第12話 巻狩り
巻狩りの日がやってきた。
狩場には多くの狩猟に挑む者たちが集まり、華やかな鎧や直垂姿で威厳を示している。彼らは、それぞれ己の力を誇示するため、多くの家臣を引き連れながら、華麗な装束と武具を見せびらかしていた。その中でも、香織の姿は次元の違う異彩を放ち、他の者達の視線を釘付けにしていた。
「見ろ、あれが武神将軍、一ノ瀬香織か……」
「なんという威容、まるで鬼神の如し……」
彼女の大鎧は、豪華絢爛な装飾が施され、他の誰よりも美しく、他の者達が霞んでしまうほどに光り輝いている。その圧倒的な存在感と、堂々たる佇まいは、武神将軍として名に恥じぬ威容。お付きの家臣たちもまた、香織の存在感を引き立てるように動き、武神将軍の威光に華を添えている。
そんな周囲の態度に、景時は満足げな表情を浮かべ、周囲に聞こえぬよう小声で香織に声をかけた。
「香織殿、この巻狩りでその存在を強く印象付けてください」
「分かっておる」
香織は、景時からいつも以上に武神将軍として、その存在を周囲に刻み込むように言われていた。自分が他の者達とは次元の違う存在である事を、知らしめるために……。しかし、香織にとって、それはあまりにも屈辱的なことであった。いくら女を捨てると決意したとはいえ、微かに残る女子高生としてのプライドと恥ずかしさが、香織の表情を曇らせる。
「香織殿……いえ、武神将軍殿。どうか、彼らに真の姿をお示しくださいませ。いつもの様に、我々にお見せ頂いている通りにすればよろしいかと」
「簡単に言ってくれる……。お前達に見せるのと、他の者達に見せるのでは勝手が違うのだ。まぁ良い、見せつけてやろうぞ!」
景時の言葉に香織は一瞬戸惑ったが、すぐに決意を固める。香織は身に纏っていた鎧を手慣れた手つきで外し、直垂姿へと変わった。そして、肩から直垂を脱ぎ、上半身をはだけさせると、鍛え上げられた筋肉が厳つく盛り上がった体を露わにする。事前に全身に白粉を塗り、隈取を施してあるその姿を見た周りの者は皆、恐れおののき、顔を引きつらせながら後退った。
「な、なんだあれは……」
「もはや人にあらず……鬼だ……」
香織の背中には、まさに鬼の形相が浮かび上がり、その異様な光景に周囲の者は恐怖で震え上がった。晒された体は誰も香織が女であると思わないどころか、隈取のせいで人かどうかすらも怪しく思えるほどであった。胸に巻かれた晒代わりの布は、その膨らみを隠すために着用しているのだが、傷を隠すためだの、もはや男や女という区別すら持たない超越した存在だなど、あらぬ噂が立っている。
その陰口を聞き、香織の体に自然と力がこもる。彼女の背中が更に盛り上がり、筋肉が隆起する。血管に沿って施された赤い隈取のラインが浮き出て、脈打つように現れる。そして、鬼のような形相で、噂を立てている者達をギロリと睨み付けた。
「貴様ら、この姿を目に焼き付けよ。我が名は一ノ瀬香織、武神将軍なり。ここに立つは真の武神。抗う者はその命、容赦なく刈り取られることを覚悟せよ」
周囲の者達は息を呑み、その場に立ち尽くした。誰もが目を見開き、恐怖と驚愕の表情を浮かべている。
「香織殿、まさに武神将軍に相応しい出で立ちにございます。皆、畏怖の念に震え、その威容に平伏せざるを得ません」
「……。そうか」
女として見られないほど変わり果てた自身の姿に、香織は少し複雑な気持ちを抱いていた。しかし、その動揺を周囲に悟られてはいけないと、必死に平静を装う。
子供達が泣き出し、女達が腰を抜かす光景を目にし、微かに残る乙女の心が、涙を流さずにはいられないほど傷付いた……。
その時、頼朝が巻狩りの会場に現れ、騎馬武者たちの間に静かな緊張が走る。彼の姿が見えると、参加者達は次々に動きを止め、頼朝の言葉を待つために静まり返った。
頼朝はゆっくりと場内を見渡し、その視線が巻狩りの準備が整っていることを確認する。そして、彼の視線が香織に届くと、その異彩を放つ姿に微かに笑みを浮かべた。
香織は頼朝からの視線に気付き、軽く頭を垂れる。
「巻狩りを始める!皆の者、準備は良いか!」
その声が響き渡ると、参加者達が一斉に威勢よく声を上げた。その勢いに、頼朝は満足そうな表情を浮かべ、巻狩りの開始を高らかに宣言した。
「出陣じゃぁ!」
直後、騎馬武者達が一斉に駆け出していった。一万にも達するその軍勢が、一斉に駆け出す様は、まさに壮観。まるで戦の如く一糸乱れぬ隊列を組み、大地を揺るがす勢いで進軍していく。
香織もその中に紛れ、景時や家臣たちと共に先頭を切って駆け出した。彼女の心には、頼朝から託された武神将軍としての誇りに交じって、多少の不安が渦巻いていた。
◇
森の中を馬で走る中、香織の意識は自然と頼朝の方へ向けられる。しかし、その様子を見た景時は、香織に向かって冷静に進言した。
「香織殿、狩りに集中を」
「分かっておる」
香織は短く答えたが、心の中では不安が消えることはなかった。しかし、彼女は意を決して頼朝から少し距離を置き、巻狩りに集中することにした──。
◇
巻狩りが始まる直前、香織は頼朝の護衛として付き従うと申し出たが、頼朝は、それを断った。奇襲による暗殺の恐れが残っている中で、香織や景時が何度も食い下がるも、頼朝は首を縦には振らなかった。
「我は絶対に死ぬことはない」
「しかし頼朝様……」
頼朝は馬に跨がり、兜の緒を締める。そして、馬上から香織を見つめ、歌を詠んだ。
「天の川の流れ変わらず、命の灯は揺るがぬ定め」
香織はその歌の意味が理解できず、困惑の表情を浮かべる。
一方、景時も困惑の表情を浮かべるも、それは香織の困惑した理由と違い、何かを察したようなものだった。
「頼朝様、そのようなお言葉は……」
「景時、我が信じる運命は変わらぬ。我が命、ここで尽きることはない」
頼朝は微笑みながら、そう言い切ると香織に向き直り、言葉を続けた。その顔は、普段あまり見せない優しい表情だった。
「一ノ瀬香織!武神将軍の名を汚すことのなきよう、しっかりと務めよ!」
その言葉に、香織は我に返り深々と平伏した。それは、先程までとは違い、いつも通りの威厳ある頼朝の姿だった。
「はい、頼朝様!」
◇
香織は頼朝とのやり取りを思い出し、その約束を果たすために再び気持ちを引き締めた。
(今は狩りのことに集中だ。それが頼朝様との約束!)
香織は深呼吸をし、自分の心を落ち着けた。頼朝の期待に応えるために、そして自分自身の誇りを守るために、全てをかけて巻狩りに臨むことを決意する。目の前の景色が一気に鮮明になり、周囲の音がクリアに耳に入ってくる。
「さあ、行くぞ」
香織は自分に言い聞かせるように呟き、馬を進めた。頼朝の言葉が脳裏に蘇り、その言葉が彼女の背中を押す。巻狩りの役割を全うすることが、今の自分に求められていることだと理解した。
(私は武神将軍一ノ瀬香織。頼朝様の信頼を裏切ることはない)
彼女は鋭い目つきで周囲を見回し、狩りの対象に意識を集中させた。決意が新たに固まり、心の中で熱い炎が燃え上がる。香織は次々と矢を放ち、次の獲物を狙った。
しかし、弓の腕前には自信がない彼女にとって、狩りの成功は容易ではなかった。幾度か矢を放つも、狙いが定まらず、獲物を逃してしまう。香織は悔しさを感じながら視線を巡らせ、そこで景時の引き攣ったような表情を見つけた。
「香織殿、弓の代わりに囲い込み役を務めては如何でしょうか?」
「そ、そうであるな……」
香織は景時の提案を受け入れ、弓を放つ役から囲い込み役へと変更することにした。彼女はその得意とする剣術を活かし、獲物を追い詰めていくことに集中した。刀を手に持ち、鋭い動きで周囲の草むらを駆け抜ける。敵を追い詰めるその姿は、まるで戦場にいるかのようであった。
「回り込め!囲い込め!」
景時の指示で、家臣たちは一斉に動き出し、獲物を追い詰めていく。香織もその動きに合わせ、周囲を見回しながら逃げ道を塞いでいく。人とは異なり行動パターンを読むのが難しい獣を相手に、その包囲網の構築は時間との勝負だった。
(これは鍛えられる……)
香織は、巻狩りの真の目的が、単なる獣狩りではないと、この時確信した。
◇
日没間際、狩り終了の合図が鳴り響いた。香織たちは何とかメンツを保てるギリギリの成果を挙げ、ホッと胸を撫で下ろしていた。
「皆の者、ご苦労であった」
頼朝が参加者達を前に労いの言葉をかけると、無事に巻狩りは終了した。それぞれが、獲物を抱えて屋敷へと帰って行く。香織達も、家臣らを引き連れ戻ろうとした、その時。
「武神将軍一ノ瀬殿、頼朝様がお呼びでございます」
馬上の香織の元に、頼朝の側近がやってきて告げた。香織は、頼朝から何か用向きがあるのだろうと察し、家臣らを先に屋敷へ戻すと、馬を走らせ指定された場所へと向かう。小高い丘の上、そこに頼朝は佇んでいた。香織は馬から降り、周囲を警戒しながら頼朝の元へと歩み寄る。その姿を見た頼朝は、彼女の心労を察して優しく声をかけた。
「すまんな、終わって早々呼び出して」
「滅相もございません」
香織は頼朝に一礼し、跪いた。
「ここには二人意外に誰も居ない。楽にしろ」
「はっ」
頼朝の口調は、まるで友人と会話しているかのように穏やかだった。いつものような、周囲を寄せ付けない雰囲気は微塵も感じられない。
香織は立ち上がり、頼朝の一歩後ろまで歩み寄ると、その後ろ姿を真っ直ぐに見つめた。
「そなた達の成果、見事であった。だが、お前はもっと弓の腕を上げる必要があるぞ。なんだ、あの様は」
前言撤回。やはりお叱りだった。香織は狩りでの出来事を思い出し、気まずそうに顔を伏せる。
「全てご存じで……精進いたします、頼朝様」
「できぬ約束はする物ではないぞ? お前はいつになっても弓は上達しないと、私は知っているのだ」
香織が顔を上げると、そこには悪戯な笑みを浮かべる頼朝の姿があった。その表情は、まるで子供のようだった。香織は、そんな頼朝の表情に少し驚きながらも、緊張を解いて良いのか分からず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
頼朝は、背中から矢を一本抜くと弓に番え、矢を遠くに向けて放った。その矢は、空高く舞い上がり、やがて重力に従って地面へと落ちていく。
「我は一ノ瀬ほど剣術の才には恵まれなかった。弓も人並みに使える程度だ。だから、我はお前に勝つために頭脳を鍛えたのだ」
「頼朝様?」
香織には、頼朝が何を言いたいのか分からず、心の中でその意図を必死に探ろうとした。しかし、全く分からない。頼朝は、矢が落ちた森の方を見つめ、遠い目をしながら話を続けた。
「お前は変わらないな」
「だいぶ変わったつもりでございますが……」
本当に頼朝が何を言っているのか分からない。香織は、頼朝と初めて会った時と比べ、体も心も別物になったと思っていた。人の命さえ奪うことを躊躇わなくなったし、もはや女子高生としての姿形も残っていない。だが、頼朝は首を横に振る。
「いいや、何も変わらない。我が初めて会ったお前と……同じだ」
頼朝の言葉には、どこか切なさと寂しさが含まれていた。彼の目には、香織の存在が特別な意味を持つことを物語っている。その視線の奥には、かつての記憶と現在の出来事が交錯し、深い感慨が漂っていた。香織は、頼朝の口調と表情から、何か重大な秘密があることを感じ取ったが、その詳細までは掴めなかった。
頼朝はそんな香織の表情を見て微笑んで頷いたが、次の言葉は予想外だった。
「お前に二度命を救われた。これで終わりだ。三度目はない」
その言葉に、香織は一瞬言葉を失った。彼女の中で何かが動き始め、過去の出来事が次々と浮かんできた。頼朝が言う「二度」とは?
以前も感じた違和感が、再び湧き上がる。
「頼朝様、失礼ながら一度目というのは……」
香織は恐る恐る問いかけた。すると、頼朝は遠くを見つめ、静かに答えた。
「昔のことだ」
頼朝の答えに、香織はそれ以上何も聞けなかった。その言葉の背後には、香織には知らない何か大きな秘密が隠されている。そう確信したが、家臣であろうと踏み込んではならぬ領域のような気もした。
しばしの沈黙の後、頼朝は再び彼女に向き直り、真剣な表情で香織の瞳を真っ直ぐ見つめた。そして、いつもの頼朝らしい威厳に満ちた声で告げた。
「次の征夷大将軍はお前だ、一ノ瀬香織」
香織はその言葉に驚き、大きく目を瞠った。