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アルダスゲイトの影  作者: 東空塔
第二章 グレイス
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de praesenti

 1749年4月、弟チャールズの結婚式の司式をした翌週、ジョンはアイルランドへ向けて伝道旅行に出かけた。約束通りグレイスもそれに同伴した。

 ベネットが会合の約束をすっぽかして以来、グレイスは彼とは全くコンタクトを取っていなかった。それで心置きなくジョンの側で奉仕活動を行っていったのである。

 彼女は特に女性たちのために働いた。病人を訪問して励まし助け、懺悔の祈りを導いたりした。彼女はジョンが何を欲しているか、絶えず考え、そのように行動していた。それがまたジョンの思いと見事に的中していたので、ジョンのグレイスへの評価は日に日に高まっていった。


 そして7月、ダブリン滞在中、ジョンは誰もいないチャペルにグレイスを誘った。

「どうかされたのですか? 先生」

「グレイスさん、この旅行で私はあなたが必要だということが痛いほどよくわかりました」

「嬉しいです、先生!」

「そこで……このチャペルであなたと生涯添い遂げる誓いをしたいと思うのですが、グレイスさんはどうですか?」

「私も同じ気持ちです!」

「では……私、ジョン・ウェスレーはグレイス・マレイさんを健やかなるときも病めるときも、富めるときも貧しいときも、妻として愛し、敬い、いつくしむことを誓います」

「私、グレイスはジョン・ウェスレーさんを健やかなるときも病めるときも、富めるときも貧しいときも、夫として愛し、敬い、いつくしむことを誓います」

 二人がこうして誓いの言葉を語った後、ジョンはグレイスの額に口づけをした。


 一部の学者たちは、このジョンとグレイスのささやかな儀式をもって結婚が成立していると言う。すなわち、当時の英国の法律を鑑みると現在に関する相互の口頭による契約(de praesenti)に当たると解釈出来るというのである。

 だが、ジョンは自分たちがまだ夫婦になったとは考えていなかったようである。数ヶ月に渡る伝道旅行の期間、二人はほとんどつきっきりであったにもかかわらず夫婦関係には入らなかった。


      †


 ジョンとグレイスはエメラルドの島と呼ばれるアイルランドから帰還すると、ブリストルの国教会礼拝に出席した。二人が契りを交わしたことを知った者たちは次々に祝福の言葉を述べた。だが、その中に彼らをギョッとさせる顔が混ざっていた。以前ニューカッスルでグレイスに執拗に迫り、ジョンからソサイエティ除籍を命じられたダニエル・バーレイであった。

「これはこれは、ウェスレー先生にグレイスさん。ああ、お二人はこういう仲でしたか、道理で私が処罰されたわけですね」

 バーレイは気味の悪い笑いを浮かべながら皮肉を言った。二人は言葉を返さず、軽く会釈しただけでバーレイの横を通り過ぎた。

 グレイスがジョンから離れて一人になったタイミングでまたバーレイが近寄って来た。

「まだ何か御用でしょうか、ミスター・バーレイ」

「そんなつれない態度を取らないで下さいよ、ちょっと耳寄りな話がありましてね」

「耳寄りな話?」

「ええ。ほら、あそこに座っている若い女性がいるでしょう。モリー・フランシスさんと言うんですがね」

 バーレイの指差した方角を見ると、すらっとした栗色の長い髪をした美しい女性がそこに座っていた。

「……とてもきれいな女性ですね。でも、それがどうしたというのですか?」

「実はあのフランシスさんはですね、ウェスレー先生と前からかなり親しい仲なのですよ。一応グレイスさんも婚約されたと聞いたので、お耳に入れておいた方が良いと思ったのですよ」

「バカバカしい。あなたのことだからどうせ口から出まかせでしょうに」

「出まかせかどうか……ほら、見てご覧なさい。ウェスレー先生が彼女に近寄って行きますよ」

 バーレイが言うように、ジョンはモリー・フランシスと言う女性に近寄って行った。モリー・フランシスはジョンと目を合わせると満面の笑みを浮かべた。ジョンもまた親しそうに話している。

(まあ、……あんな表情、私にだって見せたことがない……)

 グレイスははっきりと嫉妬の表情を浮かべた。その横顔をバーレイは面白そうに眺めていた。

 グレイスはバーレイの耳打ちを信用したわけではなかった。しかし、火のないところに煙は立たぬ。気にしないようにしようと心に決めつつも、一度起こった胸騒ぎはなかなか収まらない。

 それからまもなくして友人のキャシー・ブラックが「話したいことがある」と言ってグレイスに会いに来た。彼女はニューカッスルの施設での同僚であり、信用のおける友人であった。

「言おうかどうか迷ってたんだけど、ウェスレー先生、親しくしている女性がいるの」

 それはグレイスが今一番聞きたくない言葉であった。しかし真相を突き止めずにいられないのも彼女の性格であった。

「……もしかして、その人って、モリー・フランシスっていう人?」

「……知ってたの? グレイスが納得しているんなら私には何も言うことはないけど、もし引っかかっているのなら、これからのこと、よく考えた方がいいんじゃないかしら?」

 グレイスはショックだった。あの胡散臭いバーレイの言うことならまだ戯言と聞き流せた。しかし、今度は信頼できる友人の言うことである。噂は限りなく真実に近い……。そう思うとグレイスは急に腹の虫がおさまらなくなって来た。そしてその腹癒せに、ベネットに宛てて熱烈な愛の言葉を綴った手紙をしたため、前後の見境もなく衝動的に投函してしまった。しばらくして頭を冷やしたグレイスは、流石に軽率なことをしてしまったと後悔したが、後の祭りであった。

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