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翌日の土曜日。
「パーティって、準備よりも後始末のほうが大変なのね」
リビングのテーブルで、マティルダがくれた帳簿をつけながら、私はこの日何度目かのため息をついた。
食器類や机椅子、庭園の後片づけなどはさほど時間はかからなかったのだけど、買ったものや借りたものの返却、整理、なにより出費の記録に、こまごまとした手間がかかる。
「わたくしといたしましては、ユーフィニア様が帳簿を開いておられるお姿を見るだけで、卒倒を耐えるのに一苦労でございますね」
「帳簿をつけてる以前に、開いてるだけで……?」
「一応申しておきますが、家計の管理は予算の範囲内でわたくしが管理しておりますので、ご心配は無用ですよ」
「ありがとう。不安なわけじゃないよ、ただ、自分が暮らしてる家のお金の流れがわからないって、気持ち悪いじゃない?」
これは、最近まで一人暮らししていたからそう思うのかもしれないけど。
そして、マティルダがまた、面妖な言葉を聞いたというふうにかぶりを振っている。
私としては、お金の管理もだけど、もっと気になることがあった。
あの三人の妹姫とリルを、どうやって接近させよう? 理想を言えば昨日のパーティで距離を縮められたらよかったのだけど、やはり最後までそんな空気にはならなかった。
考えてみれば、彼女たちの兄や、現・リルの妃の私もいる前で、あからさまなことはそうそうできない。もう少しなにか考えておくべきだったな。
どうやらミルノルドはリルに好意を持っているみたいだけど、一方で、リビエラは引っ込み思案、クライネはまだ恋愛に興味がないような様子に見えた。
そうなると、ミルノルドとリルを引き合わせれば、一番スムーズに進展したりするのかな……。
そうなれば、もちろん言うことないんだけど……でも。なぜか、なかなか踏み切ってしまえない。
悶々としていると、そこへ、メサイアがやってきた。
「ユーフィニア様、お客様です」
「え、誰だろう」
「それが、……おそらく、森の魔女ではないかと」
「魔女って、エドンサルテ? どうしてだろ?」
ドアまで出ていくと、確かにそこにいたのは、エドンサルテその人だった。
褐色のローブをすっぽりとかぶっているけど、手にしている?マークに似た木の杖には、ハイグラのプレイヤーなら誰でも見覚えがある。その杖には、紫色の布包みが結びつけられていた。
とりあえず入ってもらって、リビングに通す。
「お構いなく、お妃殿」
「そういうわけにも。紅茶でいいですか?」
メサイアにお茶の支度をしてもらって、私は片づけたテーブルの上に軽く身を乗りだした。
「なにかあったんですか? 私に用事です?」
「ようやく見当がついた。おぬし、異世界人じゃろう」
一瞬、なにを言われたのか分からなかった。
けれど数秒後には、なんのことかを理解した。
……隠しておくべきなのか、正直に言うべきか。
少し悩んだけど、後々のことを考えると、本当のことを知っている人がいてくれたほうがいいかもしれない。
エドンサルテは、いかがわしいところはあるけど、ゲーム内では悪い人ではないし。
こういう予備知識って、結構大きな特権だな。
メサイアがお茶を出してくれて、下がっていった。
それを見届けてから、私は、声を潜めて答えた。
「そうです。……私は異世界から来ていて、この世界や人々について、少しだけ知っているんです。この世界では、異質な存在です。でも、その知識を自分の欲望のために使ったり、悪事に利用しようなんて思っていません。それは、信じてください」
ひょっひょっひょ、と魔女が笑う。
「今のところは悪さどころか、悪玉が善玉に変わってくれたくらいのことしか起きておらんじゃろう。わしも、なにもお前さんを追い込みに来たわけじゃない。以前、似たような連中に少々世話になってな。もし、異世界人がまた来るようなら、助けてやってくれと言われたんじゃよ。ほれ」
テーブルの上に、エドンサルテが、布包みの中身を広げた。
「これらはな、異世界人好みにあつらえた、薬草やら香料の類よ。香水、化粧水、傷薬なんて日用品から、毒薬、爆薬、惚れ薬まである」
そこには、紙包み、小瓶、見たことのない草の束などが、山盛りになっている。
「あ、化粧水嬉しい。なにげに、この世界って市販されてないんですよね。……毒とか爆薬とかは、遠慮しますね……」
「そうか? いつ役立つ時が来るか分からんぞ?」
「私がうまく扱える気がしませんって。……ん? 今、なんて?」
「いつ役立つ時が来るか分からん」
「そうではなくて、毒薬、爆薬の後」
「惚れ薬か? ほれ、これよ」エドンサルテが、七色が混じり合う不思議な色合いの液体が入った小瓶を手に取った。「言っておくが、世間によくある眉唾物のインチキ品ではないぞ。森の魔女特製の魔術薬を使った、憎み合う仲も瞬時に恋仲にいたしてしまう、ほとんど反則の代物じゃ」
自分で言っていれば世話はない。本当に惚れ薬なら、反則中の反則だ。
……けれど。
「本当に……本物なんですか? 効くんですか? ああでもどうなんだろう、薬で結ばれるっていうのは……」
「効果のほどは保証する。飲んだらすぐに効き出すよ。……しかしお前さん、誰に使うというんじゃ? 間男でもおるのか?」
「そんなのいませんっ、私を好きにさせるんじゃないですしっ」
言ってしまってから、はっと口をつぐむ。
「お前さん……森に来た時も、妙なことを言っとったな。夫と、自分以外の相性の女をどうとか、離婚したいとか」
「ちょっと……わけあり、でして」
エドンサルテが、ソファの背もたれに背中を預ける。
「ふうん。人知れぬ苦労がありそうじゃのう。いいわい、一通り置いていくから、好きなように使え」
エドンサルテはそう言うと、返そうとする間もなく、すたすたとドアまで歩いていってしまった。
「あっ、ちょっと!? エドンサルテ!」
魔女は振り向きもせずに、待たせておいた馬車に乗り込んでしまう。
私はその座席にすがりついた。
「なんじゃ。やるといったらやるぞ。いらんのなら捨てろ」
「あっ違います違います、あの、惚れ薬ってどうやって使うんですか?」
エドンサルテが半眼になった。
「悩んどった割にしっかりしておるのう。簡単よ、目の前で口から飲ませれば、飲んだ者は飲ませた者を好きになる。胃から吸収するよって、吐いてももう手遅れよ」
「それって、誰にでも効くんでしょうか?」
「相手の性別や年齢といった属性が、恋愛対象のそれならな。たとえば肉親同士だと効かないことが多いし、自分や相手があまり幼かったり老いていても無効のようじゃ」
「……あと、その効果って、どれくらい続くんですか? 一日かそこら? それとも、……ずっと、とか?」
「そんなもん個人差があるさ。それでも一日二日ということはなかろうが、ま、よほど問題のある人間に惚れさせるんでなければ、当分は効いたままでいられるじゃろうな」
それは大丈夫だ。こんなものを使うかどうかは別として、再婚候補の三人は、みんないい子だから。
「ほほお? 浮かない顔になったのう。そういえば、これは、ちょいと小耳には挟んだのじゃがな。お前さんが離婚なんぞしようとしておるのは、このせいかな?」
そうして聞かされたのは、私にとっては、まさに離婚を断行する理由そのものだった。
ではな、と言ってエドンサルテは去っていった。
リビングに戻ると、机の上には様々な薬品が出ているのに、さっきの小瓶だけがひどく目についた。
私は、エドンサルテが置いていった布を広げて、すべてその中に包み込んで。
自分の部屋の片隅、大型のワードローブの中にしまい入れた。
■
そうして日が暮れた、少し後。
「まさか忘れていたわけじゃないだろうな」
「わすっ……て、そ、そんなわけないじゃないですか????」
慌ててそう答えたけど、正直に言えば、忘れていた。
昨日が金曜日なら、今日は土曜日。
リルが通ってくる日だった。
道理で夕方、マティルダがやたらと早く入浴を勧めてきたわけだ、とようやく気づく。
あの後、紫の布包みから引っ張り出した化粧水を顔にぴたぴたと塗り、「凄い! 突っ張らない! 最高!」なんて脱衣所でわめいて喜んでいる場合じゃなかったのに。
その後、部屋着どころか寝間着にも着替えずに、バスローブ姿でくつろいでいる場合でもなかったのに。
だって、昨日までも今日も、慣れないことして忙しかったから、つい……。
「一応改めて言っておくが。おれは、たとえ夫婦でも、その気になれない時は無理をする必要はないと思ってる。この間もそうだっただろ? だから遠慮なく言えよ、そういう時は」
すでに私は、油断しきったバスローブ姿でベッドに押し倒されて、天蓋の下にあるリルの顔に見下ろされている。
化粧水以外はすっぴん中のすっぴんだ。顔が強烈に美しいユーフィニアで、本当によかったと、この時は思った。
「はっ、ハイ、あっ今のハイっていうのは違くて、その気になれないとかそういうことではないんですけど、いやそういう気ってことではないんですけど、そのなんていうかですね」
「なんていうか?」
私は掛け布団の端を握って、口元に当てた。
「は……早くないですか? そういうことをするには、まだ」
「子作りの契約をして、結婚して、もう何日も経ってるのにか……?」
リルが、驚愕の表情で言う。
それはそうだ、リルにしてみたら。というか、私以外の誰に聞いても、私が変だというだろう。
「いや、そうか、記憶喪失だものな、おれとも出会って間もない感覚なわけか。いや、でもそれにしては、城門の前であった時から、おれのことは知っている様子だったが」
「そ、それは……覚えていたんです、リルのことだけは」
そんな都合のいい記憶喪失があるのか、と自分で言っていて思うけれど。
「ふ。おれのことだけは、か。いいさ。そこは素直に、夫として喜んでおこう。おれにも、後ろめたいところはあったからな」
えッ。……夫として、後ろめたいところというと。
「あ……愛人的な?」
「違うわ。……君との関係を、金と子作りのための仕事のようにとらえていたことだ。……機械的に、無感情に、自分をそのための道具にしよう、くらいのことを考えていた。考えてみれば、君に対してひどく失礼なことだった」
「そ、そんな。そもそも、戦費を盾に子作りの契約っていうのが失礼なことですよ」
「そう言ってくれるようになって、救われてる。そう、子供作りも、機械的にこなそうと思った。できると思ったんだ、これでも健康な男だからな。でも、……本当にそうしたら、つらくなっていたかもしれない。子供だって、幼子でなくなればそんな両親を見れば不穏なものを感じ取るだろう。おれが、諦めずにちゃんと君を説得するべきだった」
リル、とつぶやく。
転生したことには驚いたけど、このタイミングで、よかったのかもしれない。
もし契約通りの関係が進んでいれば、そしてそれで子供ができていたら、リルも、生まれた赤ちゃんも、ずっと長く苦しむことになっていたのかも。
「ただ、な。さっき、無理をする必要はないと言っておいてなんだが。……おれに、無理が来るかもしれない」
「リルの、無理?」
「……ああ。最近――そう、記憶喪失になってからの君は、以前までと全然違って見えるものだから、たまに、危ない」
「危ない?」
言葉の意味はつかめないけれど、ずいぶん遠回りな言葉選びをしていることは分かった。
「特に、昨日だ。他国の姫たちと、君が話している時。あんなふうに無邪気に笑う姿は、初めて見たかもしれない。いや、初めて見たんだ。……今までで一番、……きれいだと思った」
ユーフィニアが笑顔になれば、それは、きれいだろうなと思う。
「私、……笑わないほうだったんですか?」
「いいや。むしろよく笑うほうだったんだが、その、今までの君は、弱い立場の人間をあざ笑ったり、窮地に陥った者を指さして哄笑したり、とにかくそういう笑い方だったものだからな」
……私は、自分が清廉潔白で善良な人間だとは思っていないけれど、これからは一層気をつけるようにしよう。
「ああ、だから、なにが言いたいかというとだな。……ユーフィニア、君は、今のほうが、前よりもずっとその……きれいだよ。魅力的だ、と思う。こんなの、おれの柄でもないんだけどな。……笑うなよ」
笑わないですよ、と言おうとしたら、リルの体がゆっくりと上から降ってきた。
数十センチあった空間がゼロになり、二人の上半身がぴったりと重なり合う。
リルの顔が、私の左耳のすぐ横に来ていた。
「あ、あっ!?」
思わず膝が立って、腰が跳ねる。
でも、上半身は完全に抑え込まれてしまっていた。黒いシャツ越しに、リルの丈夫な骨格と、引き締まっているのに柔らかい筋肉の感触とが、温もりと共に伝わってきた。
まずい。なにがまずいって、この質量と温度は、私から思考力とか判断能力とか、そうした力をすべて奪って、無力にしてしまう。
「……だめか?」
耳元でささやかれて、思わずリルの背中に腕を回して、抱きしめそうになった。
それを、歯を食いしばって我慢する。
もし、この先に進んでしまったら。
私は、この温もりを手放す勇気を持ち続けられる自信がない。
「じ、時間を……時間を、ください」
「分かった」
リルが体を起こした。それを、無意識に追いかけそうになって、なんとか自制する。
なのに、リルが再び体を降ろして、唇を重ねてきた。
不意打ちに、頭の中に無色の衝撃が走って、私は力なくベッドにうずもれてしまう。
唇を離したリルが「時間、な」と苦笑して、襟元を正してベッドから降りた。
そしてまた、手を振り合って、私の――いや、ユーフィニアの夫が部屋から出ていく。
しばらくなにもできずにいると、ドアがノックされた。マティルダのノックの仕方だったので、どうぞ、と応える。
「今日も、リルベオラス様を返しておしまいになられたのですか」
「うん……ちょっとね」
ベッドの上に座って、へへ、と笑う。
「さようでございますか。ご夫婦のことですからどうとは申しませんが、寛容なことですね」
「うん。リル、優しいからね」
「は? わたくしが寛容と申したのは、あなた様のことですが」
私? と私は自分を指さす。
「ええ。リルベオラス様との閨を断るということは、妾なり街娼なり、欲求解消のお相手をユーフィニア様のほかに求めることを、夫にお許しになるということでしょう?」
…………。
たっぷり一分ほど、マティルダに名前を呼ばれても返事ができないほど、固まった後。
私は着の身着のまま、部屋を出て、邸からも飛び出した。
「ユーフィニア様!? そのようなお恰好で、どこへ……ユーフィニア様ああああ!?」




