1・出逢い
まるで、猛る焔が夜空に戦いを挑んでいるようだと思った。
ケンタウロスの怒気から生まれた炎の連鎖が、豊穣と生命の営みを慈しんでいた山の木々を覆いつくしてゆく。
パチパチと爆ぜる植物たちの悲鳴の隙間から、鳥も獣も昆虫たちもすでに戦場と化したこの場所から生き延びるために逃亡を図っていた。
焼け焦げた空気が充満し、炎に巻かれて絶えた命の残骸が散乱した森の中で、宿敵サテュロスが逃げて行く後姿を視界に認めることが出来たのは、月が真上に届いた頃だった。
「やーった!逃げていくぜ、あいつ等!」
「どうする、エテルヴィヒ、どこまで追う?」
「エテルヴィヒ、若村の長!この際、徹底的にやるか?」
浮足立つように飛び交う声に、エテルヴィヒは冷静に言葉を返した。
「深追いの必要はないよ。奴らの住処の半分は消失しているからこれで当分こちらに手を出してはこないだろう」
「ちぇー、なんだ、やらないのか?」
「俺ならまだいけるぜ?」
まるで戦いを楽しんでいるかのような言葉を吐き出す若いケンタウロス達は、長の息子でもあり若村の長となった立派な体躯のエテルヴィヒの背中に挨拶を叩き込みながら、似たような言葉を次々と投げかける。
そのたびにエテルヴィヒは彼らを諫める言葉を口にした。
「やったなエテルヴィヒ」
「長になっての初谷線、初指揮での見事勝利!」
「なぁ、エテルヴィヒ。このまま奴らを追い詰めようぜ?」
「その必要はないって言っただろ。それより火を消して村に帰るんだ」
「えー、なんだよぉ。今ならもっと徹底的にやっつけられるのに!」
「お前は怪我をしているだろう。早く帰れ!」
武器として与えられた弓矢や槍や剣、こん棒などを振り回しながらまるで祭りを楽しむかのように笑顔を振りまく仲間たちに村へ帰れと言い含めると、彼らはさほどの文句も言わずに素直にエテルヴィヒの指示に従った。
変わり果てた森の景色に胸を痛めているのは自分だけのように思えた。
・・・バカみたいだ。
自身をなじるようにエテルヴィヒは心の中でそうつぶやいた。
その昔、戦争で住処を追われ流れ着いたこの森で、ケンタウロスがようやく腰を落ち着けたのは自分が生まれる以前の遥か昔のこと。
その森にはすでに先住者がいて、こうしてたびたび衝突しあっていた。
同じ半人半獣の身でありながら、自然の精霊として深くこの地に根付いていた二腕二脚のサテュロスは、流れ着いて生を営み始めた二腕四脚のケンタウロスのことを決して快くは思わず受け入れることを拒否したのだ。
互いの主張を誇示し、激しく牙を剥くように衝突しあっては森に甚大な被害を与える二種族の諍いは、皮肉なことに勝利を収めるのはいつもケンタウロスのほうで、それがより一層二つの種族の仲を引き裂いていた。
「エテルヴィヒ、どこまで攻めるんだ?」
「終わったよ。火を消して村に帰るんだ。治療をしろよ?」
「長の息子、夜通し戦うか?」
「必要ないです、敵は撤収しました。深追いせず帰って休んでください」
猛る焔が緑を焼き払い、燻ぶった煙が新鮮な空気を薙ぐ森で、仲間たちに村へ帰れと言い含めながらエテルヴィヒは胸を痛め続けた。
戦をするたびに
仲間たちが体に傷をつくるたびに
森が消失し、動植物たちが無為に傷つくたびに
バカみたいだと、いつも思っていた。
ケンタウロスの長の息子として、やるべきことはやる。そう決めていた。
仲間を守るために剣の腕を磨き
槍を扱うための技術を磨き
こん棒を振り回すための腕力を身に着け
的を射るための弓の精度を高めた。
戦術を組み立て、戦禍を予測し、最低限の被害に食い止めて勝利を収める。
常に自分を磨き続け、長の息子として、若村の長として今日、きちんとその役目を果たした。
けれど心には冷たい風が吹いているのを感じていた。
誰よりも早く野山を駆けることが出来ても、それにどれほどの価値があるというのか。
たなびく金の髪。
大きな体。
類稀なる美貌を男が持ち得たところで、それにどれほどの価値があるというのか。
エテルヴィヒには、全く判らなかった。
もともとケンタウロスは血の気が多く、好色で酒好きな種族だと言われていた。
事実、目上の者たちを見ればそれが嘘ではないことは物心がついた時から分かっていた。
火の眷属としての鉄火な性質を持ち、神の御使いとして大地を納めるケンタウロスの多くは戦を好む。
後先考えずに突っ走るところがあり、それで命を落とす者も決して少なくはなかった。
だがエテルヴィヒは、いつもこの枠から外れている自分を自覚していた。
見目こそケンタウロスに相違ないものの、性格も、考え方も、怒りを感じる箇所でさえ仲間との差異を感じていた。
火の眷属に属しながら、いつもどこか冷めた目で戦場を眺めていた。
流されるように生き、頓着を持ち得ない。
それが自分のスタンスだと、周りを納得させるように自分にも言い聞かせていた。
けれど、ふと思う。
森が泣き叫ぶたびに
動物たちが逃げて行くのを見るたびに
自分たちの無意義な戦いで
罪もない命が損なわれると胸が軋む。
自分たちの主張をゴリ押しにして、決して相手の意思に耳を貸さない二つの種族の戦いのどこに本義を見出せばいいと言うのか。
エテルヴィヒの心にはいつも嵐に似た迷いがあった。
「エテルヴィヒ、どこに行くんだ?」
「ウェルテクス」
「今日はもう終わったんだろ?お前はまだ村に帰らないのか」
「ああ、ごめん。もう少し見回りをしてから村に帰る。先に帰っていてくれ」
「そっか。じゃあその武器、お前の大剣は持って行ってやるよ」
「ああ、ありがとう。頼む」
夕刻から始まった戦・・・と呼ぶにはあまりにも一方的な戦いは、たったの5時間で幕を閉じた。
自然の精霊であるサテュロスは森が損なわれると行き場を失いその数を減らす。
仕掛けてくるのは大抵あちらからなのだが、結局は火の眷属であるケンタウロスの感情が昂るだけで空気を揺るがす炎が生まれ、森を焼き尽くして決着をする。
不毛な戦いだと思うのにそれでもきっと向こうにも言い分はあり、また争う意味もあるのだろう。
エテルヴィヒは苦々しく眉をひそめた。
・・・・一人になりたい・・・・。
そう思うことが増えていた。
仲間との会話も、ケンタウロスとしての生活も不満があるわけではないのに、二十歳を迎えて親の庇護から放たれたことで、一つだけ厄介なことが付きまとうようになっていた。それが原因でもあった。
天に近い山を下り、森の中をひたすら駆け抜ける。
何度も何度も誰にも内緒でこれを繰り返していたエテルヴィヒは、次第にその行動範囲を拡げていた。
木々に隠されるように一人きりになれるこの時が唯一自分でいられる時間。
何の気負いもなく息をつける時間を自然と欲するようになっていた。
いつの間にか生木が焼けた匂いが消えて、清浄な空気があたりを包んでいる木立の中で、エテルヴィヒはふと足を止める。
普段なら寄り付かない水辺に来ていたことに気付き、誘われるようにゆっくりと歩みを進めながら深く息を吐いた。
これは水の音。川じゃなくて・・・湖?
開けた視界に突然飛び込んできたその光景に、エテルヴィヒは瞬間、息を飲んだ。
初めて訪れた湖はとても穏やかで美しく見えた。
見渡せる水面は驚くほどの広さもなかったが、周囲を取り巻く大地にはそれを守るように木々や草花が生い茂り、まるで己の姿を覗き込もうとでもしているのか湖面へとせり出し水面にくっきりと映し出された自然の様が息を飲むほど秀麗に映えている。
奥まった視界の右側から川が流れ込むことで、この景色が決して美しい風景画ではないことを教えていて、同様に視界の左側には流れ込む水を受け流す細い流れがさらに下流へと向かう川を作っていた。
天空をそのまま映し出す自然が作り上げる水面は、静かに揺らめきながらそれでも鏡面のように夜空の月を浮かべている。
風が湖面を渡り、時折水面の景色を書き換えるようにさざ波を立てては、小さく水がはじける音が心地好くあたりに鳴り響いていた。
満ちる空気の清冷さに、心が洗われ凪いで行くのが判る。
エテルヴィヒは思わず口元を緩め、目を細めて景色に見入った。
一歩、また一歩と湖に近づいては幻想的な美しさに視線を奪われる。
やがて水面を揺らしているのが風だけではないことに気付き、意識をそちらに向けたとき。
まるで湖に近づけまいとでもするように自分を押し返す強い風に思わずエテルヴィヒが目を閉じると、湖はタイミングを計ったように呼吸を止めてシンと静まり返った。
・・・気のせい?
耳をそばだて、目を見開き注意深くあたりを伺うが変化はない。
水面がわずかにせり上がりを見せ、何かが上がってくる気配がしたと思ったのに、風が吹いたその瞬間にそれが掻き消えた気がしていた。
このとき
もし不穏な空気がこの地を覆っていたのなら、身の危険を察して踵を返したのかもしれない。
流れて生きることをただ受け入れ、きっとどこか煮え切らない思いを抱えながらも自分はケンタウロスの長の息子として、その生を全うしたのだろうと思う。
けれど、一人になりたくて訪れた初めての場所で目的通り一人きりになれた。
凛と佇む静謐な湖
清静と凪いだ空気
閑静に包まれたこの森林の水辺は憩いの場以外の何物にも見えなかった。
エテルヴィヒは瞼を閉じてから二、三度頭を振ると、ふっと息を吐いてから四つ脚を折り畳んで水辺を覗き込んだ。
そのときだった。
「・・・痛そう・・」
耳に届いた声に驚いてエテルヴィヒが顔を上げると、小さく言葉を発した声の主が少し離れた水の中から優しい瞳で自分を見つめていたことにやっと気づいた。
視線が絡んだ瞬間、思わず驚いた声を発したのは、視界に認められる透明度の高い湖水の中に、月に輝く魚の鱗が優雅に水を搔いているのが見えたからだった。
「・・・・え?」
―――――――人、魚・・・?
この出会いが、二人の運命を大きく変えた。