第十八話 痛みと愛と
静かな森に風が吹き抜け、葉音が耳をくすぐる。あんなに鬱蒼としていたのに、竜達が思う存分暴れたおかげでこの一帯はぽっかりと拓けてしまった。
後処理を済ませた部下達は、ありったけの野営道具を置いていった。少なからずとも怪我を負っていたし、疲労も相当溜まっているだろう。ここに残ると言い張る者を叱りつけて、半ば無理やり砦へと帰らせたのだ。
『……きゅう』
「アゲート、ありがとな。お前がいてくれれば、心強いよ」
王都へ行けば呪いに詳しい者もいるかもしれない。隣国の資料などがあれば、調べてみる価値もあるだろう。
俺がいつまで保つか分からないが、諦めるつもりもない。コーラルにきっと帰ると約束したのだから。
3日おきに伝令と物資を運んで、竜騎士がやって来る。決済の書類まで持ってきたのを見た時は、ここにきてまで仕事をさせるのかと笑ってしまったが。それは案の定ジャンの差し金で、あなたが団長なのだから、あなたが領主なのだから、と──皆諦めていないのだ、と。そう言っているのが分かったからこそ、俺も諦めるわけにはいかないと思えた。
1番心配していたコーラルからは、手紙を受け取った。もしかしたらあの呪いを受けた瞬間に何かあったのではと思い、不安だったのだ。
しかしそういうことはなく、だがジェイドを心配するあまりに食が進まず、少し痩せてしまったようだ。せっかくアルベルティでの暮らしで大分健康的な身体に戻ってきていたところだったのに。
また、あの赤珊瑚のような髪に触れたい。白い肌を、赤く染まった頬を撫でたい。理知的な藤紫色の瞳は、涙に濡れていないだろうか。会いたい。会いたい──日に何度もコーラルの事を思う。
断続的にギリギリと胸が痛み、そして時折ぎゅうっと締め付けるような激痛が走る。それは、こうしてコーラルの事を思うと余計に酷くなる。しかしそれはつまり、ジェイドがコーラルを愛しているからこその痛みだ。どれだけ愛しているか、その強さも、容量も、愛というのは形にして見ることなどできないものだ。だが、この痛みは現実であって、痛ければ痛いほど、己の愛の大きさを証明し、実感できるものだ。
「いつからこんなに大きくなっていたんだろうなぁ……」
仕事に打ち込むコーラルを見た時か。女神のように竜と触れ合うコーラルを見た時か。
「……初めて会った時からか……」
「あんなに怖い顔をしていらしたのに?」
そろそろ気が狂ってしまったのかもしれない。コーラルの声が聞こえる。涼やかで、落ち着いた声色は耳に優しく、しかし心臓がぎゅっと握られたように痛む。
「──コーラル……愛している」
「──私も愛しています、ジェイド様」
「……え?」
「なかなか帰ってきて下さらないから──迎えに来てしまいました」
ぱっと後ろを振り向くが、背もたれにしていたアゲートの姿しか見えない。左右を見ても、変わり映えのしない開けた森の中だ。
「ここですよ」
アゲートがむくりと起き上がり、空を見上げた。
ジェイドもまさか、と続けば、そこにはアゲートよりさらに大きなオレンジ色の巨大な竜がいて。
陽の光を浴びて、その鱗は金色にきらきらと輝いている。こんな竜はうちにはいなかったはずだ。美しく、神々しく──その瞳は、珊瑚のような艶やかな赤色だ。
ゆっくりとその竜が地面に降り立つと、背中には記憶より少しほっそりとしたコーラルの姿があった。
「……コーラル」
「ジェイド様」
「──っ、なんでここに来た! 早く帰れ、立ち去れ! 一刻も早く……っ!」
ドクドクと心臓に熱が集まるのを感じる。視界がぼやけ、身体が硬直したかのように自由が効かない。震えた指先が、腰に刺した短剣に触れた。
「……かえ、れ……はやく……」
コーラルが両手を広げた。後ろではオレンジ色の竜が、じっとこちらを見つめている。
足が勝手にコーラルの元へと向かう。触れたい……抱きしめたい……俺の物にしたい。
「俺の……俺、だけ、の……」
景色が後ろに流れていく。なんでだろう、ああ、俺が走っているのか。コーラルの元へ、あの腕の中へ。
握りしめた手の中で、冷たい短剣の刃がきらりと輝いた。
「ああ……っ! ぅ……、ぁぁぁああ!」
ドン、と身体が揺れた。
──パリン
目の前で赤が散る。
ゆっくりと、俺の目の前で、コーラルが後ろに倒れていく。
「ぁぁ……! コーラル! 嫌だ……!」
短剣を投げ捨てて、慌てて倒れるコーラルを引き寄せた。くたりと力の抜けた身体はそれでもなお軽く、花のように甘い香りがした。
涙がぽろぽろと溢れて、コーラルの上に落ちる。
「大丈夫ですよ……あなたが、守ってくれました……」
腕の中でコーラルがふわりと笑う。
「ちがう、おれが、コーラルを愛して、コーラル……コーラルを、ころして……」
コーラルがジェイドの背中にきゅっと手を回す。ぴたりと合わさった身体からは、トクトクと規則正しい心臓の音が聞こえる。
「……見て?」
そっと身体を離すと、コーラルは小さな手で胸元を指した。
そこには細いチェーンのネックレスと、砕け散った赤珊瑚のペンダントトップが僅かに残されていた。
「私は、生きています……あなたとこれからも、生きて、いきます」
心臓はもう痛まない。とめどなく流れ落ちる涙を、コーラルの細い指がそっと拭った。
「愛している」
「私も、愛しています」
初めて触れ合った柔らかな唇は、涙の味がした。