第3話 初陣の栄誉
初陣を勝利で飾った香織たちが城へ戻ったのは翌日のことだった。汗、返り血、泥、そして……お漏らし。香織の姿はまるで地獄から這い出てきたかのようだった。女であることを隠している身とはいえ、彼女の中に残る女としてのプライドがこの凄惨な姿を嫌悪し、何よりもまず湯浴みをと急いで湯殿へ向かった。
「流石にこれは酷すぎる……」
湯浴みを済ませた香織は、離れにある質素な部屋へ戻り、倒れるように粗末な布団の上に横たわった。布団に身を沈めると、初陣の緊張が一気にほぐれ、戦場での出来事が鮮明に蘇る。初めての戦いで、生と死の間で戦った恐怖が全身を包み込み、震えが止まらなかった。手には、初めて人を斬った感触が未だに残り、その記憶が彼女の心を揺さぶる。
しかし、そんな余韻に浸る間もなく、頼朝からの呼び出しが彼女を待っていた。
香織の功績は当然のように頼朝の耳にも届いており、彼女は休む間もなく戦果の報告と今後の指示を受けることとなった。
「一ノ瀬香織、賊討伐の任大義であった。そなたの武功、見事である」
頼朝は香織からの報告を聞き、満足げに頷いた。その戦法は頼朝が最も好むものであり、香織が戦で放った言葉や行動は頼朝の心を掴んでいた。武士として曲がることのない芯の強さと、その体に刻まれた剣術の腕前。そして、その精神の高潔さに、頼朝の心は動かされていたのだ。
「一ノ瀬よ、そなたの働きを高く評価する。今日から我が源家の家臣として仕えよ」
香織は、頼朝のその言葉に驚きを隠せなかった。まさか、自分のような小娘があの源頼朝の家臣に取り立てられるなど、夢にも思わなかった。
だが、頼朝の目に宿る力強さが、その選択が間違っていないと物語っていた。
「ありがたき幸せにございます」
香織は床に額をつけ平伏する。その姿は、頼朝に対する絶対的な忠誠と決意を示していた。
頼朝の視線が香織の背中に注がれる中、彼の顔には満足の表情が浮かんでいた。
「褒美を取らす。そして、我が家臣として恥じぬ地位と生活を一ノ瀬に約束しよう。生涯、我に仕えよ、一ノ瀬香織」
その言葉に香織は一度顔を上げ、覚悟の眼差しを頼朝に向けると、再び深く平伏した。その瞬間、彼女は名実共に源頼朝に仕える御家人として、高い地位を持つ存在となった。
◇
二日後、香織に屋敷と家紋が授けられ、御家人として鎌倉に屋敷を構えることとなった。頼朝は香織を呼び出し、正式にその発表を家臣たちの前で行った。
「一ノ瀬香織、そなたの功績を称え、屋敷と家紋を授けることにする。これからは我が幕府の重要な戦力として、その力を存分に振るうのだ」
香織は、頼朝の言葉に深々と頭を下げた。
「は、ありがとうございます! この身は武士として頼朝様に忠誠を誓い全力でお仕えいたします!」
香織の言葉に頼朝は満足げに頷き、家紋が描かれた旗を手渡した。旗に描かれた家紋は、剣道を象徴する竹刀と、一ノ瀬家の名にちなむ瀬を渡る橋のデザインが組み合わされている。竹刀が交差し、その中央に橋が描かれたその図案は、強さと伝統を象徴していた。
「この家紋に恥じぬよう、精進いたします」
香織は改めて、自分の仕える主人となる男に決意を表明した。その真剣な眼差しに頼朝も思わず目を細め、ゆっくりと頷く。
◇
屋敷が準備されるまでの間、香織は城内に専用の部屋を与えられ住み込むこととなった。城では他の武士たちとの稽古が日常となり、彼女は一層の精進を重ねた。
そんなある日、香織は年下の武士たちと剣を交える訓練に参加した。彼らは香織の実力を試すため、全力で立ち向かってくる。香織もまた、一歩も引かずに戦った。
「手加減無用! 全力でぶつかって来て下さい!」
彼女は木刀を振り下ろし、相手の攻撃を巧みにかわしながら、的確に反撃を繰り出した。剣道の技術と戦での実践を踏まえ、彼女は次々と相手を打ち負かしていく。その圧倒的な強さは、他の武士たちにも大きな影響を与えていく。香織の剣術に対する真摯な態度や姿勢に感化され、彼らはより真剣に鍛錬に励むようになっていた。
「一ノ瀬殿、見事な腕前にございます」
「こちらこそ、貴殿と剣を交えることができて光栄に思います。勉強にさせていただきました」
香織は相手と礼を交わし、敬意を払う。その清々しい態度に周囲からも次第に称賛の声が上がり始める。
それは、武士や他の家人にとどまらず、立派な武士になろうと志し稽古に励む若い子供達も同様だった。香織は彼らにせがまれ、毎日剣の稽古を行うようになっていた。
「もっとしっかり踏み込んで。剣がぶれることを恥じる必要はない。でも、その剣に込めた思いだけは忘れずに」
香織は子供達に剣技だけでなく、心構えや精神性も教え込んだ。それは、彼女が現代で剣道を学ぶ中で培った経験だった。彼女は子供達に剣術を教える傍らで、自らも稽古を続けた。毎日が大好きな剣道の稽古に明け暮れていた彼女にとって、それは至福の時間だった。
◇
やがて、香織に与えられる屋敷の準備が整ったとの知らせが届く。彼女は城から移り住むことになり、新たな生活が始まろうとしていた。
一日の鍛錬を終え、香織は疲れ切った体を引きずりながら、新居となる屋敷に向かった。そこには、頼朝から授かった家紋が掲げられた立派な門構えの屋敷が建っていた。
(でかい……)
彼女は自分の新しい居場所に胸を躍らせながら、屋敷の中へと足を踏み入れる。
玄関には、香織の家人となる大勢の武士や使用人たちが床に頭を擦り付けんばかりにして、彼女の到着を待っていた。それは、彼女が頼朝直属の家人となった証であり、その地位の高さを示す光景だった。
「「お勤めご苦労様でございます」」
香織は家人たちが自分に対する畏敬の念を感じ取り、胸が熱くなるのを抑えきれなかった。彼女はその期待に応えるべく口を開いた。
「一ノ瀬香織です……これからよろしくお願いします」
緊張と恥ずかしさで顔を赤らめつつ、香織は彼らに向かって頭を下げた。その光景を見た家人達は、一斉にぎょっと目を見開き、頭を床にこすりつけるようにして頭を下げる。香織は気まずさを感じながらも、玄関先に腰を降ろし草履を脱ごうと腰をかがめた……その瞬間、女房と思われる使用人が慌てて声を上げた。
「御館様、そのようなことは私どもがいたします!」
「えっ、あ、はい……って、御館様!?」
香織は一瞬驚き、そして戸惑った。自分が絶対的な主君として扱われていることに気づき、照れくささを感じた。香織は少し顔を赤らめながら、彼女の手際の良さに目を向ける。
女房が急いで香織の足元に膝をつくと、優しく草履を取り外していく。彼女の手つきは慣れており、迅速かつ丁寧だった。
「お疲れ様でございます、御館様。足をお清めいたしましょうか?」
「あ、足を? そんなことまで……」
彼女はすでに用意していた桶を持ち出し、温かい湯を満たして香織の前に差し出した。香織が少し戸惑いながらも桶に足を入れようとすると、女房はすかさずそれを優しく支えた。そして、丁寧な手つきで香織の足を洗い始める。その仕草があまりにも自然だったので、香織はされるがままに身を委ねてしまった。
「とても気持ちいいです。ありがとうございます」
「勿体無いお言葉でございます。こちらこそ光栄の至りです」
女房は笑顔でそう答え、香織の足を丁寧に拭うと再び深々と頭を垂れた。
「香織殿、お部屋の準備も整っておりますので、ごゆっくりお休みください」
家臣の一人がそう告げると、香織はようやく家の中へと上がり込んだ。彼女の前を筆頭の家臣が先導し、その後ろにもぞろぞろと使用人たちが付き従うように列をなし、香織の後を追っていく。
(なんか、凄い大ごとになっちゃった……)
香織は心の中でそう呟き、これからの生活に思いを馳せるのだった。