足りない言葉
ジョンの容態はすっかり良くなり、本格的に伝道活動を再開することになった。明日ニューカッスルを出発するという段になり、ジョンが身の回りの荷物をまとめていると、グレイスが側に寄って来た。
「何かお手伝いしましょうか?」
「ありがとう、でも大丈夫ですよ。体力もすっかり回復しましたからね」
「それは良かったです。でも、先生の健康が戻られたのは嬉しいんですけど、ここにおられなくなるのは少し寂しいですわ」
「私もあなたのような優秀な奉仕者と離れるのはとても残念です。それで、もしご迷惑でなければ……私の伝道旅行に一緒に来ていただけませんか?」
「私のような者でよろしいのですか? こちらこそ、ご迷惑でなければ是非お伴させて下さい!」
そう言ってグレイスは深々と頭を下げて退出しようとした。その後姿を見たジョンが感極まって言った。
「グレイスさん、この間の巡回訪問の帰り道に話していたことですが、その続きを話してもいいですか?」
「……何でしょう?」
「あの時は独身がいいと思うと言いましたけど、それは相手にもよると思います」
「……そうなのですね」
「ええ。それでもし、私が結婚をするとすれば……その相手はあなただろうと思います」
ジョンはその瞬間、ついに言ってしまった、と半ば後悔した。それを聞いてグレイスは顔を赤らめて言った。
「それは……私にはとても大きすぎる祝福です!」
グレイスはそう言って部屋から駆け出して行ってしまった。
ジョンはこの日の出来事について「彼女はニューカッスルで私のプロポーズを受け入れた(consented to my proposal at Newcastle)」と日記に書いているが、そう断言するには明らかに言葉足らずである。それは初々しく微笑ましいとも言えなくもないが、この意思伝達の曖昧さが、この後のトラブルにつながっていくのである。
†
ロンドンに戻ったジョンはグレイスに宛てて手紙を書いた。
「先日お話しした伝道旅行の件ですが、近々北イングランドのダービー州、ヨーク州を巡回する予定です。ただ、これにご同行をお願いするのはあまりにも急ですので、来春のアイルランド伝道旅行にご同行をお願いしたいと思います。どうかご検討の上、お返事下さい」
するとすぐに返事が返って来た。
「アイルランド伝道旅行お誘いの件、ありがとうございます。ですが、私としては北イングランド旅行にも是非お伴したいと思うのです。こちらの予定は問題ありません。お邪魔かもしれませんが、どうぞよろしくお願いします」
グレイスの積極的な返事にあんぐりしながらも、ジョンは喜んで彼女をアイルランド伝道旅行へ同伴させた。とは言え、二人きりのハネムーンとは程遠い、数人のスタッフを連れての旅行であった。それでもジョンにとってはグレイスが一緒にいるというだけで浮足立つには充分であった。
「グレイスさん、こうしているとニューカッスルで巡回伝道をしていた頃を思い出しますね。あなたがいれば、今回の旅行もきっと実り多きものとなるでしょう」
「そう言っていただけて光栄なことこの上ありません。……私にとってウェスレー先生と一緒にいられることは、天の下で望むことのできる一番の願いです」
「グレイスさん……来年の春のアイルランド旅行へも是非来て下さい。そうしたら、もう離れることはないでしょう」
「……先生!」
二人は熱く見つめ合った。しかしその時、スタッフの一人がやって来てジョンに声をかけた。見つめ合っていた二人は慌てて目を逸らした。
「すみません、ウェスレー先生に会いたいという人が来てるんですが……」
「私に会いたいと? 通してもらえるかな」
そうして現れたのは、ジョン・ベネットだった。ジョンもグレイスも懐かしい顔に驚きの表情を浮かべた。
「ウェスレー先生、ご無沙汰しています。それにグレイス姉妹まで! 驚きました」
「そうなんだ。君も報告してくれた通り、彼女は巡回伝道のフォロワーとしてとても優秀でね、今回の伝道旅行にも同行していただいたのだよ」
「そうでしたか! グレイス姉妹がいてくれるならそりゃ百人力ですね!」
二人のジョンの会話にグレイスは照れた。
「……やめて下さい、お二人とも。恥ずかしいですわ」
それからベネットはしばらくウェスレー一行と同行した。ところがベネットの目的地であるチェシャーに到着した時、グレイスが体調を崩した。
「大丈夫ですか、グレイスさん。体調が戻るまで出発を遅らせるのでゆっくりして下さい」
ジョンが労わってそう言うと、グレイスは首を振った。
「いいえ、私の身体はすぐに回復すると思います。どうか予定通り旅行を続けて下さい!」
グレイスは何としてもジョンの足手まといになりたくなかった。その時、ベネットが一つの提案をした。
「グレイス姉妹は気丈な方ですが、体調を崩しやすいところもあります。どうか無理をせず休んで下さい。ウェスレー先生、ここからすぐの所に私の働く施設があります。グレイス姉妹には回復するまでそこで療養していただき、ウェスレー先生は伝道旅行を続けて下さい」
するとグレイスが悲しそうに言った。
「いえ、私もどうかダービー州まで連れて行って下さい!」
ジョンが優しい口調で彼女を諭した。
「グレイスさん、あなたには来年アイルランドまで来ていただかなくてはなりません。ここで無理をしたらそれは叶わぬ願いとなってしまいます。どうかここはベネット君の言葉に甘えて下さい」
グレイスはジョンにそう言われて渋々旅行の継続を断念した。
こうしてジョンはグレイスをベネットに委ね、ダービーシャーへと出発した。もしもこの時、ベネットの胸の内にグレイスへの恋心が燻っていることに気がついていれば、ジョンはこのような決断はしなかっただろう。だがあまりにも純真無垢なこの聖職者は、意中の女性をみすみす恋敵の手に握らせてしまったのである。