第1節 ミリーシャ(7)
ミリーシャが家に帰ると、二歳年下の妹・ミリアが真っ先に出迎えてくれた。
「お帰りなさい、姉さん」
夕飯の準備を手伝っていたのだろう。居間のテーブルに座っていたミリアは玉ねぎの皮を剥く手を止めると、嬉しそうにミリーシャの下へと駆け寄って来た。
「ただいま、ミリア。ごめんね、帰りが遅くなっちゃって」
ミリーシャはそう言いながら、明るい栗色をした妹の頭を撫でる。ミリアも心の底から甘えるように、ミリーシャの手を受け入れている。何の躊躇いもなく自分を慕ってくれる妹の姿を前にミリーシャの顔も自然と綻ぶ。だが先のラウルとの一件があったせいか、その内心は少々複雑だった。
個人差はあれど、ミリーシャの家族はミリーシャ以外の皆が茶色の髪を持っている。父のマルクは馬の尻尾のような焦茶色。母のイザベルは金に近い亜麻色。目の前のミリアは明るい栗色。そして五歳年下の弟ラークはマルクと同じ焦茶色で、九歳年下の弟イスカはイザベルと同じ亜麻色の髪を持っている。やはり黒色の髪なのはミリーシャだけだ。自分だけが、家族の中でこんなにも違う。
「姉さんは今日、何をして過ごしていたんですか?」
ミリアの無邪気な質問に、ミリーシャは態度を変えず普段通りに答えた。
「私? 私はいつも通り森に入って探検してたのよ。ミリアは?」
「私は友達とカルラ婆さんの家に行って、繕い物のやり方を教えてもらっていました」
「そうだったんだ。ミリアは勉強熱心で偉いね」
ミリーシャがそうやって褒めると、ミリアは嬉しそうにはにかんだ。
ミリアはミリーシャと違って問題行動を一つも起こしたことのない、常識を弁えた至極真っ当な娘である。まだ子供らしいあどけなさはあるものの、その気配りの良さと落ち着きようは、精神年齢では既に自分よりも上なのではないかと思わされる程である。
そして何よりミリアはイザベルに似て綺麗な顔立ちをしている。まさに母のイザベルをそのまま幼くしたようである。
「姉さん?」
突然自身の頭を撫でる手が止まったことに違和感を覚えたのだろう。ミリアは目を開け、不思議そうにミリーシャの方を見上げてきた。ミリアのその呼びかけに、ミリーシャは自分がいつの間にか物思いに沈んでしまっていたことに気付いた。
「ごめん、何でもない。そういえば母さんは台所?」
「はい、スープの下拵えをしています」
ミリーシャは離れ際に「ありがとう」と言ってミリアの頭をもう一度撫でてから台所へと向かった。
台所ではミリアの言う通り、イザベルが夕飯の準備で忙しなく立ち働いていた。ミリーシャは後ろからイザベルに声をかける。
「ただいま、母さん」
その声に反応して、イザベルがミリーシャの方を振り返る。イザベルはミリーシャの姿を見るなり、すぐに包丁を置いて手を拭いながら近付いてきた。
「お帰りなさい、ミリーシャ。どうしたの、随分と浮かない顔をしているけれど、何かあった?」
イザベルはいつもの淑やかながらも凛とした声音でそう問いかけてくる。ミリーシャ自身、落ち込んだ気持ちを表に出しているつもりは更々なかった。だがさすがは母親というべきか、彼女にとっては些細な変化もお見通しの様子だった。
「やっぱり分かるの、そういうの?」
「そりゃ分かりますとも。何といってもあなたは私の娘なんですから」
イザベルは冗談めかしてそんなことを言う。やっぱりこの人には敵わないな、とミリーシャは心の中で思った。
だからだろう。ミリーシャは自分の抱える不安を躊躇いなく吐露することが出来た。
「ねえ母さん。私って、本当に父さんと母さんの子供なの?」
ミリーシャのその突然の発言に、イザベルは驚いたような顔を浮かべる。けれどすぐにそれを労わるような笑みに変えて、ミリーシャを安心させるように優しい声音で問い返してくる。
「どうしてそう思ったの?」
「だって私だけ髪の色が違うじゃない。父さんも、母さんも、ミリアもラークもイスカもみんな茶色の髪なのに、私だけが気持ち悪いくらいに真っ黒。父さんも母さんも私を大切に育ててくれたから今まではそういうこともあるかってずっと疑問に蓋をしてたけど、でもやっぱりこれってどう考えてもおかしいよね? 顔だってミリアは母さんとあんなにそっくりなのに私は全然違うし。
ねえ母さん。そうならそうで怒らずにちゃんと受け入れるから、だから本当のことを教えて。私は本当に、父さんと母さんの間に生まれた子供なの?」
矢継ぎ早にぶつけられた質問に、イザベルは笑顔を浮かべたまま、ほんの少しだけ困ったように眉尻を下げた。
「ミリーシャは、私の娘でいることが嫌?」
その問い返しは完全に予想外だった。ミリーシャは困惑しながらも素直に自分の想いを述べた。
「そんなことない。そんなことあるわけない! 私は、父さんと母さんの娘に生まれて心の底から良かったって思ってる。けど、ふとした時に不安になるの。母さんやミリア、村の人達との違いを目にする度に、私の顔が父さんとも母さんとも全然似てないなって自覚する度に、同年代の子供達から黒髪であることを馬鹿にされて、怖がられる度に。私は一体何者で、私は本当に父さんと母さんの子供としてこのまま生活してていいのかって、そういった不安が頭から離れないの。
ねえ母さん、逆に聞くけど、母さんは本当に私が娘で良いの? 母さんは私が娘でいるせいで、嫌な思いをしたりしてない? もし母さんが嫌だったら、私このまま……」
しかし全てを言い切る前に、ミリーシャの言葉はイザベルからの抱擁によって無理矢理押し止められた。イザベルの抱擁はミリーシャを決して逃すまいとするかのように力強く、そして何より暖かかった。
ミリーシャは遅ればせながら、イザベルの体が僅かに震えていることに気付いた。
「母さん……?」
「冗談でもそんなこと絶対に言わないで、ミリーシャ! 誰が何と言おうとあなたは私とマルクの娘。私が腹を痛めて産んだ大事な最初の子供なの! 髪の色の違いが何だというの! 顔立ちの違いが何だというの! その程度のもの、親と子供の繋がりを疑うには余りに些細なことよ! だからね、ミリーシャ。もう二度と、私達の娘でいて良いのかとか、他の人達との違いで一々悩むことは止めなさい。あなたは紛うことなき、命よりも大切な私とマルクの娘なんだから」
その言葉を受けて、ミリーシャもまたゆっくりと両手をその背に回し、イザベルを抱きしめ返した。体だけでなく、心の中も何か暖かいもので満たされていく。この感覚を安らぎと言うのだと、ミリーシャは遅ればせながら自覚した。
これまで抱え続けていた不安が完全に解かれたためか、自然とミリーシャの瞳からは涙が溢れ出てくる。それはこれまでの我慢の上に零れ落ちる上澄みなどではなく、それこそ堰を切ったようにという言葉が相応しい、ミリーシャが人生で初めて流す本当の涙だった。
それは雨のようにとめどなく。喉と顔は嗚咽に引き攣り、珍しくも彼女の鳴き声が部屋の中に木霊する。
こんな恥ずかしい姿、普段であれば他の誰にも見せられない。自身のプライドに賭けて、こんな弱い姿は見せたくない。けれど今この場にいるのは、自分と、自分を愛してくれる母親のみ。ならば今この時だけは、気の迷いとも言える瞬きの一瞬だけならば、本当の弱さを曝け出してしまっても構うまい。
ミリーシャは今日この日、本当の意味でこの人達の娘になれたのだと、心の底からそう思った。