第8話 武神の威容
それから数日後、武神将軍の任を受けた香織は、自分の内室で銅鏡を手に自分の顔を写していた。彼女は鏡に映るその顔に、威厳が欠けていることに悩んでいた。
いくら体を鍛え、男勝りな振る舞いをしても、顔立ちまではそう簡単には変えられない。女子高生時代に比べれば日に焼けて、命がけの戦に身を置いているせいか、多少は凛々しい顔になっていたが、それでも女の子であることに変わりはなく、周りからは小姓と思われ、武神将軍という称号に名前負けしているように感じていた。
(このままでは、武神としての威厳が足りない気が……)
頼朝から、“その身に武神を宿し”と言われた手前、それを目に見える形で示す必要もあった。香織は悩みながら、後ろで控える景時に相談する。
「景時、この顔では武神としての威厳が足りぬ。何か良い案はないか?」
「お顔ですか……」
景時は香織の言葉を聞き、考え込んだ。彼は香織の顔をじっくりと見つめ、仕える主君の悩みを真剣に受け止めながら思案を巡らせる。
いかにしてこの顔に威厳を持たせ、武神将軍としての存在感を高めるか。景時の頭の中で数々の考えが交錯し、やがて彼は一つの結論に達した。
「香織殿、恐れながら申し上げます。もしお許し頂けるならば、化粧を施すという手段もございます。化粧により顔立ちを変え、威厳を増すことができるかと存じます」
「なるほど、化粧か……」
その言葉に香織は納得し、改めて自分の顔を鏡に写してみる。今は女子高生としての影も形も残っていないが、香織は化粧には慣れ親しんだ環境の中で生きてきた。確かにその知識を生かせば、それなりな威厳を出すことが可能なはずだ。しかし、女子高生レベルの腕では、そこまで高度な化粧を施すのは難しいかもしれない。
香織は思案を巡らせ、そして、ふと一つのアイデアが閃いた。
「そうだ! 隈取だ! 隈取りをすればいいのだ!」
「くま?」
香織は、歌舞伎役者の隈取りを思い出し、それを自分の顔に施すという発想に至った。それはまさに、武神としての威厳を体現するに相応しい化粧法だった。この時代にはまだ歌舞伎は存在していないため、そのインパクトは計り知れない。景時はあまりピンと来ない様子で首を傾げていたが、香織は構わず続けた。
「景時!白粉と紅を用意させよ!」
「はっ、すぐに手配させます」
景時の返事を受けて、家臣達はすぐに動き出した。馬を飛ばし、周囲の町や村から最高級の白粉や紅などを集めさせ、その日のうちに各地から集められた化粧用具が香織のもとに届けられる。
香織はそれらを手に取り、内室に籠もって歌舞伎役者の隈取姿を思い出しながら、銅鏡に映る自分の顔に一筆ずつ丹念に隈取を施していった。
「ほぉ……これは悪くないな。やってみるものだ」
香織は化粧を終え、鏡の中の自分を見て感嘆の声を上げた。隈取の仕上がりは予想以上であり、自分の顔がまるで別人のように変わって見える。
「香織殿、いかがでございましょうか?」
部屋の外で控えている景時が、障子越しから伺いを立ててきた。香織は隈取りを施した顔を最後に確認し、深呼吸をして答えた。
「入れ」
「はっ」
静かに障子が開き、景時が室内に入ると正座で控える。
香織は景時を背にあぐらを掻き座っていたその体をゆっくりと起こし……そして、景時の方に向き直った。
景時は、その恐ろしい形相に思わず姿勢を崩し、片手を畳に付けると後ずさりしそうになる。
「なっ!?」
驚愕の声が景時の口から漏れた。
隈取が完成した香織の顔は、まさに威厳と恐怖の象徴だった。白粉で真っ白に塗られた顔は、異様なまでに透き通るような白さを持ち、その上に描かれた真っ赤な隈取りの模様が一層際立っている。目の周りは黒い化粧で鋭くつり上がり、その鋭さが一層彼女の目力を強調させ、猛禽の鋭い視線を思わせる迫力を醸し出していた。その周囲から力強い赤い線が顔全体に広がり、まるで燃え上がる炎のようにその存在感を強調している。口元には真っ赤な紅が塗られ、への字に強調された口は、無言の威圧感を放っていた。その顔は、立派な大鎧と合わせることで、とても人とは思えない悪鬼のごとき恐ろしさをさらに醸し出している。
「どうだ?」
景時は背筋が凍るほどゾッとし、恐怖が全身を包み込……いや、それは恐怖とは異なる畏怖だった。人に対する恐ろしさとは異なる、神に対して抱く畏敬の念。香織が放つ圧倒的な存在感と迫力は、まさに武神将軍の名に相応しいものだった。
景時は背筋が凍るほどゾッとし、恐怖が全身を包み込……いや、それは恐怖とは異なる畏怖だった。人に対する恐ろしさとは異なる、神に対して抱く畏敬の念。香織が放つ圧倒的な存在感と迫力は、まさに武神将軍の名に相応しいものだった。
その威容に気圧されながらも、景時はなんとか言葉を絞り出す。
「これは……凄まじい……」
それは景時が生まれて初めて感じた“格が違う”という感覚。普段は誰よりも近くで彼女に仕えている彼でさえ、思わず後ずさりするほどだった。
香織はそんな彼を見て満足げに微笑むと、再びあぐらをかいて堂々とした態度で座り直した。その笑顔でさえ隈取のせいで凄味が増している。
「見違えるような姿であろう」
景時はその感性に身震いした。香織のこの大胆な発想が、敵にとっては恐怖の対象となり、味方にとっては頼りになる存在となることを確信する。
「香織殿、そのお顔こそ、まさに武神将軍に相応しきものにございます。これにより、敵も味方も、その威厳に圧倒されること必至にございましょう」
「そうであろう。この顔は、まさに武神の加護を体現した姿である。我は今後、この姿で武神将軍として生活し、皆を導いていく」
その言葉に、景時は畳に額を擦り付け、まるで神に祈りを捧げるかのように深く敬意を示した。
「出かけるぞ景時」
「はっ」
香織は鎧の擦れる硬い音を上げながら立ち上がり、景時を連れて部屋を出た。
その直後、廊下から家臣や使用人達の悲鳴がとどろいた。屋敷の家臣全員が隈取姿の香織を見て恐れおののき、女房に至っては泡を吹いて失神する者までいた……
◇
香織は大鎧に隈取を施した顔で家臣達を引き連れ、城下町へと繰り出した。その目的は、城下の者達に武神将軍としての姿を見せること。
家臣達が整然と彼女の後に続き、道を行く。人々が恐れおののく中、香織は景時の顔をちらりと見た。景時は彼女の横に並び、少しの距離を保ちながらも、さりげなく彼女の様子を見守っている。
「景時、化粧の方は問題ないか?鎧の着用に問題は無いか?」
「はい、香織殿……いえ、この場では武神将軍殿と呼ばせて頂きます。隈取なる化粧は完璧に施されており、鎧の着用にも問題はございません。その姿、威厳に満ち溢れ、まさに武神将軍としての風格を漂わせております」
香織の隈取された顔は、鬼のごとく恐ろしい形相をしており、彼女が一歩踏み出すごとに人々は息を呑み、その存在感に圧倒される。その後ろに付き従う大勢の家臣達が、その威厳をさらに引き立てていた。
「武神将軍殿、初めての印象は極めて重要でございます。どうか、最大の威厳をもって街の者達にその存在をお示しくださいませ」
「心得ておる。我を神の如き存在であることを示してやろうぞ」
香織はゆっくりと周囲を見渡し、道端でひれ伏す町民達に目を向ける。人々は皆、息を呑み震え上がりながら地面に頭を擦り付けて平伏する。
「この者達が我を神の如き存在であると信じるのは、まさにこの大鎧と隈取の力であろう。だが、我が使命を果たすためには、この威厳を保ち続けることが重要だ」
景時は深々と頭を下げた。口には出さなかったが、それは彼女が戦にて得た真の実力による賜であり、この姿は単なる象徴に過ぎないと。しかし、それは彼女が武神将軍としての地位を確固たるものにする為に必要な要素であることも、理解していた。
「その通りでございます、武神将軍殿。どうか、この機会を最大限に活用なさってください」
「任せよ。ここで我が威厳を見せつけ、皆に畏怖の念を骨の髄まで刻み込ませてやる覚悟よ」
香織は自信を持って頷き、改めて背筋を伸ばして歩き続けた。
と、その時、一人の男が放心したまま平伏せずに立ち尽くしている姿が目に入った。
その姿を見た景時が鋭く声を放つ。
「無礼者!前におわすは武神将軍様なるぞ!立場を弁えよ!」
その言葉に、男は一瞬で我に返り、震える手で顔を覆いながら地面に腰を抜かす。香織はその男に顔を向け、鋭くつり上がった様に見える目で見下ろした。男にはその形相がまるで地獄から現れた悪鬼のように写っただろう。恐怖のあまり小便を垂らしながら、地面に頭を擦りつけガクガクと震えていた。
香織はその光景を見て内心驚いた。ただ彼の姿を見ただけなのに小便を漏らすほど、隈取の効果の絶大さは想像を絶していた。彼女はこの姿こそが頼朝の期待に応えるものだと再確認する。
「我は武神なり!鎌倉を守護する我を畏れ敬え!」
まるで神勅のように響く香織の声に、町民達は深く平伏し、家臣達も膝をついて深く頭を垂れた。香織はその光景を見渡し、城下への顔見せが成功したと感じ取る。彼女の威厳と存在感は確実に人々の心に刻まれた。
一通り城下の者達への顔見せを済ませた香織は、家臣達を引き連れて屋敷へ戻る道すがら、心の中で自分の選んだ道が正しいことを確信していた。
景時を始めとする家臣達が、武神将軍の勇ましい背中を見守っている。香織は今日の成功を褒め称えようと思い立ち、その場で立ち止まると、景時と配下の者達に向かって顔を向け微笑みを浮かべた。しかし、その笑顔は隈取のせいで悪鬼が見せるような悍ましい表情になっていた。
「ははぁーっ!」
家臣達はとても笑顔とは思えないその形相に畏怖を感じ、誤解して深々と平伏してしまった。
香織は少しだけ申し訳なさそうにしながらも、内心では満足していた。
「これで良い。我が力と威厳を持って、この国を守るのだ」
香織は再び背筋を伸ばし、家臣達を引き連れて堂々と歩み続けた。