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さすが、新しく農作業を始めるというのは、いろいろな手間がかかるもので。
あっという間にひと月近くが過ぎて、世は十一月の中旬を迎えていた。
「見事なものですね。これだけの人数を集めるとは」
朝と昼の間の、馬車の上。丘の上からエルダース畑を見下ろして言ったマティルダに、隣に座った私はうなずく。
畑で所狭しと働いているのは、何十人という出稼ぎ労働者だ。
リルに畑の計画を打ち明けたあの夜、そのすぐ次の日。リルが平易な表現で、大量の公告を迅速に出して農夫を募集してくれたおかげで、人員はすぐに集まった。
彼らを総動員して、ヘルハウンズ領内の山へ手分けして分け入り、ヘルハウンズお抱えの植物学者の指示によって、山に影響を与えない程度に――それでも数百株のエルダースが集められた。
そしてそれらを、少し耕して肥料をまいただけの荒地に植え替えると、本当に丈夫なもので、ほとんど枯れずにそこに根づいた。
かなり生命力が強くて、摘んでも摘んでもすぐに新しい葉が生えてくる。学者さんが言うには、山の中よりも日当たりがよくなったせいもあるらしい。もともと常緑樹とはいえ、まだ冬になる前だったのもよかったのだ。
エルダースは挿し木にしても、枯れずにぐんぐん伸びた。こちらはまださすがに小さいので、専用の区画でじっくり育てることにする。
馬車が畑の端に着いた。
私は、自分用の鍬を手に馬車を降りる。いくらエルダースが土を選ばないといっても、ある程度の開墾はいる。まだまだ新しく運ばれてくる分の株を植えるのに、人手は余るということはない。
農夫のみんなに声をかけた。
「おはようございます、みなさん!」
「おお、ユーフィニア様!」
「お待ちしておりました、今日もよろしくお願いいたします! ……おや、そのいでたちはなんです?」
農夫の一人が、私の服装を見て不思議そうな顔をする。
「ふふ、これはジャージというのです!」さすがに、現世のジャージほどの伸縮性はないけれど。「かなり作業しやすいので、よければみなさんの分も作りますよ!」
私も畑仕事に混じると言った時は、マティルダたちはあっけにとられていた。というより、やんわりと止められた。
監督するならともかく実作業というのは、下手をすると農夫の邪魔で迷惑にしかならないということも言われた。
でもこの事業は、失敗できない。
どんな作業をして、なにが必要で、なにに困って、なには不要で、どれだけの時間をかければなにができるのか。
それを知るには、私も自分から飛び込んで農夫の一員になるしかない。
迷惑は、ごめんなさい、いまだけかけさせてください。
開墾場所へ向かう時に、ちらりと、畑の隅に目をやる。そこはプラナスの区画だった。
こちらは実なので、年中収穫できるわけではない。でもあれだけおいしいなら、きっと名産にできる。砂糖が貴重な世界なら、甘い果物はかなり需要があるのでは。
でもまずは目の前のエルダースだ、ようし、と気合を入れた時。
後ろから声をかけられた。
「まさか、本当に鍬を担いでいるとはな」
ぎょっとしながら振り向くと、そこには。
「り……リル!? どうしてここに!?」
「どうしてもなにも、公の事業だぞ。視察にくらい来るだろう」
リルは、乗ってきた馬をすでに手近な木立につないでおり、すたすたと私のほうへ歩いてきた。
「で、でも今日は来ない予定のはずじゃ」
「執事が君に言いくるめられて、おれの予定を横流ししているとはな。気づいたのは昨日だよ。まあ、共寝に行くたびに筋肉痛で伸びている君を見ていれば、おおよその検討はついたけどな」
「その節は本当に、毎回面目ない……」
本当は、なんとかなりそうな日もあった。リルにも我慢させるのは悪いと思った。でも、キスだけでくじけそうになる私が、その先に進んで平気でいられる気がしない。
体の不調を理由にすれば、優しいリルは二つ返事で赦してくれた。
ごめん、リル。新しい誰かとは、あなたももっと――
「いいさ。どれ、おれも手伝おう」
考え事をしていたせいで、一瞬なにを言われたのか分からずにいると、リルが、鍬を振り下ろす仕草をする。
「え、ええ!? そんな、リルがやる作業じゃないでしょう!?」
リルが半眼になった。
「それを言うなら、君がやる作業でも全然ないけどな。そら、鍬も鋤も借りてきた」
「うう……助かる、けど、なんだか罪悪感……」
「それに、報告もある。正式な帳簿は後で見せるが、ルーズ商会から、最初に出荷したドライ・エルダースの売上金が届いた。王の目玉が飛び出る額だったよ。もちろん、いい意味でな」
「本当!?」
危うく、鍬を放り投げるところだった。
やった。まだほんの一歩だけど、まずはやった!
生の葉をそのまま出荷することも考えたけど、まだ製造方法は秘密にしておけるならそのほうがいいと思って、粉の状態でだけ売りに出していたので、その分加工代として単価も上げられた。
なにしろ、葉を摘んで煎るだけだから、やり方さえ分かれば誰でも出来てしまう。
いずれは情報を遮断しきれずに広まってしまうだろうけど、それまでに稼げるだけ稼げればいい、と割り切った。
「商談の場に、おれも君も参加しただろう。商品の質だけではなく、君の聡明な様子――前評判とはずいぶん違って――、それもずいぶんいい印象を強めたらしい。初めてドライをかがせた時のあいつらの顔、今でも忘れられんな。目を白黒させて、いくらだ、いくらでどれだけ売ってくれるんだ、ってな。……ああ、それと」
リルが後ろを振り返った。
馬の足音が、四頭分響いてくる。
「打合わせ通り、あいつらも呼んだぞ」
やってきたのは、パーティにも来てくれた、ハイグラのメイン四王子、アーノルド、ラビリオン、ギネ、モーセロール。
「やあ、これが噂の畑か! 立派なものだな!」と金髪のアーノルド。
「我が国にもエルダースは少し生えていますが、こんなことは考えもしませんでしたね……」と黒髪のラビリオン。
「よき農業指導者がいるようですね。さすがはヘルハウンズ」と緑色の髪のギネ。
「うおおお、やるもんだなあ、さすがだぜ! リルベオラスにユーフィニア殿!」と赤毛のモーセロール。
リルと相談して、ヘルハウンズと結びつきの強い彼らには、畑のことは隠さずに教えることにした。
もともと、小国連合の資金捻出のための事業なのだ。ヘルハウンズだけが利益を独占するようなことになれば、いくらその正当性を主張しても、連合の中に亀裂が生まれかねない。
それなら、以前から戦費提供に協力的な四ヶ国については、エルダースがについて私たちが得ているのと同等の知識を共有する。希望するなら、自分たちで畑を開いてもいい。それについて文句は言わない。
ただ、エルダース栽培によって生まれた利益は、当面、グリーシャとの戦争関連にのみ遣うこととする。
それを、四ヶ国には盟約してもらった。
私も、ぼんやりとはそういうふうに考えていたのだけど、具体的に話を進めてくれたのはリルだった。
四人の王子も馬をつないで、地面に立った。
その時に気づいたのだけど、四人とも、普段よりもだいぶ簡素な服装をしている。
そして、手には鍬。
それに気づいて、私は思わず言った。
「え……え!? だめですよ、王子様たちにそんなことはさせられないですよ!?」
アーノルドが、すっとリルを手で示した。「リルベオラスはやっているじゃないか?」
「リルはうちの王子ですから! みなさんに、この畑を手伝っていただくわけには!?」
ラビリオンが、すっと歩み出てくる。
「そう、おっしゃらずに。ただ金策を考えては右往左往していた僕たちにとっては、なかなかの衝撃だったのです、あなたのもたらした考えは」
ハイグラで、最初に私が目を引かれた大変いい顔が、私の目の前で実物として微笑む。
ラビリオン、やっぱり格好いいな……、じゃない。とうに私はリル一筋なのだから。
「さあ、参りましょう」とギネ。「自分で言うのもなんですが、我々は、肉体労働においては常人に勝る働きをいたす自信があります」
モーセロールも続いた
「この周りには、おれたちが連れてきた小隊が巡回もしているから、スパイ対策もできてるぜ! さあやろう、やろう!」
……なんだか、たいそうなことになってしまったような気はするけども。
でも、悪くない。そう思えた。これは、きっといい結果につながると。
よし、と鍬を携えた私に、ラビリオンが小声で告げてきた。
「ユーフィニア殿、失礼ながら、僕たちは心配していたのです。あの勇将リルベオラスの結婚相手が、あなたであることを。その、あまり評判が、よくなかったので。ですが」
はい、分かっていますとも。
……。
……ですが?
「ここに来る途中五人で落ち合ってから、到着するまで。リルベオラスはずっとあなたのことを褒めていましたよ。結婚してくれて、本当に良かったと」
「えっ!? ほ、本当ですか!?」
あっという間に、顔が真っ赤になったのを自覚する。
それを間近で見ていたラビリオンも、なぜか頬を赤らめていた。
「……なるほど。僕も以前からユーフィニア様とは会う機会がありましたが、そんなお顔は見たことがありませんでした。リルベオラスといる時は、そんなふうなのですね? 彼が今、あなたに心を奪われているのが、よく分かりますよ」
「そ、そんな……? リルが、私のことなんて」
「そうですか? ご自分では、分からないものかもしれませんね」ラビリオンが、前を行くリルの背中を見つめる。「リルベオラスは頼もしい将軍ですが、どこか、危ぶまれるところもありました。時に、捨て身になりすぎるような。帰るべき場所に、心の通い合う妻がいれば、そうしたところもなくなるものかもしれません。あなたたちは、良い結婚をされたのですね」
■
十一月も下旬に差しかかったころ。
私は、ラビリオンの言葉を何度も反芻していた。
――心の通い合う妻、かあ。
午前中にエルダースの畑仕事を一区切りつけて、昼下がり。
すっかり家具が減って、マティルダやムシュが気を遣ってか「掃除がしやすくなりました」と言ってくれる邸のリビングで、私は七色の小瓶をつまみ上げていた。
この惚れ薬を使えば、リルは誰かと恋に落ちて、その後適当なところで私が離婚を申し出て、一件落着。大雑把にいえばそういう計画なわけだけど、それは、新しい奥さんとリルは、心が通い合うと言えるんだろうか。
まあ、幸せになれるのなら、それでいいのだけど……。
午前中、農具を片づけている時に、農夫たちから声をかけられた時のことを思い出す。
彼らは口々にリルを褒めていた。
――ユーフィニア様がわしらと同じ仕事をするのにも驚いたが、リルベオラス様が見えた時には腰を抜かしそうになりましたぞ。
――そうそう。ちょいと不愛想だが民思いで、いつもおれたちのことを考えてくださる。ここは以前、おれの父親が芋や麦を植えていたんだが、そのことを覚えてくださっていて。
自然に、私の顔がほころんだ。
あれくらい国民から慕われているのなら、きっと離婚くらい大した醜聞にもならないはずだ。さすが、リルだなあ。
「ユーフィニア様、よろしいですか?」
「あ、マティルダ。どうしたの?」
「お客様です」
えっ、もしかしてまたエドンサルテ? と思ったら、違った。
「こんにちはっ! 先日のパーティではどうもでした!」
「クライネ!? あれっ、なにか約束してたっけ!?」
クライネが元気よく首を横に振る。スカイブルーのドレスに、ワンポイントで結んだ濃紺の帯がひらひらと揺れて、とてもかわいらしい。
「いいえっ、今日はお兄様がリルベオラス様とお仕事でして。私、ユーフィニア様にお会いしたくて、ついてきちゃいました!」
「ええ、嬉しい。入って入って。今お茶入れるね!」
「へ?」とクライネが動きを止めた。「入れさせるね、ではなくてですか? ユーフィニア様が手ずから?」
「うん。だって、お茶入れるのって楽しくない?」
「ああっ分かります! あたしも、浴場用の薪は自分で斧で叩き割ったほうが楽しいですから。同じですね!」
同じ……かな?
でも、彼女のはきはきとした声と笑顔は、私が頭に疑問符を浮かべる間にも、微笑ましい気分にしてくれる。本当に気持ちのいい子だと思う。
ともあれクライネには先にリビングに入ってもらって、お茶の用意をすると私もテーブルに向かった。
その時気づいたのだけど、広いテーブルの上は、調べ物のための本や資料がばさばさと出したままにしてあった。
「うわ、散らかっててごめんなさい」と言って、それらを手早く端に寄せる。
なにしろ本棚や机の類もだいぶ売り払ってしまったので、紙類の収納場所も激減してしまったのだ。これは少し考えないといけなかった。
ムシュに簡易なサイドボードみたなものを作ってもらえるかもしれないけど……王子の妃の別邸というより、仕事用の事務所みたいになってしまうかもしれないな。




