第1節 ミリーシャ(3)
リベリオス村の掟の一つに、「西の森に立ち入ってはならない」というものがある。それは一聞しただけではなぜそんなものが定められているのかと疑問に思う、具体性に欠けた簡素な掟である。だがたとえ簡素であったとしても掟として定められている以上、そこにはちゃんとした合理的な理由がある。少なくとも村の大人達は、その意図を十全に理解している。
リベリオス村には、開村当初から存在するとある御伽話がある。
曰く、リベリオス村の西方の森には、恐ろしい力を持った『魔女』が住んでいるのだという。西の森一帯には魔女によって帰り道を見失う魔法がかけられており、一度立ち入ったら最後、二度と森の外へは抜け出せなくなってしまう。そして日の光が届かぬ森の中を彷徨い続けた挙句、魔女に喰われて骨の髄までしゃぶり尽くされてしまうのだ。
村の大人達は自分の子供に寝物語としてその話を何度も聞かせる。そのためリベリオス村の子供達の心には、魔女の存在が恐怖と共に刻み込まれている。それ故に、「西の森に立ち入ってはならない」という簡素な条文を破ろうとする子供はこれまで誰もいなかった。
——ミリーシャ一人を除いて。
マルクと言葉を交わした翌日の休息日。イザベルから頼まれた家の仕事を早々に終わらせたミリーシャは、自分で作った弁当片手に西の森を歩いていた。
天気は昨日に引き続き晴れ。繁った樹々の合間から木漏れ日が差す中、ミリーシャは途中で拾った木の枝を右手に携え、今日もご機嫌に鼻歌を歌いながら意気揚々と進んでいく。
森の樹々は深く、道行く道は人の手が入っていない獣道。にも関わらずミリーシャの足取りには迷いがない。その様子からは、本来立ち入りが禁止されている筈の西の森に、彼女が一度ならず何度も足を踏み入れていることが見て取れる。
その事実を、村の大人達は誰一人として知らない。
森の樹々は奥に進めば進むほどに高さを増し、葉は一層と繁り、差し込む木漏れ日も段々と細くなっていった。やがて森の中は陽が落ちたばかりのような、不気味な薄暗さに包まれる。
そしてミリーシャが森に入ってから一時間後。視界の先に樹々が途切れ下草だけが生えた小さな広場と、その端っこにポツンと建つ一軒の丸太小屋が見えてくる。小屋を見たミリーシャは待ちきれないといった様子で走り出し、何の躊躇いもなく小屋の扉を押し開けた。
小屋の中は外と同じで薄暗い。ミリーシャは足を引っ掛けて転ばないよう、目を凝らして注意深く移動する。そして中央のテーブルに置かれたランプを発見し、それに火を灯した。
明瞭になる視界。小屋の中は多くの物でごった返しており、雑然としていた。壁際を埋める書物。天井からはいくつもの植物の葉や茎が吊るされ、床やテーブルの上には紙やら天秤やら小さな鍋やらが散乱している。そしてミリーシャの目の前には、テーブルに突っ伏してだらしなく眠りこける一人の女がいた。
「先生、ミラ先生。起きて下さい。もうお昼ですよ」
そう言いながらミリーシャは女の肩を強く揺するが、女はむずがるように体を身じろぎさせるだけで起きる気配がまるでない。ミリーシャは溜息を一つ吐くと、服のポケットから掌で握り込めるくらいの小さな石を取り出した。それを眠りこける女の目の前に置き、ミリーシャはテーブルから離れて両手で耳を塞いだ。それから五秒後。
部屋全体に、鶏十羽分に匹敵する、頭を直接貫くような甲高い音が響き渡る。耳を塞ぐミリーシャでさえ顔を顰める爆音に、惰眠を貪るさすがの女もたまりかねたのだろう。女は隼もかくやという勢いで体を起こした。
「何ですか、敵襲ですか⁉︎」
女はそう言いながら、警戒心も露わに周囲を鋭く見回す。そして笑顔で佇むミリーシャに気付き、その動きを停止させた。
「おはようございます、先生」
「……おはようございます、ミリーシャさん。まず一つ聞きたいのですが、先程のは一体何でしょうか?」
「私が作った、音の魔法を刻んだ音響石です。どうです、よく出来てましたよね?」
満面の笑みで告げられるその言葉に、女——ミラティエナ=エイゼルは穏やかな笑顔を浮かべながら苦言を呈した。
「ええ、確かに良く出来ていました。修行の成果が出ているようで何よりです。ですが、それを気持ち良く眠っていた私の耳元で響かせるのはいかがなものでしょうか?」
ミラティエナの苦言に対して、ミリーシャは満面の笑みで返す。
「いえ、私も最初は不躾だと思ったんですよ? でも小屋に入ったら、昼になっても暢気に寝ている先生を発見したものですから。不甲斐ない師匠の姿を見てしまったんです。弟子として、それを正さない訳にはいかないでしょう?」
その発言には皮肉がふんだんに込められている。それを明敏に感じ取ったミラティエナは眉尻を下げ、へり下るように言葉を続ける。
「おやおやそれはそれは。しっかり者の弟子を持てて、私は幸せ者ですね。ですがミリーシャさん、起こすにしてももう少し穏当で優しい起こし方があったのではないですか? ほら、私だって昨日は魔法の研究で夜遅くまで頑張っていたんです。昼になるまで寝入ってしまったとしても、それは仕方のないことだとは思いませんか?」
「いいえ、全く思いません。先生が研究好きなのは知っていますが、日が昇るのに合わせて起きるのは挨拶を交わすのと同じくらい人として当然のことです。もし起きられないのであればその分ちゃんと早く寝て下さいって、私何度も言いましたよね? それだけじゃなくて先生、研究にかまけてご飯もろくに食べてないですよね?」
笑顔のミリーシャから並べ立てられる言葉の数々は、小さな子供を躾ける母親のそれだった。言葉面だけを聞けば、これが年少の弟子から三十も半ばを過ぎた師匠へ向けられた言葉であるなどとは誰も思わないだろう。
「いや、ですからね、ミリーシャさん……」
「先生」
尚も言い訳を重ねようとするミラティエナに対し、ミリーシャは急に真顔になる。その表情からは、彼女が抱く静かな怒りが感じられた。
「私と初めて出会った時、研究に没頭し過ぎて餓死しかけていたことを、まさか忘れた訳じゃないですよね?」
ミリーシャの迫力ある言葉に、ミラティエナはそれ以上何も言えなかった。