回心、好意、そして迫害
1739年9月9日、ムーアフィールド地区の集会でジョンはいつにもまして説教に熱気がこもっていた。そして会衆の一人一人に挑みかけるように語った。
「ここに、心から救われたいという願いを持っている人はいますか? その人は今すぐ席を立って前に出て来て下さい!」
すると何人かの人が立ち上がり、前に進み出て来た。その中にグレイス・マレイがいるのを見てジョンは色めき立った。スタッフの一人が彼女に駆け寄り、彼女の語る言葉に耳を傾けた。そして祈りの姿勢を示したのを見て、ジョンはグレイスの魂が安らぎを得た、或いはそれを受け取る決意をしたのだと知った。
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グレイスはその日、ジョンのメッセージを聞いて「はい、私は心から救われたいと願っています!」と何度も心の中で叫んだという。そして、それから毎日少しずつ魂に安らぎを感じるようになった。
彼女は子供を失った心の傷から立ち直ると、正式にメソジスト・ソサイエティのメンバーとなり、積極的に奉仕活動に参加した。そして彼女の奉仕者としての資質が認められて、ファウンダリーにおける既婚者グループのリーダーとなった。そして奉仕活動に勤しむにつれ、グレイスは持ち前の明るさを取り戻していった。そんな彼女の様子を見てチャールズが言った。
「ミセス・マレイは我々のソサイエティに与えられた、文字通りの恵みかもしれない。彼女には周りの人を明るくする賜物がある」
「そ、そうだな……」
単にグレイスが褒められただけなのだが、彼女への密やかな好意がチャールズに見透かされているようで、ジョンはいささか居心地の悪さを感じた。ソフィーはまだ未婚者だったから良いが、グレイスは夫のいる身である。聖職者が人妻に恋するなど言語道断だ。
そんなある日、グレイスが大きな荷物を抱えてファウンダリーにやって来た。そしてこう言った。
「すみませんが、しはらくここで寝泊まりさせていただけませんか?」
「……それは構いませんが、何かあったのですか?」
聞くと、夫のアレクサンダーはグレイスがメソジストに関わっていることを良く思っていなかったのだという。
「『あんな世間から蔑まれているような新興宗教、みっともないからすぐにやめなさい』なんて言うんです。私は腹が立ちましたが、今彼の神経を逆撫ですればもっと状況が悪くなります。幸い夫は船出で家を留守にすることが多く、その間にメソジスト集会に参加していたのです」
「そうだったのですか……」
ジョンはしばらくの間、講壇の上から熱狂する会衆ばかりを見てきた。だからいつのまにかメソジストが多くの人々に受け入れられるようになったと思っていたが、当然反対する者や馬鹿にする者が大勢いる筈である。その現実に目を背けていたところがある。
「ところが、誰かが私がメソジスト集会に参加していることを夫に告げ口したのです。彼はカンカンに怒って『僕を騙していたのか! そんなにメソジストがいいのなら、今すぐこの家を出たまえ!』と言うので、私は荷物をまとめて出て来たのです」
「それはさぞ辛かったでしょう、ご主人もいつまでもお怒りではないと思います。ほとぼりが冷めるまでしばらくここにいて下さい」
こうしてグレイスはファウンダリーに住み込みで働くことになった。俄然ジョンも彼女に接する機会が多くなり、それと並行していかに彼女が素晴らしい女性であるか日増しに実感していくのであった。
(……出来れば、ずっとここにいてくれないだろうか)
ところがそんなジョンのささやかな願いも虚しく、数日すると彼女の夫であるアレクサンダー・マレイが妻を連れ戻しにやって来た。さぞ激しい剣幕で怒鳴り込んでくるかとジョンは身構えたが、実際に会ってみると、随分腰の低い、へつらうような態度で接して来た。
「すみません、家内がこちらでご厄介になっているようで迎えに参りました」
船乗りと聞いていたので、日に焼けた屈強な男を想像していたのだが、目の前の男は意外に色白で神経質そうな笑みを浮かべていた。
「わざわざご足労いただいて恐縮です。奥さんが私共のソサイエティに参加することに反対なさっているとのことですが、決して怪しい活動ではございませんので、どうかご理解下さい」
ジョンが弁明するように言うと、アレクサンダーはとんでもない、というように答えた。
「いえいえ、あなたがたの趣旨にとやかく言うつもりはなかったのです。ただ家内はもともと身体も弱く、夢中になると体調も顧みずにのめり込んでしまう性格なのです。それでほどほどにするようにと忠告しただけだったのですが、このような騒ぎになってしまい、本当に申し訳ありません」
そう言ってアレクサンダーはグレイスを家に連れて帰って行った。これで丸く収まったかと思いきや、アレクサンダーは次の手に出た。
「メソジストの指導者、ジョン・ウェスレー は私の妻を手篭めにして自分のもとに寝泊まりさせた」と吹聴して回ったのである。醜聞好きなロンドン子の間でその噂はたちまち広まった。さらに悪いことには教区の司教の耳にまでその噂が届いてしまった。そこで主教自らがジョン・ウェスレー に対し尋問する運びとなった。だがその結果、ジョンの潔白が証明されることにもなった。騒ぎが一段落した後、グレイスはジョンの元へ行き頭を下げた。
「私の家のゴタゴタに巻き込んでしまい、先生にもソサイエティの方々にも申し訳ありませんでした。責任を取って脱会させていただきます」
「ミセス・マレイ、これは私の至らなさが起こしたことです。どうかご自分をお責めにならぬように。それにあなたは私たちに必要な人なのです。どうか辞めないでいただきたい」
ジョンの必死の説得により、グレイスは脱会を思いとどまった。それ以降もアレクサンダーによるささやかな迫害は続いたが、それは思わぬ形で終止符が打たれることになった。
時は1742年。アレクサンダー・マレイを乗せた船は北海近辺を航行していたが、ほとんど逆風と言ってよい向かい風で、操帆に苦労していた。アレクサンダーは非常にピリピリして、怒鳴り声を上げていた。
「おい、帆を張りすぎだ、もう少し弛ませろ! 何回言わせたら気が済むんだ!」
アレクサンダーは上の人間には卑下するが、下の者には理不尽なほど罵声を浴びせる人物だった。帆を操っていたジム・ウェリントンはさっきから怒鳴られっぱなしでいい加減嫌気がさした。
「ちゃんとやってるんですがね、帆がちゃんと動かないんですよ。こっち来て見てもらえませんかね!」
「何だと?」
アレクサンダーはジムのところに行ってロープを掴み、帆の具合を確認した。そしてほんの一瞬爪先立ちになった時……突然強い風が吹いて来た。
「うわぁーっ!」
アレクサンダーはバランスを失い、風に飛ばされるように海に落ちた。
「た、助けてくれー!」
ジムは急いで救命具をロープに結び、アレクサンダーの方へ投げた。しかし届かない。
「馬鹿野郎、もっと気合い入れて投げろ!」
怒鳴るアレクサンダーに向かってジムは冷ややかに呟いた。
「それが人に物を頼む態度ですか。僕はやることはやりましたからね、後はあなたが何とかして下さい」
ジムは口角を上げながら、波に揉まれて上下するアレクサンダーを眺めていた。やがてアレクサンダーは力尽きて深い海の中へと沈んで行った。