ロンドン橋の転倒事故
ジョンが「祈ってみる」と言ってからしばらく経っても何も言ってこないので、メアリー・カークハムは苛立ちを覚え、兄エベニーザーとヴィンセントに、今一度駄目押しするようきつく言いつけた。
「ウェスレー先生、何も言って来ないけど、忘れてるんじゃないかしら。ねえ、ちょっと確認してみてよ!」
「そんな、お祈りしている最中なんだから、急かすようなことをしてはいけないよ」
エベニーザーがそういうと、メアリーは目を三角にして怒鳴りつけた。
「兄さんがそう言って面倒臭がるから事が進展しないんでしょう! ちゃんとお祈りしているかどうか聞くだけでも聞いたらいいじゃないの!」
……ここはエベニーザーの仕事部屋である。こんなところで私用で大声を出されたらたまったものじゃない。
「わかった、わかった、今日にでも先生と話してくるから、君はもう帰ってくれ」
そう言ってエベニーザーは五月蝿い妹を追い返した。しかし約束は果たさなければならない。エベニーザーは仕事が終わると、真っ直ぐジョンのところへ行き、面会を求めた。
「先生、メアリー・ヴァゼイルさんとのことをお祈りしてみるとおっしゃいましたが……どうでしょうか、お気持ちに変わりはありましたか?」
ジョンば途端に気まずい顔になり、言葉を詰まらせた。祈っていなかったのだろう。無理もない。恋に落ちているわけでもない相手のための祈りの時間を割くには、結婚願望の失せた牧師としてあまりにも多くの祈りの課題を抱えていた。それなのに祈っていたよなどと嘘をつかせるのはしのびなかったので、エベニーザーは違う切り口で話した。
「この前、チャールズ先生御一行がラドロー辺りを旅行された時、クルーの中にメアリーさんもいたそうですよ。その時のことを尋ねがてら、一度手紙でも差し上げたらどうでしょうか」
「そ、そうだな。一度手紙を書いてみようか」
ジョンはその後、メアリーに宛てて手紙をしたためた。するとしばらく経ってから返事が来て、チャールズがとても良くしてくれた、と書いていた。
(するとチャールズは……彼女のことをある程度知っているんだな)
そう思ったが、ジョンは彼女との縁談を持ちかけられていることを弟には伝えず、また彼女がどんな人かと尋ねることもしなかった。もししていたら、ジョンはメアリー・ヴァゼイルを生涯の伴侶とすることはなかったであろう。
その後、何度か手紙のやり取りがあったが、それでもやはり話が進まず、メアリー・カークハムは二人を会わせろ、と兄に提言した。そこでエベニーザーとヴィンセントは揃ってジョンの前に立ち、ロンドンでの奉仕の時にヴァゼイル邸を訪ねることを提案した。ジョンもそれに承諾し、メアリーに会いたい旨を手紙で伝え、彼女もそれに承諾した。
†
1751年2月10日
ジョンは礼拝奉仕に間に合うように、ロンドンの教会への道のりを急いでいた。その日、ロンドンは凍てつく寒さで、道という道は凍りついていた。そのため、普段よりも歩くのが遅くなり、礼拝に遅れてしまわないよう、ジョンは気が急っていた。
「そこの人、そんなに慌てて歩いていたら転びますよ!」
通りがかりの人がジョンに忠告したが、耳に入らなかった。そしてロンドン橋の上を歩いている時……
つるっとジョンが足を滑らせ、激しく転倒した。そして立ち上がろうとしたが、足が踏ん張れない。足首を捻挫してしまったのだ。
(いかん、これでは礼拝に行くことが出来ない)
と、その時一台の二輪馬車が通りかかって、その御者が倒れているジョンに気がついて止まった。
「どうされましたか、大丈夫ですか?」
「……足首を損傷してようで動けないんです。すみませんが、教会まで乗せて行って下さいませんか? 私は牧師で、そこで説教しなければならないのです」
「それは大変ですね。さあ、お乗り下さい」
御者はそう言ってジョンを担ぎ上げ、自分の馬車に乗せて教会へと連れて行った。
礼拝奉仕が終わってもジョンの足の痛みは引くことなく、とても身動き出来る状態ではなかった。そこで、椅子に座ったまま荷車に乗せられてメアリー・ヴァゼイルの家へと運ばれて行った。
そのような状態でやって来たジョンを見たメアリーは驚いて目を丸くしたが、事情を聞くと、すぐに家政婦に命じて病床を整えさせ、ジョンをそこに休ませた。そして至れり尽くせりの介護を行なった……もっとも、ほとんどのことは家政婦に指図してさせていたのだが、ジョンの前にはメアリーが顔を出し、あたかも彼女自身が手厚く介護しているようにアピールした。その甲斐あってか、ジョンの中での彼女への評価は急速に高まった。
(彼女はとてもよく尽くしてくれる。ああ、ニューカッスルで療養していた頃を思い出す……)
ジョンはニューカッスルで介護してくれたグレイスを思い出した。そしてその幻影を目の前にいるメアリーの姿に重ね合わせた。もう結婚はするまいと思っていたジョンであるが、この時、メアリーとなら一緒になれるのではないかと思った。
それからジョンはしばらくの間、ヴァゼイル邸で療養の時を過ごした。その間、当時取り掛かっていたヘブライ語の教本、また子供向けの教本の執筆に集中した。また、祈りと読書、そしてメアリーと会話をしながら毎日を過ごしていた。その間にどういう風の吹き回しか、ジョンはメアリーにプロポーズし、それは承諾された。
それから二人は結婚式を挙げた。当時ジョンは47歳、メアリーは40歳であった。ロンドン橋の事故からわずか8日のスピード結婚。ジョンがこれまで女性に対して奥手であったことを考えると、どうにも理解しがたい行動である。