大事だ。……これは、なんだ?」
そう言ってリルが手にしたのは、何冊もの、王族の離婚についての書籍や資料だった。
ざっ――と、顔から血の気が引く音が聞こえた気がした。
「そ、……れ、は」
「ああ。これは?」
顔を資料に向けたまま、リルが視線だけを私に向ける。
この間の、答えは言える時でいいと言ってくれた時とは全然違う視線だった。
当たり前だ。だって。
「……離婚、したいのか。おれと」
「ちが」
違わない。だから、違うと言えない。今はひとまずそう言って、なんとかごまかしたほうがいいはずなのに。
リルの視線に射抜かれて、私は、とうてい嘘がつける状態ではなくなってしまった。
「君とは、ここのところ、今までになく距離が縮まった気がしていた。俺が思っていたより、ずっと楽しい日々が始まるんじゃないかと思って、がらにもなく浮かれてたんだ、これでも。……でも、君は違ったんだな」
リルが私から視線を外す。その目は、もう二度と、これまでのような温かい瞳を私に向けてはくれないのではないかと思えた。――それも、当たり前だ。全部私のしたこと。私のせい。言い訳の余地もない。
「参ったな。まったく分からなかったよ。君も、おれとの生活を楽しんでくれていると思ってた。自然に、そう信じていた。それなのに、心の中では……そうだったのか。道理で――」
そこで、リルが唇を嚙んだ。
「――いや、なんでもない。そうだな、君にしてみれば、国の都合で成立してしまった結婚だ。気が向かなくても……無理のないことだ」
リルは言うのをやめたけど、なにを言おうとしたのかは、私にも分かった。
道理で、閨を断るはずだ。そう言おうとしたのだろう。
でも、リルはやめた。そうとは限らないから。今そんなことを言うべきではないから。妻を、追い詰めてしまうだけだから。だからやめてくれた。
リルは、最初に好きになった時からずっと、リルそのもの。あのままだ。優しくて、言葉少なでも思いやり深い。
なら、私も、今ここで、やるべきことをやりきらなくては。
取り繕うのではなく、波乱を。必要なら、恐れずに。求めるもののために。
「……そうだよ、リル。私は、離婚したいの。あなたと別れたい。前から思ってた」
一言口にするたびに、心の奥で、なにかが剥がれ落ちていく音が聞こえる。
でもそれが必要なのだ。
覚悟を決めるとは、そういうことだ。大好きな人のために、私にできることをする。
私たちはお互いになにも失くさない。ただ離れるだけで、誰も、なにも、誰にも奪われない。人の別離はいつでも起こりうるし、その気になれば誰にでもできる。だから私にだってできるはず。
「私が、人より奔放な性格なのは知っているでしょう? やっぱり、ヘルハウンズの王子様の妻っていうのは窮屈で。私には向いてないし、あなたには――」
――あなたには、もっとふさわしい人がいる。
そう言うのは卑怯だ。たとえ本音でも。一番の理由でも。今言ってはいけない。危なかった。
「――あなたよりも、もっと別の人のほうが私には合ってると思う。だから、ごめんなさい」
頭を下げる。深く。本当は、もっと前からこうしたかった。静かに進行させていた裏切りを謝りたかった。
「……ああ。君の気持ちは分かった」
そう言われて、胸のつかえがとれたというよりは、一生懸命に抱きしめていたものがするりとどこかへ消えてしまったように思えた。
でも、これでよかった。
最初からあれこれ考えず、素直にこうすればよかったのだ。
リルは私の気持ちを尊重してくれる。本気で別れたいと言えば、それを受け入れてくれる。
これからリルがどうなっていくのか、それだけは気になる。
でも、今はまだ上手く頭が回らないけれど、私がいなくなったくらいで、リルが自暴自棄になることはないだろうから、きっとなんとかなる。
そんなことを考えていたら。
「……リル?」
私たちは、ベッドの上に二人で座っている。
その傍らにあった本を、リルが重ねて、床に下ろした。
なにをしているんだろうと思っていたら、右手首と左肩をつかまれて、そのままベッドに押し倒された。
「り、リル?」
「君が、契約のことを申し出た時……おれたちは、こうすることでだけつながりを持つ夫婦になるんだと思っていたよ。だが、まさか、一度も妻の素肌を見ずに、別れを言い渡されることになるとはな」
そうだ。
リルは私がわがままを言ったために、男性としての欲望を満たすのを我慢してくれている。彼は誠実でいてくれた。だからこそ、つらいはずだ。
知らず、自分の体を見下ろす。
ユーフィニアは、体の線がきれいだ。元の私より、ずっと。魅力的に思わない男性はいないだろう。
私がリルにできることは、もう、とても少ない。
「……リル」
「おう?」
だから私があげられるものなら、せめて、なんでも。




