第3節 家族の絆(2)
適度に休憩を挟みながら走り続けて、アンナはようやく陽だまり亭の前に到着した。一月半振りに帰ってきた生家は、心なしか寂しさを漂わせていた。それは天気が悪く周囲が薄暗いせいか、昼食時を過ぎた午後だからか、それとも公開処刑によって街の人々が中央広場へと出払っているためか、その理由は分からなかった。けれどいずれにしても、アンナはようやく、家族の元へと帰ってくることが出来たのである。
日中にも関わらず、店の鎧戸は全て閉め切られていた。もしかしたら父も母も、今はアンナの処刑を見届けるために中央広場へと行っているのかもしれない。そう思うと外套の少女が引き起こした騒動に両親が巻き込まれなかったか心配になるが、恐らくは大丈夫だろう。言葉を交わした時間は僅かだったが、あの少女はきっと関係のない人達を巻き込むような見境のない行動はしない。そんな確信がアンナの中にはあった。
アンナは陽だまり亭の入り口に近づき、正面扉にそっと力を込める。鍵はかかっていない。扉の隙間からは、いつもの明るい光が漏れ出てくる。どうやら両親は中央広場へは行かず、普段通り店の仕事に精を出しているようだった。
出来ることならこのまま思いっきり扉を押し開けて、すぐさま父か母の体に飛び込みたいというのがアンナの本心だった。けれどそうはしなかった。なぜならアンナが陽だまり亭に帰ってくるのは実に一月半振り。加えて魔女として連行された身だ。自分の姿を見た時、二人がどんな反応を示すのかは未知数である。もしかしたら嫌な反応をされることもあるかもしれない。そう思ったアンナは慎重を期して、まずは様子見をするように少しずつゆっくりと扉を押し開けていった。
扉が開くごとに店内の音が鮮明になっていく。空気の流れる音。灯りが燃えるジジっという音。しかし次いでアンナの耳に届いてきたのは、誰かが誰かを殴る鈍い音に、殴られた誰かがテーブルと椅子を巻き込んで倒れ込むガシャンという音だった。開きつつある扉の隙間からそっと店の中を覗き込むと、そこには床に尻餅を付き、左手で頬を覆うマーサの姿があった。
——えっ……?
その光景をアンナは咄嗟に呑み込むことが出来なかった。あの気も力も強い母が誰かに殴られるという状況を、アンナは一度として想像したことがなかったからだ。
アンナは扉を開いて母を殴った相手をすぐに確認したい気持ちに駆られる。だがこれ以上扉を開ければアンナの存在が向こう側にバレてしまう。アンナは湧き上がってくる驚愕と焦燥感を抑えながら、そっと事の趨勢を見守り続けた。
マーサは左頬を押さえながら睨み付け、いつもの気の強さの滲む声で殴った相手を怒鳴りつけた。
「いきなり何するんだい、モーゼス!」
その言葉にアンナの思考は一瞬にして固まった。母は今、誰の名前を口にしたのだろうか。聞き間違えでなければ母は確かにこう言っていた。「モーゼス」と、父の名前を。
そんなことがあり得るのだろうか。いいや、あり得るはずがない。アンナは自分の耳に届いた語音を必死に否定し続ける。なぜならそれが正しいと認めてしまえば、今母に暴力を振るっているのが、あの心優しくて温厚な父ということになってしまうのだから。
しかしそんなアンナの儚き願いを踏み躙るように、次いで聞こえてきたのは野太くてよく響く重低音、モーゼスの声だった。
「何をするかだと? それはこっちの台詞だ、マーサ。お前はいつから俺を騙してた?」
「騙してたって、一体何のことだい?」
「アンナのことだ。お前は、アイツが魔女であることを最初から知ってたんだろ?」
モーゼスの詰問に対してマーサは不服そうに顔を顰めた。
「そんな訳ないだろ。私もあんたと同じで、あの子が教会の騎士様に連れて行かれた時に初めて魔女だってことを知ったんだよ」
しかしモーゼスがマーサの言い分を信じる様子はなかった。
「本当にそうか? ならばどうして、お前はアンナが連れて行かれそうになったあの時、あれだけアンナのことを必死になって庇ったんだ? それはお前が最初からアンナが魔女であることを知っていて、いずれ此処に騎士様が来ることを予想していたからじゃないのか?」
「だから違うって言ってるだろ! 私だってあの時は驚いたさ。でもあの子は私達の娘だよ。確かに気が弱くてまだまだ目の離せないところの多い子だけど、あんたに似て、道理に反したことは絶対にしない優しい子だ。そんな子が、悪魔と契約を結ぶだなんて大それたことする訳ないじゃないか。教会の捜査だって全部が全部正しい訳じゃない。だからあれはきっと何かの間違いだって、そう思うのが普通だろ。あんたは父親の癖してそうは思わなかったのかい、モーゼス!」
そこでマーサは再び左頬を殴られる。それによって口の中を切ったのか、彼女の口端から赤い血が一筋流れた。
「お前の方こそ何を言ってるんだ、マーサ。教会は創世神様に代わってこの世界の平和を守る偉大な組織だぞ。そんな崇高な方々が間違った判断を下す筈がないだろう。騎士様がアンナを捕らえに来た時点で、アンナは間違いなく魔女なんだよ」
父の確信を持って展開される持論にアンナは泣きたくなった。自分は魔女じゃない。教会の都合によって魔女に仕立て上げられただけの被害者だ。そう口を大にして言いたかった。けれどそれが全くの無駄であることも分かってしまう。父の言うことは、この国においては別段おかしなことではない。裏側の事情を知らず、教会の権威性を信じている人々にとって、アリステリア教会というのは現実面でも思想面でも絶対的に正しい存在である。彼らの為すことに疑いを持つ余地などどこにもない。アンナも教会に捕まるまではずっとそう思っていたのだから。
父は敬虔なるアリステリア教の信者だ。それ故に、アンナが魔女であることを少しも疑っていない。きっと父にとってアンナはもう、娘でも何でもなくなっているのだろう。
モーゼスの主張は途切れることなく続く。
「なあ、マーサ。そもそもの疑問なんだが、アンナは本当に俺の子供なのか?」
「いきなり何を言い出すんだい。そんなのそうに決まってるだろ」
「そうか? でも俺はそうは思わない。本当のところアンナは、お前が悪魔と姦通した結果生まれた忌み子なんじゃないのか?」
突然落とされたその一言に、アンナだけでなくマーサも唖然となった。モーゼスが何を言っているのか、それを理解出来る人間は今この場には誰もいなかった。
「モーゼス、あんた……、それは一体どういう意味で言ってんだい……? もしかしてアンナだけじゃなくて、私まで魔女だって言うつもりじゃないだろうね?」
「言葉通りの意味だ。そう考えてみれば、アンナには俺の娘としておかしな点がいくつかある。例えば瞳の色だ。俺とリュカの目はこの髪と同じ金色、お前は深い茶色、なのにあの子の目は緑色だ。どうしてアンナだけ違う?」
「そんなの知らないよ。親と瞳の色が違うだなんて、起きるところでは起こるもんだろう!」
マーサは内心の怒りを隠すことなく鋭い口調で言い返す。しかしモーゼスの追及は止まらなかった。
「根拠は他にもある。これが最も大きな疑念なんだが、そもそもの話、アンナは俺の娘にしては不器用で鈍臭過ぎやしないか? 一応血の繋がった娘だからとこれまでは辛抱強く見守ってきたが、冷静に考えて俺の子供があんなに不出来な筈がない。それはアイツが悪魔の出来の悪さを受け継いているからだと、そう思わないか?」
モーゼスの容赦ないその言葉に、アンナの思考は凍り付いた。——自分の娘にしては不出来過ぎる。それは父がアンナに対して一番言わなそうな言葉だったから。
父の言う通り、アンナは不器用で鈍臭い。マーサに毎日怒られていることからもそれは明らかだ。けれど、そんな失敗ばかりのアンナに一番親身になり励まし続けてくれたのが父だった。アンナの成長を誰よりも願い、陰から見守ってくれていたのが父だったのだ。だから実際はあの優しい笑顔の裏でそんな風に思われていただなんて、アンナは全く想像していなかった。
アンナの思考が止まる間にも、モーゼスとマーサの言い合いは続く。
「自分のこと棚に上げて馬鹿なこと言うんじゃないよ! あの子の要領の悪さはどう考えたってアンタ譲りだろうが。まさか私に求婚した時のことを忘れた訳じゃないだろうね!」
「だが俺はアイツみたいにやることなすこと全部が全部不器用じゃない。アイツの鈍臭さは異常だ。俺の血を継いでるだなんて到底思えない。なら、アンナは悪魔とお前の間に生まれた子供だって結論付けるのが普通じゃないか。そうだ、そうじゃなきゃ辻褄が合わない。それがきっと正しい筈なんだ。俺はずっと騙されていたんだ。お前と、アンナに!」
モーゼスの言動は支離滅裂で明らかにおかしかった。まるで歯車の一つが外れて正常性を失ってしまった機械仕掛けのようである。マーサも途中でその異常性に気付いたのだろう。声の圧を下げてモーゼスを宥めにかかった。
「一端息を吸って落ち着きな、モーゼス。今が辛い状況だってのは良く分かる。けど正気を失っちゃあ出来るもんも出来なくなっちまうよ。精神的に色々と参っちまってるんだろう。今日はもう店を休みにして、ゆっくり過ごそうじゃないか」
マーサの慰めの言葉に、しかしモーゼスは自嘲を含んだ渇いた笑みを浮かべた。
「ハッ、別にもう店を開けてようが何してようが関係ないだろ。もうこの店に、客は誰も来やしないんだからな」
モーゼスのその一言で、アンナの意識は現実へと引き戻される。もう陽だまり亭に客が来ないとはどういうことか。アンナ中で疑問が浮かぶ。
「そんなことはないさ。ほとぼりが冷めて暫くすれば、みんなまた戻って来てくれるさ」
「どうだかな。なあ、マーサ。お前は三ヶ月前、ウチと同じで娘が魔女として連行された『アルバン仕立店』がその後どうなったか知ってるか?」
モーゼスの問いかけにマーサは数秒沈黙した後、どこか気まずそうに口を開いた。
「……客足が途絶えて最近店仕舞いしたって聞いたよ。首が回らなくなった主人は奥さんと一緒に首を吊っちまったってことも」
「ほら、今のウチだってそれと全く同じ状況じゃないか。魔女絡みで悪い評判の付いた陽だまり亭に客はもう戻って来ない。先祖代々、百年以上続いてきたこの店も俺の代でおしまいだ。陽だまり亭を今後百年先も二百年先も残り続ける名店にするのが俺の夢だったのにな。もう親父や爺さん達に顔向け出来ない。それもこれも全部魔女になったアンナの、何より魔女になるような不出来な子供を産んだお前のせいだ、マーサ」
モーゼスはそう言うとそのまま歩き出し、奥の厨房へと向かっていく。アンナの視界からもその後ろ姿が少しだけ見えた。そして暫くして戻ってきたモーゼスの右手には、厚みのある肉切り包丁が握られていた。その様子にアンナもマーサも目を見開いた。
「これがただの八つ当たりで、こんなことをしたって何も変わらないことは俺も分かってる。けどな、このまま何もしないままじゃ終われないんだ。せめて陽だまり亭を潰した原因くらいはこの手で排除しないと気が済まない。だからさ、マーサ」
モーゼスは肉切り包丁を振りかぶりながら、怨嗟に塗れた言葉を口にする。
「ここで、俺のために死んでくれ」
振り下ろされる包丁。だがマーサも一方的にやられるだけではなかった。マーサはすぐさま起き上がるとモーゼスの手首を掴み、包丁が振り下ろされるのを必死に食い止める。そのまま数秒間拮抗状態が続くが、しかし趨勢は段々とモーゼスの方に傾いていく。そして最後はモーゼスによって放たれた蹴りによって決着が付いた。マーサは再びテーブルと椅子を巻き込みながら後ろへと飛んでいく。余程の衝撃だったのだろう。マーサは再び立ち上がることが出来ず、呻き声を上げならその場に倒れ伏してしまった。アンナはこの時初めて、母よりも父の方が圧倒的に力が強いということを知った。
倒れ伏すマーサの姿を眺めながら、モーゼスはゆっくりとした足取りで近づいて行く。再び振り上げられる肉切り包丁。マーサはまだ立ち上がることが出来ない。このままでは母は何の抵抗をすることもなく、父の手によってその命を容易に刈り取られることだろう。食用として殺される牛や豚と同じように、あっけなく。
その光景を想像した瞬間、アンナは無意識に扉を開けて飛び出していた。父の手で母を絶対に殺させたくない。その思いに突き動かされて。
「ダメー‼︎」
張り裂けんばかりの声で叫びながら、アンナは母を守るように自らの体を父の前へと躍り出させる。その状況は完全に予想外だったのだろう。モーゼスは包丁を振りかぶった姿勢のまま動きを止め、驚くように目を見開いてアンナの姿を凝視していた。
「アンナ、どうしてお前がここに……。お前はもう、処刑された筈じゃ……」
その驚愕も当然だ。父の言う通り、本来であれば今頃、アンナは公開処刑によって既に死んでいる筈なのだから。だが運命の悪戯によってそうはならなかった。結果としてアンナは、こうして両親の前に現れ、致命的な事態を回避することに成功した。
「お願いお父さん。こんなことはもう止めて。お母さんを殺そうとしないで。何があったかは知らないけど、早くいつもの優しいお父さんに戻って!」
アンナは全身全霊を込めて、自分の気持ちを父へと伝える。そう、これはおかしい。色々と間違っている。アンナの知る父はこんな酷いことをする人間ではない。誰にでも優しくて、穏やかで、争うことを何よりも嫌う。そしてアンナがどれだけ失敗したとしても笑って励ましてくれる。それがアンナの知る父だ。
アンナは包丁を振りかぶったままのモーゼスの姿を見つめながら、心の中で夢想する。父と、母と、そして弟のリュカの四人で、これからもこれまでと同じように平穏な生活を送ることを。本能では最早それは叶わないと分かっていても、一縷の希望に縋ってアンナは願う。
だが、夢想と自覚している時点で所詮それは幻想と何も変わらない。その事実を示すように、モーゼスの顔は怒りに染まった。
「何で帰ってきた! 不幸を撒き散らす魔女が! お前なんかさっさと教会に捕まって殺されちまえ!」
それは自身の子供に対して向ける言葉ではなかった。やはり今の自分はもう、父にとっては娘ではなく単なる罪人なのだと、アンナは改めて実感する。魔女と罵る言葉が、誰よりも自分を受け入れてくれていた筈の父の口から紡がれる現実がアンナにとっては何よりも辛かった。認識一つで人はこうも豹変してしまうものなのかと、アンナはこの世界の無情さを痛感した。
今度はアンナに向かって振り下ろされる断罪の刃。マーサと違って、アンナにはそれに抗う力も技量もない。迫り来るは再びの死。今度はもう逃れられない。アンナは、この世で最も大好きだった筈の人の手で殺される。アンナは刃が自分の命を刈り取るその瞬間を見たくなくて、ギュッと目を閉じてその時を待った。
だがアンナは、またもや死の運命から救い出された。
「全く、だから言ったのよ。家に帰るのは止めておけって」
どこか聞き覚えのあるその声と共に一陣の風が吹く。何が起きたのか不思議に思ったアンナが目を開くと、そこにはアンナを処刑場から助けてくれた外套の少女と、店の端まで吹き飛ばされた父の姿があった。アンナはすぐさま状況が飲み込めず、少女と父の姿の間を行ったり来たりしながら視線を彷徨わせる。少女は慌てふためくアンナを呆れたように見つめながら、溜息を一つ吐いた。
「どう、これでやっと理解した? 魔女として捕まった時点で、貴方にはもう帰る場所なんてどこにもないってことを」
少女の言葉を受け入れるのにはとても抵抗があった。けれど、ここまできてしまってはもう認めざるを得なかった。
「……はい」
「そう。それで貴方はこれからどうするの? 私と一緒にこのまま逃げる? それとも此処に残ってあの父親に殺される?」
どっちでも貴方の好きな方を選べば良いと少女は言ってくる。アンナは壁際に倒れる父の姿を見つめながら少しの間考えを巡らせるが、答えは既に決まっていた。
「この街を出ます。けど、私だけじゃなくて母も一緒に連れて行ってもらうことは出来ますか? 母もこのまま此処にいたら父に何をされるか分からないので」
しかしアンナの懇願を少女は無情にも切って捨てた。
「悪いけど、それは出来ない」
「そんな、どうしてですか!」
涙交じりの訴えに、少女はアンナの後ろを指差した。
それに従ってアンナが後ろを振り返ると、そこには起き上がったマーサの姿があった。マーサは敵意の籠った目で外套の少女を睨み付けていた。
「お母さん!」
アンナは嬉しさを湛えながらマーサの元へと駆け寄って行く。
「ごめんね、お母さん、心配かけて。色々あったけど、私、ちゃんとこうして帰ってきたよ。その、お父さんに殴られた傷痛くない? 大丈夫?」
アンナは母の傷を気遣って、右手を母の口元へと持っていく。しかしアンナの手はマーサによってすげなく振り払われてしまった。その行為が信じられず、アンナは自身の右手を呆然と見つめた。
「お母さん……?」
「気安く触らないでおくれ。悪いけど、魔女になったアンタはもう私の娘じゃないよ」
マーサはそう言いながら、先程の敵意の籠った目を今度はアンナに向けてくる。そこでアンナはようやく気付く。あれは後ろの少女に対してだけではなくて、アンナ自身にも向けられていたものだということに。
「どうして? お母さんはお父さんと違って最後まで私が魔女じゃないって信じてくれてたんじゃないの? お父さんとの言い合いの時そう言ってたよね? それなのにどうして今になって私のこと娘じゃないなんて言うの?」
アンナのその言葉に、マーサは瞳に宿す剣呑さを深めた。
「確かに、私はアンタが教会の騎士様に連れて行かれた時も、そしてその後もずっと、アンタが魔女じゃないって信じてたさ。けどそれから一週間と少しが経った頃、いつもお世話になってる支教会の助祭様が訪ねて来られてね。言われたのさ。お前が最初の尋問で、魔女であることを早々に認めたってね」
マーサのその告白にアンナは言葉を失った。母の言う通り、アンナは捕まって早々に魔女の容疑を認めた。それは獄中でマリーから拷問の話を聞いて、どちらにしろ死ぬことが決まっているのならば苦しくない道を選んだ方が良いと、そう思ったから。だが自分のその選択が、母の想いを裏切る結果になるということにまでは頭が回っていなかった。
「ホント、アンタが魔女なんかになったせいでこっちは良い迷惑さね。店には客が誰も寄り付かなくなるし、街を歩けば腫れ物扱い。挙げ句の果てには夫から魔女の疑いをかけられて殺されかける。たとえ腹を痛めて産んだとはいえ、そんな奴をどうやって娘として愛せば良いっていうんだい? そんな方法があるなら私に教えておくれよ。ねえ? どうなんだい?」
母の視線に射竦められ、アンナは何も言い返すことが出来なかった。今のアンナの心を支配するのは単純な恐怖、そして何より母の信頼を裏切ったことへの自罰感だった。
ああ、自分はどこまで行っても駄目な人間なんだとアンナは自覚する。良かれと思ってやったことも、最善だと思って選んだ行動も、全てが上手くいかずに裏目に出る。そして結果として周囲の期待を裏切り失望させる。 やっぱり自分は変われない。どれだけ頑張っても成功出来ない。それが自分自身の人間性なのだと、アンナは心の底からそう思った。
アンナが一人そうやって消沈していると、後ろから声がかけられた。
「これで私の言ったことの意味がよく分かったでしょ? 残念だけど貴方のお母さんは私達とは一緒に行けない。どうあっても私やあなたという存在を受け入れることが出来ないから。もう良い? 分かったならさっさと逃げるわよ。あまりグズグズしてると教会騎士団に見つかっちゃうから」
外套の少女はそう言うやいなや、ポケットから小さな石を一つ取り出してそれを床へと投げつけた。その瞬間、目が眩む程の強い光が陽だまり亭を照らす。突然の光にアンナが顔を覆っていると、横から不意に腕を掴まれて、訳の分からないままに店の外へと連れ出された。
外はいつの間にか雨が降り出していた。失意に沈む中、アンナは少女に腕を引かれたまま走り続ける。
しとしと、しとしと。
しとしと、しとしと。
アンナの心を反映するように、雨がアンナの体を濡らしていく。
そのままどのくらいの時間走り続けていただろうか。正確なことは分からない。けれど息と体力に限界が訪れた苦しさで、アンナはようやく正気を取り戻した。アンナは未だ自分を引っ張り続ける少女の手を強引に振り解く。
「待って、待って下さい!」
アンナは荒い息を吐きながら濡れた地面にへたり込む。外套の少女はそんなアンナを見下ろしながら、疑問を示すように首を傾げた。
「疲れたの? なら少しだけ休む時間を取るけれど、さっきも言った通り早くしないと教会騎士団に見つかっちゃうから、あまりグズグズはしてられないわよ」
アンナは石畳に視線を落としながら必死に息を整える。そして図らずも少しばかりの時間的余裕が生まれたことで、アンナはようやく、少女と出会ってから抱いていた疑問を口にすることが出来た。
「あの、広場で助けてもらった、時から、ずっと、思ってたんですけど、あなたは一体、何者、なんですか? 広場を覆った煙も、爆発も、それにさっきの光も。あれってどう考えても、普通の人に出来ることじゃ、ないですよね?」
「今更説明する必要ある、それ?」
アンナの質問に少女は淡々と答える。それでようやく、アンナは自分の中にある推測が正しかったことを確信する。
「じゃあやっぱり、あなたは、魔女、なんですか?」
「そうね、そういうことになるわね」
改めて言葉として聞かされて、アンナは内心で驚愕を覚えた。
「なら、あなたは本当に悪魔と契約を交わしたことで特別な力を手に入れたんですか? その……、この世界を滅ぼすために……」
アンナのその不用意な一言に、外套の少女はものすごい勢いで首を向けてきた。フードのせいで顔は見えないが、彼女が怒りを抱いたことはその雰囲気から何となく伝わってきた。
「その……、すみませんでした」
アンナはすぐさま謝る。それで悪気がないことが伝わったのか、少女は怒りを鎮めるように大きく息を吐いた。
「別に、気にしなくて良い。この国で暮らす人間にとってそれが魔女に対する当たり前の認識であることは私も知ってるから。ただ良い機会だから覚えておいて。教会が標榜する魔女と、私達のような本物の魔女は全くの別物だっていうことを」
「具体的にはどう違うんですか?」
「まずその成り立ちからして違う。教会の言う魔女は悪魔と契約を交わすことで後天的に魔女になったってことになってるけど、実際魔女は生まれながらに魔女なのよ。魔女でない人間がある日突然魔女になったり、逆に魔女として生まれてきた人間が魔女じゃなくなるなんてことは絶対にない」
その話が本当だとすると、魔女というのは悪魔によって齎される不浄な力でなるものではなく、背が高いとか、髪の色が金色だとかと同じで、人が持ち得る先天的な素養の一つということになるのだろうか。つまり目の前の少女は、悪魔と契約を交わした大罪人などではなく、ただ単に魔女としての才能を持って生まれてきて、当然の権利としてその力を行使しているに過ぎないということになる。
そう考えると、アンナの中ではまた別の疑問が浮かんでくる。
「なら、魔女ってそもそも一体何なんですか?」
アンナの質問に、少女は暫しの間思案する素振りを見せてから答えた。
「端的に言えば、魔女とは生まれながらに魔力と呼ばれる不思議な力を有する者、そしてその力を使って普通の人間には実現不可能な術式を行使する者、ってことになる」
「それが、先程あなたがやって見せたものの正体、ということですか?」
「そう。まあ魔女が生まれながらに持っている魔力と違って、『魔法』はあくまで後天的に身に付ける技術の一つだから、使えるようになるまではそれなりの修練が必要になるけれど。貴方も使えるようになりたいなら教えてあげるけど、どうする?」
さらりと為された少女の発言にアンナは眉根を寄せた。
「使いたいなら教えてあげるって……。私、魔女じゃないので教えてもらっても意味ないと思います」
「? なに言ってるの?」
少女は不思議そうに首を傾げる。
「貴方だって私と同じ、魔女でしょう?」
少女のその言葉にアンナは驚愕で目を見開いた。
「私、魔女なんですか……?」
「そうね。どこからどう見ても魔女ね。だって貴方には魔力があるもの」
少女の指摘にアンナは言葉を失う。なんて皮肉だろうと思った。アンナは教会に捕まったその時から自分が魔女ではないことを信じて疑わなかった。なぜならアンナは魔女になるような行為に手を染めた覚えなんてないのだから。
けれど真実、アンナは人の道から外れた魔女だった。勿論、教会が標榜する魔女の定義と、外套の少女が語る本当の魔女の定義はまるで異なるのだから、「自分は魔女じゃない」というアンナの認識も決して間違いとは言えないのだが。
「それなら教会は本来、あなたや私のような魔力を持った人間を捕らえて処刑しようとしてるってことですか?」
「そこは私もよく分からないけど、でもあまり関係ないと思う。教会は、ただ単に見せしめのための生贄を必要としているだけだから。まあ、魔力を持っていることがバレたらそれはそれで殺されるでしょうけど」
少女は淡々と怖いことを言う。そしてその発言は、アンナには最早、事態がどう転んでも教会から逃げ続ける以外の選択肢が残されていないということを暗に示していた。アンナが今後どんな未来を望んだとしても、生き続けることを諦めない限り、選び取れる選択肢は一つしかないということを。
「あの、私にもちゃんと使えるようになりますか、魔法。生まれつき不器用で、こういったことで上手くいった試しが一度もないんですけど……」
不安に満ちたアンナの問いに、少女は変わらず淡々とした声音で答えた。
「それは貴方がどれだけ真面目に取り組むかに掛かってる。言ったでしょ、あくまで魔法は技術だって。努力すれば努力しただけ習得出来るし、修練を怠ればその分お粗末なものになる。私も教えられることは教えるけれど、全ては貴方次第ってことは忘れないで」
少女はそう言いながら、未だ座り込むアンナへ手を差し伸べる。それ以上の言葉はなく、纏う雰囲気にも変化はない。だがそれでも、これが少女なりの歓迎の印であることを、アンナは何となく察することが出来た。アンナは少女の手を掴み、ゆっくりと立ち上がる。アンナが立ち上がったのを確認すると、少女はクルリと反転してそのまま歩き始める。
「休憩はもう十分でしょ? なら早く街から出るわよ。教会騎士団に見つかると色々と面倒だから」
アンナは少女の後ろを付いて行く。そこでふと、アンナはまだ大事なことを聞いていないことに気付いた。
「あの、ちょっと良いですか……?」
「何? 言いたいことがあるなら手短にお願いね」
少女の相変わらずぶっきらぼうな返答に、アンナは数秒の間を置いてから続きの言葉を口にした。
「名前……。私、まだあなたの名前を聞いてません」
少女は足を止める。そしてどこか煩わしそうに振り返った。
「それ、必要?」
「当然です。だってこれから一緒に行動していくんですから。ちゃんとお互いのことを知っておかないと」
アンナの提案に、少女は視線を前へと戻して黙り込む。何か不満があるのだろうか。少女はそのまま十秒以上黙り続けてしまった。時間が経過するごとに、アンナの中では気まずさの塵が降り積もっていく。
また何か、気付かぬ内に怒らせるようなことを言ってしまっただろうか。アンナは自身の言動を省みる。そして遅まきながら、これが自分よりも先に相手に名乗らせようとしている失礼な状況であることにアンナは思い至った。
「あ、あの、すみません。名前を聞くならまず私の方から自己紹介するべきですよね。私の名前はアンナです。十一歳です。宿屋兼料理屋『陽だまり亭』を営むモーゼスとその妻・マーサの間に生まれました。生まれてからずっとこのリモーネの街に住んでいました。その、これからよろしくお願いします!」
アンナはどこか慌てるようにそう言い切ると、そのまま腰を九十度に折って深々とお辞儀をした。その様はまさに、叱責を恐れて事前に謝りに来た生徒のそれであった。
そんな見るからに不器用さ満載の自己紹介を受けた少女は、アンナの方を振り返ってどこか困った雰囲気を漂わせた。少女としては、自分の取った態度がここまで重く受け止められるとは思っていなかったのだろう。
そして更なる数秒の沈黙を経て、少女はようやく口を開いた。
「……別に、貴方の態度に怒って黙ってた訳じゃないから、そこまで気にする必要はない。ただ私の中で躊躇いが生まれてただけ」
そこで一度言葉を切り、少女はどこか覚悟を決めるように息を大きく吐いた。
「貴方がそうやって誠意を見せてくれたのだから、私もちゃんと誠意を持って返すわ。
私の名前はミリーシャ。今はもう存在しない村、聖教国西方の『リベリオス村』の出身。歳は十二歳。鍛治師マルクとその妻・イザベルの娘。そして……」
外套の少女——ミリーシャは頭部を覆っていたフードを外し、その面貌を初めてアンナの前に晒した。
「『星詠みの魔女』ミラティエナ=エイゼルの弟子にして、その遺志を受け継ぐ者」
アンナは驚きで言葉を失った。その理由はミリーシャの発言内容ではなく、顔の造作でもなく、ましてや宝石のように輝く蒼い瞳の色でもない。アンナの視線を奪ったのは、不気味ささえ感じさせる、烏のように染まった彼女の漆黒の髪にあった。まるでこの世のものとは思えない、悪魔のような、はたまた冥府の窯を煮詰めたような暗黒の色。露わになったミリーシャの姿を前にしたアンナは、恐怖で無意識に一歩後ずさった。
そんなアンナの様子を見て、ミリーシャは悲しさと諦めがない混ぜになった表情を浮かべた。そうなることは事前に分かっていたけれど、でも実際に前にしたらやっぱり悲しみが込み上げてきたという、そんな表情。アンナはそこで、自分の犯した失態に気付いた。無意識的な行動とはいえ、これから彼女と関係を築いていく上で決してやってはいけないことをしてしまった。アンナは直感的にそれを悟った。
アンナはすぐに謝罪の言葉を口にしようとした。けれど、それはミリーシャによって拒否されてしまった。ミリーシャはすぐにフードを被り直し、先程よりも早い速度で足取りを再開させる。アンナは心の奥で鈍痛のような罪悪感を感じながら、彼女の後ろに続いた。
雨は段々と強くなる。街を歩く最中も、街を出てから暫く経っても、二人の間に会話はなかった。
ただ、地面を打つザーザーという雨音だけが、アンナの耳に響き続けた。
魔女の国を目指すアンナとミリーシャの旅は、こうして不穏な空気を纏う形で始まった——。




