毒麦
ジョン・ベネットによる巡回伝道システム構築により、多くのメソジスト伝道師が英国各地を転々と巡回するようになった。それは地方に住むメソジスト信徒たちにとっては勿論喜ばしいことには違いなかったが、巡回する牧師たちの負担は大きかった。
何しろ、当時はまだ産業革命が産声を上げ始めたばかりの頃である。交通機関も医療体制も整っていない環境で毎日のように何十マイルも旅するのであるから、身体を壊す巡回伝道師が後をたたなかった。そこで各地にあるメソジストの福祉施設を巡回伝道師たちの保養施設として兼用し、傷ついた主の兵士たちの回復を図った。
それはグレイスの勤めるニューカッスル・アポン・タインの児童養護施設においても同様で、ここにも度々傷んだり病んだ聖職者が療養に訪れた。とりわけグレイスの介護は親切で丁寧な上に心がこもっていたのでたちまち評判となった。ジョン(ウェスレー )もグレイスを信頼し、疲れた伝道師たちを好んでニューカッスルに送り込んだ。
心を込めて丁寧に介護してくれる優しくて美しい女性……男性の目からは理想的な女性像として映り、特に若い独身の牧師たちは「結婚するならこのような人がいい」と憧れの気持ちさえ抱いた。とは言え、メソジストの牧師になるような男性はジョンのように奥手な者が多く、モーションをかける者はなかなかいなかった。
ところでニューカッスルにはダニエル・バーレイという牧師がいて、近隣の村々を訪ねて祈りと聖書朗読の奉仕をしていた。しかし人付き合いの苦手なバーレイは村民との折り合いがうまくいかず四苦八苦していた。そのことを同僚に相談すると、
「児童養護施設で働いているグレイス・マレイに同行してもらったらどうだい? 彼女は聡明で物腰も柔らかく人の気持ちを良く理解出来る女性だからきっと役に立つと思うよ」
そこでバーレイはグレイスに声をかけてみた。
「私は人付き合いが苦手でして、近隣村訪問がなかなか上手くいかないのです。そこでマレイさんの評判を聞いて是非ご同行頂ければと思うのですが……」
「光栄ですわ。お役に立てるか分かりませんが、喜んでお供いたします」
そして実際に彼女と訪問に行ってみると、驚くほど上手くいった。村民たちの評判も上々だった。
「マレイさん、今日は本当に助かりました。同行して下さり、ありがとうございます」
「こちらこそお誘い頂いて嬉しかったです。また必要でしたら、いつでもお声かけ下さい」
その言葉にバーレイは嬉々とした。それからしばしばグレイスを同行させていたが、いつしかバーレイは彼女を見初めるようになり、奉仕以外のプライベートな付き合いまで誘うようになった。しかし……
「バーレイ先生、ご奉仕とあれば喜んでお供いたします。でも私的な交際へのお誘いはどうかご遠慮下さい」
そうして断っても断ってもバーレイはなかなか引き下がらず、しまいには仮病を使って施設に泊まり込み、グレイスの介護を求める始末であった。さすがにグレイスも困り果てて、所長に陳情を申し立てた。所長は素早く対応し、バーレイに諫言した。
「人を好きになるのは素晴らしいことですよ。でも相手にも意志というものがあります。それが尊重できないようでは本当の愛とは言えないのではありませんか。悪いことは言いませんから、どうか彼女をそっとしておいて下さいませんか」
「わかりました。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
と、バーレイは殊勝な素振りを見せたものの、内心はふられたことと告げ口されたことへの恨めしい気持ちで一杯だった。そしてそれまで抱いていたグレイスへの好意は一気に憎悪へと転化した。それからバーレイの姑息な報復が始まった。
まず、施設関係者にグレイスの悪口を言いふらした。常日頃彼女の慈善心あふれる行いを目の当たりにしている同僚たちは、容易にはバーレイの言うことを信用しなかった。だが、女性職員の中にはグレイスの美しさに男性たちが魅せられていることが面白くないと思う者もいた。そんな小さな嫉妬心にバーレイは付け込み、徐々にグレイスの悪評を浸透させて行ったのである。そして日に日にグレイスの立場は悪くなり、奉仕活動にも支障が出るようになった。
その時、偶然ニューカッスルを巡回していたジョン・ベネットがその様子を目撃し、ロンドンに帰った時にジョンに報告した。
「あなたが送り込んだグレイス・マレイという未亡人ですけど、どうも職場で虐められているようなのです」
「ミセス・マレイが? どうしてあのように気立ての良い女性が虐められなくてはならないのだ?」
「どうやら、ダニエル・バーレイ牧師が彼女を見初めたようなのですが、あっさりふられたようで……その仕返しに色々と画策したようなのです」
それを聞いてジョンは怒りのあまり手にしていた書類を破りそうになった。ジョン・ベネットは慌ててそれを止めた。
「ダニエル・バーレイか、けしからん。メソジストにも毒麦が混ざっていたとは……とにかくすぐに対応しよう」
ジョンはすぐに馬に飛び乗り、ニューカッスルへと駆けつけた。児童養護施設へたどり着いたジョンは早速職員全員と面談し、事態の解決を図った。そしてその場でダニエル・バーレイのメソジスト・ソサイエティ除籍を決定した。そして悪意を持ってグレイスの悪評を言いふらした職員を解雇するよう所長に要請したが、
「それではミセス・マレイの立場がますます悪くなります。厳重に注意するだけにとどめておく方が賢明でしょう」
と意見を述べてきたので、ジョンはその件は所長に任せることにした。
グレイスの悪評についての誤解は解けたものの、他の職員とのわだかまりはなかなか消えず、グレイスは児童養護施設での働きを辞めることにした。そしてジョンの勧めでしばらくロンドンのファウンダリーに身を置くことになった。