序章 断罪されるべきもの
とある地方都市の中央広場には、埋め尽くさんばかりの人だかりが出来ていた。
集まる人々の数はゆうに一万を超え、その様子からは住民の半数以上がこの場に駆けつけていることが容易に想像出来る。
しかしそれも無理からぬこと。今から広場で行われようとしているのは、この国において最も罪深き者達への断罪。『魔女』と呼ばれる、この世に生きる人々にありとあらゆる不幸をばら撒く、災いの権化たる罪人の処刑である。自分達の生活を脅かす極悪人が捕えられ、公衆の面前にて粛清が行われるというのだから、その瞬間を見届けようとするのは人として当然の心理と言えるだろう。
住民が広場に詰めかける中、その中心だけがぽっかりと穴を開けたように閑散としている。柵と教会騎士団によって人々の流れが堰き止められたその場所には、頑丈な木材で作られた磔刑台が五本立ち、それぞれに女性が縛り付けられている。磔刑台の根元には大量の薪が小山のように積み上げられ、その傍らには数名の修道士と、白地に金刺繍が施された豪奢な祭服を身に纏う一人の司教が佇んでいた。司教は見るからに齢六十を超えており、顔には古木のような深い年輪が刻まれている。豪奢な祭服を着ていなければ、彼が教会内でそれなりの地位にあると気付く者はおそらくいないだろう。そんな枯れた印象を与える人物である。
司教はざわめく群衆を押し黙らせるために両手を掲げ、静寂が場を支配したのを確認してから言葉を発した。
「敬虔なる信徒の諸君。此度は労働に勤しむ昼日中にも関わらずこうして足を運んでくれたこと、誠に光栄に思う」
司教の声音は外見から受ける印象の通り、それほど大きくはなく、また張りがあるものとは言えなかった。だが大勢の前での説教を行ってきた経験故だろう。彼の声は不思議と広場の隅々にまでよく届き、そしてそれを聞く人々の心に深く浸透した。
「今日この場に集まってもらったのは他でもない。過日、我らが住むこのリモーネの街にて、我らの平穏を脅かさんとする異端者、悪魔と契約を交わせし魔女が新たに見つかった。その魔女というのが今まさに、諸君らの前に晒されている者達である」
司教のその言葉を受けて、群衆から火を打ったような熱気が沸き立ち始める。磔刑台に縛られた魔女へと向けられるのは、怒り、憎悪、そして慟哭。それらは被害者が当然に持つべき負の感情であり、また悪しき存在である魔女を弾劾する、人としてごく自然に持ち得る正義の心である。
司教は沸き立つ群衆の姿を暫く眺めてから、再び両手を掲げて場に静寂を齎した。
「諸君らが抱く怒り、悲しみ、憎しみ。それらが如何程のものであるか、この私にも痛い程に理解出来る。ここにいる者は皆、去る二百年前、魔女によって引き起こされた大厄災を知っているだろう。記録に垣間見る通り、あれは悲惨な出来事だった。『創世の神アリステリア』が創りたもうた世界を滅ぼさんと企む魔女によって、この国はかつて滅亡の危機に瀕した。天候不順による不作、天災の頻発、不治の病の流行。我らが先祖は飢えに苦しみ、住まう家を奪われる喪失感に苦しみ、癒えることのない病に苦しみ、そして何より多くの隣人の死に嘆き悲しんだ。根拠に乏しい噂話も広く蔓延し、それによって人々の心は大いに乱れ、窃盗や殺人に手を染める者も後を立たなかったという。魔女共の悪辣なる企みによって、我らが同胞はその三割が失われた」
司教の語りには、壮大な物語を聞かせるような情感が籠められていた。それに心動かされたのだろう。広場の端々からは先程までの慟哭とはまた違う、他者の痛みに共感するような啜り泣きが聞こえてくる。
「かの大厄災は、神アリステリアの代行者たる当時の教皇猊下、そして神の僕たる我ら教会の尽力によって食い止められた。厄災の原因が魔女にあることを我ら教会が突き止めなければ、この国は真実滅亡への道を突き進んでいたことだろう。大厄災が収束した後、二度と同じ悲劇を繰り返さぬよう、我ら教会は魔女を最大の異端存在として認定し、その排除に努めてきた。だが誠に遺憾ながら、厄災から二百年が経った現在においても、魔女の根絶には至っていない。相手は悪魔と契約を交わしたことで人外の力を手に入れた逸脱者であり、そして悪魔の如く狡猾な存在だ。彼の者達はその力を使って巧みに市井に紛れ込み、今でも平穏に満ちた諸君らの日常を脅かし続けている」
司教はそこで一度言葉を切り、広場に集まった住民一人一人の顔を改めてゆっくりと眺め回していく。住民は司教の一挙手一投足を見逃すまいと注目し、司教はそんな住民の真摯な眼差しに好々爺然とした穏やかな笑みで返す。広場には魔女という共通の敵に立ち向かう同志としての連帯感が形成されていく。
「諸君らの生活は未だ多くの苦しみと悲しみに満ちている。貧しさに喘ぐ現状、親しい者との突然の離別に立ち会う不幸、そして、思い通りにいかぬ諸君らの不遇なる人生。我らが生きるこの現世は、あまりに多くの苦難に満ちている。諸君らは疑問に思ったことはないだろうか。どうして創世の神アリステリアによって作られたこの世界は真の楽園ではないのか、と。その苦難こそが神より与えられし試練であるという意見も一部では確かにある。だが教会は現状その意見に対して否定的だ。なぜなら、万能且つ慈悲深くもある創世神がわざわざ我らに試練を与える、その必然性を見出すことが出来ないからだ。であるならば何故、この世界には苦難などという瑕疵が存在するのだろうか。その原因は論ずるまでもなく明らかである。魔女による悪辣なる企みがこの世界を脅かしているからだ。魔女こそが、諸君等の生活に苦難を齎している元凶なのだ」
司教は語調を少しずつ強めていく。群衆の怒りを煽るように。感情を臨界へと導く下準備を行うが如く。丁寧に、かつ大胆に。それを知ってか知らずか、司教の言葉に乗った群衆は、一度鎮められた心の炎を再び沸々と燃え上がらせ始める。
「魔女は確かに偉大なる脅威だ。神の敵対者たる悪魔と契約を交わせし恐ろしき存在だ。だが我々はその撲滅を決して諦めてはならない! この国に真の平穏を齎すために! そして諸君らの人生に真の幸福を齎すために! 同じ国を故郷とする同胞として、そして創世神アリステリアが創りしこの世界に生まれ落ちた兄弟として、我らは一個に団結し、魔女を打ち斃さなければならないのだ!」
司教の声はどんどんとその勢いを増していき、ついには空気を張り裂かんばかりの大音声へと変わった。それは枯れ果てた体から発されているとは到底思えない、獣の咆哮のような力強さを内包する声だった。
司教の言葉を聞いた群衆もそれに合わせて鬨の声を上げる。司教と住民達が、魔女殲滅という共通の意識の下に一つになった瞬間である。
感情が十分に高まった住民達の様子を司教は満足そうに見つめた。そして磔刑台に縛られ、半ば放置され続けていた魔女達へとようやく意識を向ける。
「それではこれより、魔女の処刑を執り行う。が、その前に、魔女達へ懺悔と告解を行う最後の機会を与える。創世神アリステリアは我ら全ての母である。神は善人悪人を問わず、全ての子に対し平等無辺な愛を授ける。故にこれは、万人が生まれながらに持つ当然の権利である」
司教は磔刑台の一つに近付き、魔女へ告解の言葉を投げかける。
「最後に、何か言い残すことはあるかね?」
「いいえ……、ありません。私は私が犯した罪を償うために、この罰を受け入れます」
「よろしい」
司教は一言そう言うと、隣の磔刑台へと足を進め、同じ文言を二人目の魔女へと投げかける。
「最後に、何か言い残すことはあるかね?」
しかし二人目の魔女は司教の問いかけを無視し、群衆の方をまっすぐに見据えたまま何も答えなかった。その反応も事前に予想していたのだろう。司教は特段慌てた様子もなく、「この魔女も自身の罪を受け入れている。故に残すべき言葉は無いようだ」と魔女の心情を代弁した。
その時だけ、二人目の魔女は司教へ殺意の籠った目を向けたが、司教は気付かぬふりをして隣の磔刑台へと移動した。
「最後に、何か言い残すことはあるかね?」
「はい、勿論たくさんあります、司教様。私は、私を魔女として告発した者達を、神の名の下に魔女を狩り続ける教会を、そして神の代行者たる教皇猊下と処刑を執り行う司教様ご自身を、天へ召された後も終生恨み続けます。聖教国に災いあれ。魔女に救いあれ」
反省の色が見えない魔女の言葉に、群衆から非難の声が上がる。しかし三人目の魔女はそれを気にする様子もなく、凄絶な笑みを司教へと向け続ける。見る人によっては怖気が走る、精神のタカが外れてしまったような不気味な笑みだ。
だが当の司教はそれすらも想定していたと言わんばかりに、淡々と言葉を発した。
「どうやらこの魔女は、完全に己が心を悪魔によって奪われてしまっているようだ。現世との繋がりを断ち、その憐れな魂を創世神の御下へ返す以外にこの者を救う手立ては残されていない」
一言そう言って、司教は次の魔女の下へと歩いて行く。司教は磔刑台の下で足を止め、四人目の魔女へ視線を遣ったが、その魔女には何も言葉をかけずに再び歩き始めた。四人目の魔女は深く傷付き、既に虫の息だった。まだ生きているのかさえ怪しい程だ。そんな状態で懺悔も告解もないだろうと司教は判断した。
そして最後、五人目の魔女の下に辿り着いた司教は、他の魔女達と同様に言葉を投げかけた。
「……最後に、何か言い残したいことはあるかね?」
文言はこれまでのものと殆ど変わらない。だが、その声音の中に僅かながら気遣うような優しさが込められているのは聞き間違いではない。五人目の魔女は他の者達とは違い、年端もいかぬ少女だった。まだ十を越えたばかりといった年齢だ。司教にも近しい年頃の孫娘がいる。そのせいだろう。魔女が粛清すべき異端者だと理解していても、司教は同情の念を完全に消すことは出来なかった。
司教の問いかけに、少女は司教のしわがれた顔を見つめる。そして、心の堰が切れたように口を開いた。
「司教様……。私は、魔女なんかじゃありません。私は悪魔と契約なんか結んでませんし、特別な力も授かってません。私は、勘違いで捕まったんです。お願いです、信じて下さい。私は、魔女じゃありません!」
少女の無実の訴えによって、広場は暫しの静寂に包まれる。しかしそう時間を置かずに、群衆から三人目の魔女の時より倍増す非難の声が上がる。「嘘を吐くな」「犯した罪から逃げるつもりか」「悪魔なんかと契約を交わしたくせにふざけんじゃねえ」。それは非難の域を超えて怒号と呼ぶに相応しかった。そこに子供だからという容赦はない。当の少女本人だけが、その言葉が信じられないといった様子で群衆に視線を向けている。
——全く、愚かなことを。
司教は住民達から罵倒を浴びせかけられる少女を見つめ、心の中で溜息を吐いた。
少女は理解していないようだが、少女が真実魔女ではなく、仮にこれが冤罪だったとしても、群衆にとってそんなことは関係ない。どのような事実があるにしろ、この処刑場という名の見世物の舞台に引き摺り出された時点で、彼らにとって少女は既に断罪すべき魔女なのだ。
司教は少女に対する同情の念は変わらずありながらも、熱気を帯びる群衆の手前、声音に鋭さを帯びさせながら少女へ言葉を投げかける。
「今さら何を言い出すのだ。教会の捜査に間違いはない。それに何より、お主は取り調べの場において早々に自白したのではなかったか? 『私は悪魔と契約を交わした魔女だ』と」
「それは……」
「自ら認めた罪を、処刑される今になって否定するのか? それは道理が通らんだろう。真実お主が魔女でないのならば、どうして魔女であることを認めたのだ? それは悪魔と契約を交わしてしまった自身の行いを悔いたからではないのか?」
司教の言葉に、少女はどうにもならない現実を前にしたかのように口を噤む。少女は顔を項垂れさせ、それ以上何も言おうとはしなかった。教会法において、自白は何よりも有罪を決定付けるための証拠となる。それを後になって撤回するなど、天地がひっくり返っても無理な話だ。その事実を、少女はようやく理解したようである。
司教は少女のことを不憫に思いながらも、踵を返して元居た場所へと戻っていく。これで、処刑前に必要な段取りは全て完了した。
後は薪に火を焚べ、いつも通りに魔女を燃やすだけである。淡々と、日々の決まった作業をこなすように。
※ ※ ※ ※
いよいよ火を焚べる段となり、群衆の熱気は最高潮に達していた。司教の号令一つで、魔女の処刑は執行される。
魔女の処刑執行を前にした人々の瞳には、自らを苦しめる魔女への恨み、怒り。それらが晴らされることに対する歓喜の光が宿っている。だがそれだけではない。人々の瞳の更に奥深くには、昏く、醜い、獣のような嗜虐性が渦巻いていることを、とある少女は群衆の中に紛れながら確かに感じ取っていた。この熱気の中に一人冷静でいると、処刑される魔女と群衆、どちらが本当の意味での悪なのかが分からなくなる。
——いや、どちらが悪なのかは考えずとも明らかだ。
「それでは魔女の処刑を執行する。火を焚べよ!」
司教の号令を合図に、松明を持った処刑人がそれぞれの担当する磔刑台へと火を灯していく。薪へ燃え移った炎はたちまち勢いを増し、磔刑台を蛇の如く這い上り、やがて魔女本人を焼くことだろう。
その光景を、この場にいる誰もが頭の中で想像した。
だがその光景が現実となる前に、異変が起こった。
広場全体が、白く濃い煙に覆われたのである。火刑によって発生したものでないことは明らかだ。燃焼煙特有の息苦しさや鼻を刺激する不快感はまるでなく、白煙は人々の視界をただ遮るだけである。そういった意味では、現象としては煙というよりも霧に近いのかもしれなかった。
突然発生した煙に人々は困惑する。それは群衆だけでなく、司教や騎士団、処刑される寸前の魔女達も同様だった。群衆の悲鳴や喚き声に遮られながらも、司教は近くの騎士団に原因の究明と解決を指示し、命令を受けた騎士団員は迅速に対応へと動き始める。
そんな混乱する人々の只中を、黒の外套に身を包んだ一人の少女が広場の中央に向かって走り出す。広場は半ば寿司詰めの状態で、普通に移動するのは困難だ。そのため少女は身軽な体を駆使して、荒波を乗りこなすように群衆の肩や頭の上を軽快に進んでいった。
突如広場を覆った白煙は、少女によって生み出されたものだ。『魔法』。つまりは教会が言うところの悪魔と契約を結ぶことで手に入れられる超常の力である。
——まあそんなもの、全部教会の嘘っぱちだけれど。
そう、教会が標榜する人類の敵たる魔女の存在など、全てが教会による虚言だ。それを少女は知っている。実際、磔刑台に縛られた女性達の中で、本当の意味で魔女であるのは、最後に無実を訴えていた女の子ただ一人だけである。他の四人は、教会によってでっち上げられた憐れな被害者に過ぎなかった。
群衆の波を抜け、広場の中央に辿り着いた少女は外套の中から一本の木製の棒を取り出し、その先から鋭利な風の刃を打ち出した。風の刃は白煙の中を直進し、女性達を縛り付ける縄を次々と断ち切っていく。女性達は三メートルの高みに縛り付けられている。普通であれば怪我の一つや二つ免れない高さだが、幸か不幸か、磔刑台の下には点火前の大量の薪が積み上げられている。それが丁度良い緩衝材となり、女性達はさほどの怪我もせず地面へと落下する。
少女が行っている救出作戦は時間との勝負である。出来れば教会騎士団に見つかる前に脱出したいといのが本音だ。少女は磔刑台周辺の煙を散らし、逸る気持ちで女性達に近付いていく。
「すぐにここから脱出します。何も考えずに着いて来て下さい」
未だ状況を飲み込めない女性達を鋭い口調で急き立てながら、少女はすぐさま広場からの脱出を試みる。片足が欠損している女性に手を貸しながら、他二人の女性、そして自分と同い年くらいの女の子を先導していく。女の子の隣に縛られて意識を失っていた女性は、残念ながらもう既に事切れていた。
少女は広場の外に向かいながら、外縁の建物に設置していた起爆魔法を作動させる。突然の爆発に驚いた人々が、恐れをなして蜘蛛の子を散らすように道を開けて逃げていく。少女は爆発で散ってしまった煙を再度魔法で展開し直しながら、広場の外へと進んでいく。
救出する女性の中に歩けない者がいる以上、移動速度が遅くなるのは仕方のないことだ。それは事前に分かっていた。煙に加えて気配隠しの魔法もかけているため、そうそう見つかりはしないだろう。だがどうしても焦る気持ちは抑えられない。
——早く。早く。騎士団に見つかるよりも、早く外に。
少女の焦りは纏う雰囲気に如実に現れていた。突然の救出劇に女性達は未だ困惑を隠せないでいるようだが、外套で顔は見えずとも必死な思いが伝わってくる少女を前に、女性達は黙って従う他になかった。
少女は広場の外を目指しながら、ふとかつての記憶を回想する。
生まれ育った故郷のこと。
自分を慈しみ育ててくれた家族のこと。
自分に進むべき道を教えてくれた師匠のこと。
そして今の旅が始まる、そのきっかけとなった出来事を——。