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アリスが、クラウン暦九百九十九年の一月一日に、ゲームの舞台である小国連合の一国を訪ねるところからストーリーは始まる。
少し離れたところにある大国が侵略してくる脅威にさらされながら、小国連合は自国それぞれの王子をリーダーにして連帯し、大国に対抗していく。
その王子たちが攻略対象の乙女ゲーム、それがハイグラことハイグランド・シンフォニーだ。
リルはその中のキャラなわけだけど、ほかの王子たちがどこか線が細い印象の中、リルだけはいつも辺境の制圧だとか大国侵略の防衛だとかで、メインシナリオが進むにつれ戦ってばかりになっていく。
というのも、リルはゲーム内に恋愛イベントが用意されていなくて、攻略対象外のサブキャラ扱いなのだった。
メインイベントとして各王子とヒロインとの恋愛が進行する中、リルは武骨なまでに出撃を繰り返して、そしてほとんどの場合敵を撃退して勝って帰り、小国連合を守ってくれる。
ある意味では、メインキャラが恋愛する余裕を確保してくれている大功労者が彼なわけで、ビジュアルがほかの王子に勝るとも劣らない美形ということもあり、主役たちに匹敵するくらいの人気がリルにはあった。
私も、ゲームを始めて少ししたら、すっかりリルにハマってしまった。
あの時期、あのタイミングでハイグラをプレイしていなかったら、あんなにリルを好きにはならなかったのかもしれない。
私は子供のころから絵が好きで、大きくなったら画家になることを夢見ていた。
美大の受験は本当に大変だったけど、なんとか合格はできた。自活していきたくて、一人暮らしも始めた。
でも、私の絵なんて、並み居る天才たちが渦巻く美術の世界では、簡単に埋もれてしまった。
厳しい講評のたびに落ち込んで、それでも気持ちを奮い立たせて頑張ったけれど、卒業してからも誰からも評価されない絵を描き続けることは、私にはできなかった。
ううん、評価なんてなくても描きたい絵を描こうと開き直ったことも一度や二度じゃなかった。でも、なによりも、私と同じ方向性で、私よりずっといい絵を描く人が何十人もいるのが、自分が絵を描く意味なんて全然ないように思えて、つらかった。
その人たちの絵が素晴らしいことが分かるだけに、自分の絵だけの価値を信じて開き直ることもできなかった。
美大を出た後何年かして、生活できなくなって、画家になる夢をあきらめた。
二十歳をいくつか過ぎただけの段階で、小さいころからの夢を棄ててしまった自分は、とてもくだらない人間に思えた。
そんな時、気晴らしになればと友達に勧められたのがハイグラだった。
絵がきれいで、キャラクターグラフィックだけじゃなく、背景まで生き生きと描かれているのに惹かれた。
そしてプレイしてしばらくすると、攻略対象の王子たちの誰よりも、リルに目が行ったんだった。
彼は指揮官として優秀なので、本人は特に愛想がいいわけじゃないのに、周りからの信頼は厚い。
リルは最初は寡黙だけど、プレイを進めるうちにだんだんと、勝ち気で強気な性格が覗いてくる。
たまに少し意地悪も言う。自分は好きなようにやっているだけだ、とよくうそぶく。
そのくせ、自分の国だけじゃなくて、小国連合すべてを守るために出撃していく。
そしてけがをすることはあっても、必ず無事で帰ってくる。自己犠牲なんてごめんだ、と少しだけ笑って。
そう、リルはいつも、自分以外のみんなを守るために戦う。
プレイヤーキャラでヒロインのアリスとは、終盤で少しは会話が増えるし、どうもリルってアリスのことちょっと好きっぽいなと思える描写もあるんだけど、特に仲が進展することはない。
リルの隠し恋愛シナリオの存在がまことしやかに噂されたことはあったけど、結局全部ただの噂だった。
つまり、愛する女の子と結ばれることをモチベーションにすることもなく、とにかく小国連合の守護者として奮戦し続けているのが、リルなのだ。
しかも、それで偉ぶるようなところが全然ない。
その献身的で崇高な人柄が、ゲームのキャラだというのに、私の心に突き刺さった。
自分が求めても手に入らなかったものとか、自分の力の足りなさとか、自分ができなかったこととかに悩んでばかりいて、自分以外の誰かを思いやったことなんて私はなかった。そのことに、リルが気づかせてくれた。
私には、これまでとは、全然違う気持ちで生きていくことができる。知らなかったことを新しく知ったなら、生き方だっていいほうに変えられるはずだ。そう思えた。
夢がかなわなかったことは、悲しくてつらくて、この気持ちはなくせない。
でも、私は、必ず生還してくるリルのように、自分を守って。そして大切な国や仲間のために戦うリルのように、大切に思える他人も思いやって生きたい。
それまでゲームや漫画にあまり興味がなかったせいもあってか、フィクションのはずのキャラの生きざまに、私は思いっきり影響されてしまったのだった。
小さいころからそうしたものに慣れ親しんでいれば、ここまでのインパクトはなかったのかもしれないのだけど。
画家になれなかったことを思えば胸は痛むけれど、でもリルのことを思えば、うずくまりそうなくらい気持ちが落ち込む時も、元気を取り戻して立ち直れた。
それから、食品流通会社の事務職員の仕事を見つけて働きだした私は、自分なりに充実した毎日を送ることができた。
もしかしたら、夢をあきらめてから死ぬまでの間を、余生みたいに思いながら生きていくことになるかもしれなかったと思うと、改めてリルへの感謝は尽きない。
もし男の人とつき合うなら、リルみたいな人がいいと、本気で思った。
ゲームの中の人なのに。
■
……しばらく、そんなリルとの思い出に思考を奪われていたけど。
私は、まだ覗き込めない手鏡を握りしめつつ、心の中で神様にぱんと手を合わせた。この世界に神様がいるのかどうかは、分からないけども。
できることなら。
できることなら、せっかくハイグラの世界に来たのなら、少しでもリルと関わりのあるキャラになりたいです。
わがままでごめんなさい、神様。
そして本当にできることならだけど、リルと会って、一度でも、画面越しじゃなく、お互いに見つめ合えたら。
あなたの、その声を聞けたら……!