第四話 自信と責務と
「数字の計算や書類の見方、書き方などは全く問題ありませんね。正直に申しますと大変助かります、即戦力になりますね。あとは辺境領ならではの特別税収や、戦に関わる処理と冬季の備えなどを学んでいただければ良いでしょう」
「生家でも12歳からやっていたから、ある程度は慣れているの。やり方が同じで良かったわ」
「12歳から……ええ、かえってジェイド様より纏め方も分かりやすく、効率もいいくらいですよ。まずは昨年のこちらを参考に、あとは季節ごとに出てくるものですから追々確認しながら片付けて参りましょう」
コーラルは今、辺境伯夫人として領地管理の仕事を教わっている。代替わりしてからは、ジャンがかなりの部分を補佐しながらジェイドが騎士団の仕事と並行してこなしていたらしい。まだごく一部しか教わっていないけれど、それでもどれほど大変だったかが想像できる。それこそ寝る間もないことも多々あったのだそうだ。騎士は身体が資本だし、命を賭けて国を護ってくれている。そんなジェイドの負担を少しでも減らすことができるなら、買ってもらった恩返しにもなるだろうか。
「そういえば……サインだけは閣下がした方が良いのではないの?」
「はて、それはなぜでしょう? 確認なら私がしておりますし、仕上がりには全く問題ありませんよ」
「私がサインをしたら、私が仕事をしたのが他所様に知られてしまうじゃない? 閣下も私に仕事を任せるつもりはないって仰っていたし、女の癖に出しゃばって生意気だって思われたら……閣下やアルベルティの瑕疵にならないか心配なの」
「奥様……これまでもそうして?」
「ええ。ただでさえ私はこんな赤錆色の髪の毛で見た目もみすぼらしいのに、書類仕事をしているなんて知られたら、貰ってくれる人がいない事をひけらかすようなものだって、父が。幼馴染達もよく……女に学はいらない、知識などつけるから可愛げがなくなるのだ、と。たしかに彼女は美しいブロンドで、男性に頼って相手を立てるのが上手だったわ。ああ、もちろんもう嫁ぎ先の心配をしなくていいということは分かっているけれど」
アンナマリアがその肉感的な身体をすり寄せて「私馬鹿だから分からないの……ね、教えて?」と上目遣いで見つめると、ベッティーノは必ず「仕方がないな」なんて言いながら嬉しそうに世話をしてやっていた。
逆に私がベッティーノの誤りをそっと指摘すれば、かっと顔を赤くして「余計なお世話だ」「そんな事は分かっている」と怒鳴られた。幼い頃は、転んだ私の傷をみて、私よりも先に泣き出すような優しい男の子だったのに。
コーラルの目を真っ直ぐに見て、ジャンはゆっくりと口を開く。
「これからは、そのような事を気にする必要は一切ありません」
「そう? ……分かったわ。ならばサインまで入れて──」
「それと。奥様の髪の毛は深い赤でとても綺麗です。今は少し栄養が足りていないのと、手入れが間に合っていないので傷みがありますが、ここで暮らすうちにあっという間に輝きが戻るはずです。奥様に今必要なものがなんなのか、分かった気がします。さあ、支度をいたしましょう──イルダ!」
「え、何? ──あら、え……わっ!」
ジャンに手を引かれ自室へ戻ると、待機していたイルダにあっという間に服を剥かれて浴室へ押し込まれる。基本的にお風呂は自分で済ませていたのに、今日は擦ったり揉んだりと世話をされ、少し恥ずかしいけれどそれ以上に気持ちが良い。やっと上がったと思ったら髪の毛にもいい香りの香油を塗り込まれ、肌にもクリームを塗ってもらって。薄く化粧をしたら、シンプルだけれど質の良い生地のワンピースを着せてもらった。
「ああ……やっぱり良いわ。奥様のお肌はとっても白くて透き通るようですね。少し紅を乗せるだけで少女らしさも大人の色気も兼ね備えた様な、見惚れる魅力がございますよ。髪の毛は少し細くて癖がつきやすいですけれど、逆に言うとふわふわした質感は女性らしさを感じさせる雰囲気で可愛らしいですわよね、しっかり生かしましょう。腰も細いですからコルセットなど不要。急ぎ支度をしただけでもこの仕上がりですもの……奥様、まだまだこれから、磨けば磨くほど光りますからね?」
優しく笑うイルダに褒められて、大分お世辞が入っているだろうけれど、それでも嬉しい。赤錆のように見窄らしい髪、暗く陰気な瞳。青白く生気のない肌……。今まで私の見た目を褒めてくれた人なんて、ひとりもいなかったのだから。
「ありがとう、イルダ。でもこんなに綺麗にしてくれたけれど、今日は特に予定は──」
「イルダ、準備は?」
ジャンは部屋に入るなりコーラルを見ると、目を細めて柔らかく微笑んだ。
「出来てるわ。──どう?」
「ああ……予想以上だ。奥様、とてもお似合いです。素敵ですよ」
「あ、えと……ありがとう。でも、どうして……」
「さあ、出かけますよ。これから暮らす街を見回るのも仕事のうちですからね」
「そうです、そうです! 世間の声をしっかり、きっちり、ご自分の耳で確かめて来てくださいな!」
「そう……ですね? 仕事であれば……わかりました。行ってきます」
ジャンとイルダがいつになく強引だ。馬車に押し込まれて、街に出る。御者をしているのは騎士団の若手らしい。よろしくね、と挨拶をすれば、なぜだか頬を染めて慌てていた。フィリベルト同様、女性を見慣れていないのかもしれない。
ジャンはあちこちの店や施設を教えてくれる。まだ戦争の余韻が残る街の中、歩き回る領民達の顔はどこか厳しい。けれども同じくらい、逞しい。確かに書類で見るのと、現地でその空気を感じるのとでは全く感覚が違う。ここには毎日を必死で生きる、血の通った民達がいるのだった。
「へい! らっしゃい、そこの綺麗なお嬢さん、新鮮な野菜はどうだい!」
「おや、この辺じゃ見ない別嬪だね。特別にサービスするよ!」
「おお、美しい女性にはこれなんて似合いだ。連れの紳士にひとつ買って貰いな!」
「……アルベルティの方達は皆さんお世辞が上手なのね」
「奥様、お世辞ではございません。美しいものには美しいと、素直に口にしているだけです。それが世間から見た貴女の評価なのですよ」
「でも……私なんてこんな──」
「キャーっ!!」
「馬車が暴走してる! みんな避けろ、端に寄れ!!」
突然馬の嘶きと人々の叫び声が通りに響き渡り、制御を失った馬車が猛スピードで突っ込んで来る。荒れた石畳にタイヤを取られて激しく飛び跳ねながら、慌てて避ける人の間を縫う様に、振り落とされそうになりながらも青い顔の御者が必死で馬を宥めている。
「──っ、奥様、こちらへ!!」
ジャンに手を引かれ、近くに停めていたアルベルティ家の馬車の影に押し込まれる。御者台から騎士も飛び降りて来て、私を守る様にして立ち塞がっている。
暴走した馬はあちこちにぶつかりながら、先の通りの辺りでやっと落ち着いた様だ。
「もう大丈夫そうですね……人々が混乱して危険ですから、今日は城へ帰りましょう」
「──怪我人がいるわ」
「奥様、危険です」
「私はアルベルティの紋章の付いた馬車に乗っていますね。民が危険な目に合い怪我をした者もいるというのに、今ここで私だけが安全な場所へ逃げ帰るわけには参りません。そんなことをすれば閣下の名にも傷が付きましょう。──ジャン、この辺で広い場所を借りられる所はあるかしら? 火も使えた方がいいわね」
「はぁ……──承知しました。近くに診療所があります、おいラウロ。医師を呼んで来なさい」
「は!」
「奥様は意外と頑固でいらっしゃる」
騎士があっという間に走り去って行く。その間にコーラルは、転んで泣いている子供の元へと駆け寄った。
「大丈夫? どこがいたい?」
「──うっ、ぅぇっ、わぁぁん!」
「うん、怖かったね。もう大丈夫よ。ああ、手が少し切れているわね……痛かったでしょう。今お医者様もいらっしゃるから、もう少しだけ待っていてね」
持っていた綺麗なハンカチを巻いて縛ってやると、その男の子は目を潤ませながらコーラルを見上げた。
「お姉さん……ありがと……ぼく、もうすぐお兄ちゃんに、なるから、だから……もう、だいじょうぶ」
「まあ、偉いわ。きっと素敵なお兄さんになれるわね。だってこんなに強くて格好いいもの」
頭を優しく撫でると、男の子は恥ずかしそうに頬を染め、ふふふと笑った。
「おぅい!! 誰か、手を貸してくれ!! こっちにも動けない人がいるんだ!!」
「──じゃあお姉さんは向こうを見てくるね。すぐにお医者様が来るからね」
「うん、わかった」
呼ばれた方に行ってみれば、足から血を流した青年が倒れている。傷口は砂にまみれ、赤黒く腫れた様子が痛々しい。
「どなたかお近くの方、綺麗なお水を頂けませんか! 傷を洗わなければ!」
「うちの食堂の厨房を使って頂戴! 水なら今すぐ持って来るよ!」
「お願いします! ──大丈夫ですか、これは痛みますね……今傷を流しますから、少し辛いでしょうが我慢して下さい」
「水持って来たよ!!」
「ありがとう。ではかけますね」
「うわぁぁ──っ!! 痛い……っ!! ああ……っ!!」
青年が痛みに悶えて手足をバタつかせる。それが私の腕にも当たり、鋭い痛みが走った。しかし、彼の痛みはこんなものではないだろう。
「ごめんなさい、ごめんなさいね。でも綺麗にしなければ治りが悪くなってしまいます、もう少しだけ辛抱して下さい……!」
さっと周囲を見渡せば、ジャンも近くで倒れた人の介抱をしている。さすがに騎士団を有するアルベルティの家令は応急処置も手慣れている様だ。私にはまだまだ学ぶべきことが多い。
「お医者様が来たぞ!」
「ああ、こっちだ! 早く診てくれ!」
我が家の騎士が案内して連れて来た診療所の医師は、視線を鋭く辺りを見回した後、順番に手早く処置を済ませていく。コーラルも綺麗な水や布を集めては、軽傷の者を中心に世話をする。歩けるものは診療所の方に連れて行き、汚れた傷は拭き清める。
そうこうしているうちに、ようやく怪我人の応急処置はおおかた終わった様だ。コーラルのワンピースは泥で汚れ、蹴られた腕はじんじんと熱を持っている。これは城に帰ったらイルダに手当てしてもらおう、ジャンを探して立ち上がれば、目の前にすっと手が差し出された。
「最後はあんただな」
泥に汚れた白衣を纏い、少し額に汗を浮かべた男性だ。ジェイドより幾分歳上だろうか。よく見れば金髪碧眼でかなりの男前だ。
「お医者様。早急に駆けつけて頂いて助かりました。素晴らしい手際でした」
「それが俺の仕事だからな。お前に礼を言われることではない」
「それでも言わせて欲しいのです。ありがとうございました」
「まあ、勝手にすればいいが。腕を見せろ」
「──っ、いえ、私は大丈夫です。連れもおりますし」
「大丈夫かどうかは俺が決める。ほら、来い」
痛くない方の腕をぐいっと引かれ、やや強引に診療所へと連れて来られてしまった。誰にも知られていないはずだったのに目は確かということだろうか? 腕は良いが愛想はない、辺境領らしいお医者様だわ、とコーラルはなんだか面白い。
「……かなり腫れているじゃないか、痛かったろう。服も汚れて……デートも台無しだな」
ちらりとコーラルのワンピースを見た医師は、てきぱきと手早く薬を塗り、包帯を巻き付けていく。
「デートだなんて、したこともありませんわ。──仕事です」
女のくせに仕事だなんて、どう思われるのかと頭をよぎったけれど──ジャンには気にしなくて良いと言われているから、勇気を出して口にしてみた。それに、街に出てみれば食堂のおかみさんも、服屋のお嬢さんも、女性だってあちこちで沢山仕事をしていることに気が付いたのだ。皆がそれぞれ誇りを持って、生き生きとした顔をして。
「……そうか。よし、出来た。腫れが引かなければまた来い。いつでも診てやる」
「はい、ありがとうございました。お医者様」
「──リベラトーレだ」
「え?」
「リベラトーレ。リベラでも良い。そう呼べ」
「ええ、リベラトーレ先生」
「奥様! コーラル様! ──ああ、いらした!」
「ジャン!」
「探しておりましたよ、──お怪我を?!」
「大したことないのよ。それに今お医者様に診てもらったわ」
「リベラトーレ」
「……リベラトーレ先生に診てもらったわ」
「そう、ですか。ではそろそろ帰りましょう。旦那様も心配なされているでしょう」
「どうかしら? 勝手な事をしてしまったから、ご迷惑にならなければいいのだけれど」
「それでは、失礼。──奥様、参りましょう」
「ふぅん……コーラル、奥様。ね」
リベラトーレは、去って行くコーラルの後ろ姿を、見えなくなるまで見つめていた。
見るからに貴族の女性が、服を泥まみれにして、自ら地面に膝をついて、平民の怪我の手当てをするなんて。自分の怪我は隠し、主人の迷惑にならないかと心配をして。
「デートのひとつもしたことのない主人、か」
リベラトーレは病気や怪我に興味があるのであって、人には全く興味を持てなかった。だからこそ、戦争の傷の癒えないこの地にやってきたのだ。ここの診療所は忙しい。だからこそ、楽しい。変人医師だと噂されていることも知っているが、そんなことはどうでもいい。
白い肌に映える美しい赤毛の少女。ああ、あの赤毛は血の様な色だった。──興味深いな。
コーラルが去っていった路地に背を向けて診療所に戻る男の口元は、楽しそうに弧を描いていた。