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第六話 呪われた血と市場と

 重だるい身体を気合いで起こし、コーラルは広いベッドを見遣る。しゅるりとシーツを撫でれば、やはりそこはひんやりと冷たくて。


()()()()()も、終わり)


 冷たいシーツを撫でた手で、そのまま自らの薄い下腹を撫でてみる。

 ここに、ジェイド様の子が宿ったなら。もしくは──宿らなかったなら。


 暗くなりかけた心にそっと蓋をして、コーラルは立ち上がる。こういう時は、仕事をするに限るのだ。余計なことを考えすぎると碌なことがない。身支度を手早く済ませると、用意されていた朝食をひとりで食べる。ふわふわで柔らかいパンと、甘くてみずみずしいフルーツに心が少しずつ解れていく。水差しにはレモンと少しのハーブが入れられており、爽やかな香りにほうっと息をついた。窓辺では昨日と違う花が風にそよりと揺れている。イルダが飾ってくれたのだろうか、その気遣いに胸がほんのりと温かくなった。


 まだまだやりたいことは沢山ある。本当は竜舎も見に行ってみたいのだけれど、竜は気難しくて、自らが認めた者しか近付けないらしい。いつか機会があれば──。そのための時間は、まだまだこの先長いはずなのだ。


「まずは、市場かしら」


 その街を知るには市場が最も適しているという。品揃えからも、値段からも、活気からも読み取れるものがあるからだ。コーラルは知らず、口元に笑みを浮かべた。きっと自分にも、できることがまだあるはず。──自分だけでも、そう信じていてあげたい。


 湯浴みをしてさっぱりしたら、用意してもらっていた平民風の服に自分で着替えた。結局のところ、コーラルに専用の侍女は付いていない。必要な時にはイルダに頼めばなんとかなるし、ここは見栄とはったりが必要な王都ではないのだから。

 今日は市場が目的地だから、少し質の良いものを選んで、気分は商家のお嬢さんだ。チェックのスカートはドレスより少し丈が短くて足首が覗く。薄手の白いシャツにシンプルな茶色のベスト。靴はどうしようか……きっと歩くことになるから、編み上げのブーツがいいかもしれない。組み合わせを自分で考えるのも楽しい。こういう楽しみも、ここにきて初めて知ったことのひとつだ。

 どこに出かけるのも、ジェイドは自由にさせてくれる。護衛だけはつける約束だけれど、世界がこんなに広いことを、あの町にいたコーラルは知らなかった。書類の中だけにあった世界は、自分の目で見てみれば、こんなに鮮やかに色付いていたのだ。それを知ることが出来ただけでも、ジェイドが私を買ってくれたことには感謝しかない。冷たいシーツに落ち込んだ気持ちも、すっかり忘れられるというものだ。



 その頃ジェイドは、得体の知れない苛立ちに襲われていた。

 金で買うようにして娶った自らの妻。青白く、栄養の足りていないカサついた肌は潤い、パサついた髪も今や赤珊瑚のように艶々と輝き、美しさが日々眩しく花開いていく。

 竜騎士であるジェイドが忙しいのは事実だ。自室に帰るのも、ほぼこの月に1度の務めだけ。コーラルが毎日真摯に領地経営の仕事をこなし、空いた時間には街へおりたり、また騎士団棟に顔を出したりしていることも把握している。楽しそうに笑うその顔を遠くから眺めては、手の届かない距離に心がちくりと痛むのだ。


(もう彼女は私の妻だというのに)


 これ以上何を手に入れようというのだろうか。自らの強欲さにため息が出る。


 今日は彼女は早朝から市場に出かけたようだ。昨晩、ベッドに広がった彼女の赤い髪の毛を思い出す。飢えた獣のように、いつだってジェイドは腹ぺこだ。食べたい、もっと食べたい。あの藤紫の、飴玉のように綺麗な瞳を舐めたい。骨までしゃぶりたい。

 もしも、自分達が普通に夜会か何かで出会っていたら。学園で、友人の紹介で、もしくは2人が幼馴染だったなら。けれど、ジェイドはコーラルを金で買った。条件が良かったからだ。簡素な旅装のまま執務室に現れたコーラルは美しかった。髪はパサつき、青白い肌に少し痩けたその姿でさえも。不安だったろうに、真っ直ぐに背筋を伸ばして立っていた。自分よりも10も若い、まだ少女とも言えるような彼女をみて、ジェイドは雷に打たれたような気持ちだった。この顔の醜い傷を見て、誰もが気まずげに、顔を顰めて目を背ける。汚いものを見せるなと。野蛮な戦争の臭いなど感じさせるな、と。それなのに、コーラルはあの藤紫の知性溢れる瞳で真っ直ぐにジェイドを見つめ、微笑みさえ浮かべ、何の躊躇いもなく婚姻届にサインを書いた。もちろんあの時点で断ることなど不可能だった。貴族の世界で政略結婚など当たり前のことだ。彼女の両親もそうであったようだし、母親の方などは事故で亡くなった際には愛人と一緒だったのだという。コーラルが急に結婚相手を探すことになったのも、父親が愛人を孕ませて弟が産まれたからだ。後妻になった女は短い間だがコーラルにきつくあたっていたようだ。彼女の気持ちを考えると自分のことよりずっと胸が痛む。けれど、そのおかげで彼女が自分の元に来たのだと思うと、仄暗い喜びさえ浮かぶ始末。


(俺にも()()()()()が流れているということか)


 流石に血を入れ替えるわけにもいかないのだ。毎日顔を合わせれば、きっと自分は我慢できなくなるだろう。せめて彼女を自由にさせてあげたい──だから、ジェイドは獣の本性をひた隠す。



 今日の護衛はフィリベルトだ。コーラルがアルベルティに来て、初めて歓迎してくれた人。


「早くから付き合わせて悪いわね」

「いえっ! 奥様の付き添いは楽しいし、厳しい訓練を休めるし、眼福だし、大歓迎ですっ! 苦労して勝ち取ったんですから!」

「……? まあ、あの、訓練は身を守るためだから、普段はしっかり努めてね?」

「はっ!」


 何人かコーラルに付いてくれる護衛の騎士がいるが、フィリベルトは特によく喋る。本来は黙って周囲を警戒するものなのだろうが、あまりに物々しいのも目立ってしまうので、コーラルとしてはこのくらいの方がありがたいくらいだ。

 お調子者なところもあるが、この街出身ともあって細かいところにも詳しいし、実は騎士としてもかなり優秀なのだそうだ。実際お喋りなんかしていたら気が散りそうなものだけれど、目線はしっかり行き届いているし、危険を感じたことはない。

 ジェイドに憧れて騎士団に入ったという彼はとりわけ忠誠心が厚く、コーラルの知らないジェイドの話を色々と教えてくれる。そのどれもが領主として、また騎士として素晴らしいエピソードで、コーラルは尊敬を新たにしつつもチクリと胸が痛むのを感じていた。この痛みは何なのだろうか。健康な身体でしか、受けたご恩は返せないというのに。


「やっぱり市場は朝が華ですからね! ちょっとガヤガヤしていますけれど、きっと楽しめますよー」

「そうね。楽しみだわ」


 フィリベルトの言葉に、俯きかけた顔を持ち上げる。小さな鞄は斜めに掛けられるようにして、身体の前に置いておく。フィリベルトは両手を空けておかないと護衛にならないので、荷物を持たせるわけにはいかないのだ。市場の通りは人が多くて、物も雑多に積まれている。コーラルは瞳を輝かせてあちらこちらを見回しながら歩いた。


「今年の芋は出来がいいよ!」

「ああ、確かにこれは良い。1箱貰おう」

「2つ買って頂いたらこっちもオマケに付けるよ!」

「これはやられたな。分かった、乗ろう」

「まいど!!」


「今年の収穫はこれが最後だ! 食べ納めにいかがですか!」

「3番採れはあまり味が良くないだろう?」

「いえいえお客さん、サイズが小さいだけで味はぎゅーっと詰まってますから。調理法を変えれば十分味は満足いただけますよ!」

「なるほどなぁ」


 あちらこちらで呼び込みの声が響き、取引が行われている。コーラルが生まれ育ったバレストラ領とは馬車で3週間の距離ともあって、育つ野菜もかなり違う。特にこのアルベルティは隣国と接していることもあるし、北寄りで冬は寒さが厳しい。味付けもそうだが、食文化も独自の文化が育っているのだ。

 コーラルは12歳の頃から領地経営の仕事を手伝っており、その中には交易や他領とのやりとりなども含まれていた。名産品などの知識はある程度持っていたつもりだが、書類をいくら眺めても味は分からないし、匂いだってしないのだ。


「あれは何かしら?」


 見たこともない実が気になった。手のひら大で濃い青色をしていて、皮はザラザラとしている。


「ああ、あれは鰐瓜ですよ。ここらでは風邪の時によく食べさせられるんですが、なんせ苦くて。まぁ我慢して食べればかなり体調は良くなるから、水でなんとか流し込むんですよねぇ」

「へぇ……そんなものがあるのね」

「季節の変わり目や冬はよく売れますねぇ」

「私は見たことも無かったわ。他領には出していないのかしら」

「うーん、どうなんでしょうか。熱を加えるとドロドロになりますんで、運べなかった可能性はあるかもしれませんね」


 コーラルは鰐瓜をじっと見つめ、いくつか買って帰ることにした。


「おや、鰐瓜を買うってことは風邪でも引いたのかい?」

「いえ、私は遠くから来て、これを見たことがなかったものですから。興味があって」

「おや、そうなのかい。苦くてそのままだと食べにくいからね、ミルクと合わせると食べやすいよ」

「そうなのですね。試してみます」

「うちの息子も生まれた時から病弱でねぇ。鰐瓜を食べられるようになって、ようやく人並みに元気になってきたところなのさ。ほい、綺麗なお嬢さんにはひとつオマケだよ。また来てちょうだいね!」

「ありがとう」


 薬はまだまだ高級品だけれど、それを買えない民たちはこういう物で工夫しながら日々を過ごしているのだろう。貧しい人々にとってはたかが風邪でも命を奪う病気なのだ。

 生家で仕事に追われると、コーラルはしばしば食事を抜いていた。時間が勿体無かったし、お腹も減らなかったから。けれど、今考えてみればめまいや眠気に襲われたり、なんだか頭がぼーっとしたり。今ここに来て、毎日きちんと食事を摂るようになってみて初めて、あの頃の異常さに気付いたのだ。食べられるのに食べないなんて、なんと贅沢だったんだろう。


鰐瓜はアボカドとキウイを合わせたような見た目をイメージした異世界謎植物です

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