クイーンズ・ストリート
「キリスト者の完全」が出版された頃から、メアリーは癇癪を起こすと家を出ることがあった。大抵は息子や娘の家庭に押しかけ、気が済むと家に帰るということを繰り返していた。
結婚当初は長男のジョン・アンソニーは母親の新しい婚姻関係に反対していたし、メアリーと娘ジェーン・ジャンヌとの関係は良好とは言えなかった。しかし時が経つにつれ、彼らはジョン・ウェスレー に対し好意的になっていった。その理由としては、約束通りヴァゼイル家の財産には一切手をつけなかったことがその一つとして挙げられるが、何より感情の起伏の激しい母によくぞここまで忍耐してくれた、という敬意があると思われる。
そういう訳であるから、ジョンとメアリーの不和が表面化した時、真っ先に彼らがその関係修復に向けて尽力した。
「お母さん、早く家に戻ってウェスレー さんと仲直りしてよ」
ジェーン・ジャンヌは母親が家出して駆け込んで来るたびにそのように諭した。メアリーもそれがだんだんと煙たくなり、やがて子供達の家ではなく、メソジストや教会関係者の家に突然押しかけるようになった。そしてそのような時、決まって夫の悪口を吹聴するのである。
突然メアリーに押しかけられる教会関係者たちもほとほと迷惑していた。ジョンに苦情を申し立てる者もいたが、ジョンとしても初老に差し掛かった堪え性のない女の気まぐれにはどうにも手の施しようがなかった。
今さら小言を言ったところで始まらない。ジョンは1771年、結婚20周年を記念してスコットランドへ二人で出かけることにした。スコットランドはハネムーン代わりに結婚後最初に二人で出かけた記念の場所である。
エディンバラ城へ向かってクイーンズストリートを登りながら、メアリーはいつになく上機嫌で喋り続けた。ジョンは、妻がこんなに笑う人だったのかと、改めて再発見した気分だった。かつてこれほどまでに夫婦で一緒に何かをしたことがあっただろうか、とジョンはつくづく思うのであった。
エディンバラ城に到着し、城壁から眼下に広がる街並みを眺めている時、ふとメアリーがこのように尋ねた。
「私と結婚して良かったと思いますか?」
彼らの夫婦関係を客観的に見ていた者たちにとってそれは愚問かもしれない。しかし、ジョンは優しい眼差しでこう答えた。
「少なくとも後悔はしていない。そして、君と結婚した選択が、正しかったか、間違っていたかと言われれば前者だと思う」
「そうですか」
とだけ答えてメアリーはまた、他愛のない話題でお喋りを続けた。
†
旅行から帰ってしばらく経った頃、メアリーは突然身の回りの荷物をまとめ始めた。
「……一体何をしているんだ?」
ジョンが不審に思って尋ねると、メアリーは顔も向けずに答えた。
「今までお世話になりました。この家を出ようと思います」
「どうして急に出て行こうなんて言い出すんだ。何があったのか?」
「別に何があったわけでもありません。ただ、また一人になりたくなっただけです。そして、もう二度とここへは戻らないでしょう」
そう言われてジョンは彼女の荷造りの邪魔にならぬよう、部屋を出た。そしてまもなく彼女がチャーターしたと思われる四輪馬車がやって来た。そして全ての荷物を積み込みと、早々と去って行った。
ジョンはいつもの家出だろう、と思っていた。しかし次の日も、その次の日も、それから何ヶ月経っても彼女は戻って来なかった。そうして本当に彼女は自分の元から去って行ったのだと、ジョンは悟った。
†
悪名高かったジョンの妻メアリーが去ったことについて、周囲のある者は長い試練に終止符が打たれたのだと言い、またある者はいかに悪妻とは言え、急に逃げ出されてはさぞ寂しかろうと同情を向けた。当の本人は苦渋に満ちた20年間の結婚生活をどう考えていたのだろうか。
それからしばらく経った後に、ジョンはまたニューゲイト監獄に教誨師として訪れ、説教した。
「ダビデは使者をサウルの子イシボセテにつかわして言った『ペリシテ人の陽の皮百をもって娶った私の妻ミカルを返しなさい』(サムエル記下巻3章14節)」
説教の後、一人の男が近づいて来た。最初は分からなかったが、年齢を重ねて初老に差し掛かったトム・メリチャンプであった。
「……あなたに会えるとは思いませんでしたよ、とっくに刑期は終わったのではありませんか?」
「今は囚人ではありません。職業指導員として今ここに派遣されております。ここで手に職をつけたことが役に立った訳です」
「それは良かった。模範囚と聞いていましたから、可能となったわけですね」
「それはそうと、今日の朗読でダビデが私の妻ミカルと言っていました。すでに他人の妻となった女性に対してです。そこまでダビデにとって妻とは幸福をもたらす存在だったのでしょうか。私にも婚約者がいましたが、結局手放し、他人の妻となり、その現実を私は受け入れたのです。だから私が失ったものが何か分からないのです」
「私には今、妻と呼べる女性がいます。つい最近まで一緒にいました。でも、私は妻に幸福をもたらしてくれることを求めてはいませんでした。そして……彼女が幸せをもたらすことは終ぞありませんでした。私が彼女と結婚したのは、療養が必要だったからです。そういう意味で彼女は最も条件を満たしていた女性でした。だから私が彼女と過ごしたあの20年間の内に何の幸福を見出せなかったとしても、そのことについて私は何の不満もないのです。またこうして彼女が私から離れていることについても何かをしようとは思っていません」
ジョンの語りかけが終わると、トム・メリチャンプは一礼して去って行った。
それからジョンは戸籍上彼女を離縁することはしなかったが、結局10年後に彼女がこの世を去るまで別居状態が続いた。その間、気まぐれにジョンの前にひょっこり現れることはあったものの、彼らが再び夫婦生活に戻ることはなかった。
二人の間に子供はなく、1781年10月にはメアリーが、その10年後の1791年にジョンがこの世を去った。そのジョンはこのような言葉を残している。
「私はまだ若かった頃、全てを確信していた。何年か経って、何千回もの失敗を通して私は多くのことを確信出来なくなってしまった。そして今は……神が私に啓示することより他は、何にも確信がない」