出版
ジョンがメアリーと結婚して数年が経った。世間では理想の夫婦などと囃し立てたが、相変わらず家庭内は荒れていた。事あるごとに諍いが勃発し、互いに対する不満は日毎に蓄積されていった。
ジョンがこの頃気になっていたのは、メアリーが小説ばかりを読み更けっていることだった。彼女はこの頃、ヘンリー・フィールディングの「トム・ジョーンズ」という小説に夢中だった。
(こんなものを読んでいる時間に聖書を読めば、もっと人生は変わっていくだろうに……)
ジョンはメアリーの読書姿を見るたびにそう思う。もっともそれは妻以外の全ての英国人に言えることだった。その背景には、もともとカトリック教会の分派である英国国教会は個人で聖書を通読することをあまり推奨してこなかったことがある。しかし、だからと言って人を面白がらせることだけを目的とした書物に国民全員が夢中になり、聖書に目もくれないのは由々しき事態だ、とジョンは思う。
「メアリー、その本はそんなに面白いのかい?」
「ええ、面白いわよ。聖書みたいに難しくないしね」
「聖書が……難しい?」
考えてみれば、幼少の頃から色々な教養を叩き込まれてきたジョンにとって、聖書は決して難しい書物などではなかった。しかし、英国人は必ずしも教養のある人ばかりではない。そしてそのような人にこそ福音は届けられるべきだ……そう思ったジョンは、誰でも聖書が易しく読める手助けとなるような書物を書こうと思った。そして執筆したのが「新約聖書註解」であった。
1755年の年明けにそれは完成し、出版となった。ジョンが考えるほど、この本は易しくはなかったが、メソジスト関係者をはじめとして、多くの人に読まれた。そしてメソジスト教理の根幹とされるようになった。
当然のことながら、このことはジョンに多くの収入を得させることになった。それはそれでめでたい筈なのだが、ジョンにしてみればメアリーの贅沢に援護射撃をするようなもので、必ずしも喜ばしいことではなかった。
さらにメソジスト内で独立派と国教会存続派との対立がヒートアップし、互いに激しく反目し合うようになった。このことは国教会存続派を支持していた弟チャールズとの溝を深めることにもなった。ジョン自身は独立にも存続にもさほど拘泥していなかったが、成り行き上独立派の肩を持つ立ち位置となっていた。
五月にリーズで行われたメソジスト年会では、国教会から離脱するか否かが議題に上がり、激しい論争が行われた。
「私たちは聖餐、按手など大切な儀式において、いちいち国教会に伺いを立てねばならないという不自由を強いられている。そもそも彼らはメソジストを異端視し、中には邪教呼ばわりする者さえいる。どうしてそんな国教会に義理立てして居座り続ける必要があろうか」
「国教会の一員であることによって、たといその中に我らを異端視する者がいたとしても、社会的には正統派の一員として認められるわけだ。もし一般社会までもが我らを異端視するなら、それは真の福音前進にとって妨げの石となる。少々不便に思うことがあっても、ここはやはり国教会の一員であり続けるのが懸命であろうと思う」
するとカルヴァン主義に傾倒している者から発言があった。
「国教会はカルヴァン主義に反対しているが、メソジストはハンティンドン伯爵夫人より経済的支援を受けて運営が成り立っているのを忘れたのかね? 彼女は神学的にはカルヴァン主義寄りなのだよ。もし下手に国教会の干渉を受けてカルヴァン主義神学を撤廃してみたまえ。ハンティンドン伯爵夫人からの支援は保証できないのではないか?」
すると今度は反カルヴァン派の独立派から発言があった。
「我々は独立したらアルミニウス主義を継承するつもりだ。カルヴァン主義だの、二重予定説など到底受け入れられない」
すると、議論がそれぞれの立場から四方八方てんでバラバラの主張が飛び交い、議場は大いに荒れた。ジョンはメソジストの群れの中にここまで不一致や分裂があるのかと愕然となった。
(みんな……バラバラだ。ここで無理矢理一つの意見を採決すれば、大分裂を起こしかねない)
そこで一旦休憩となり、ジョンは独立派のメンバーを集めて彼らを説得した。
「私もメソジストは国教会から離脱すべきだと考えている。しかし、先程見たように、メソジストの群れは色々な思想が入り込んで、めいめいが自分の目に正しいと思うことだけを主張している。このような状況で独立するのは時期尚早だと思うのだ。ここは我々独立派が折れてメソジストの分裂を回避したい。どうか理解して欲しい」
独立派の全てのメンバーがジョンの言うことに納得した訳ではなかった。しかし、ジョンの言うように自分たちが折れなければ、大分裂を招くだろうことは誰もが感じた。結果的にこの年会でメソジストは国教会に存続することが決定された。