第十四話 花の命と最愛と
「アンナマリア様、ゴミ箱にこちらが落ちてしまったようで……」
「はぁ? 落ちたんじゃないわ、捨てたのよ!」
「えっ? でも、このベール……とても綺麗な刺繍ですのに……?」
「それはね、私が大嫌いな女が刺したのよ。そんなもの結婚式で使うなんて虫唾が走るわ。欲しけりゃあげるから、2度と私には見せないで頂戴」
アンナマリアは苛立っていた。絶対に間に合わないであろう、複雑な図案を指定して作らせた刺繍を、平然と差し出して来た幼馴染の女。昔から彼女のことが気に入らなかった。賢くて、凛として、背筋を真っ直ぐに伸ばして立つあの姿が。
領地が隣り合っており、同年代だったアンナマリアとコーラルは幼い頃から顔を合わせる機会が多かった。親同士もそれなりに仲良く付き合っていたようだし、政治的なやりとりもあったのだろう。ただアンナマリアには「バレストラの令嬢とは仲良くしても良い」と許可が出された。それだけのことだ。
アンナマリアには2人の兄と、妹がひとりいる。次期領主として教育を受ける長兄と、その補佐役として武を鍛えられた次兄。末娘として可愛がられて育った妹に挟まれて、アンナマリアは常に宙に浮いた存在であった。
見目は良かったのだろう。だがそれも良くなかった。年頃になるにつれ、それなりに地位のある貴族の愛妾や、後妻として望まれることが多くなったのだ。ベッティーノがアンナマリアのことを悪く思っていないことは両親も分かっていたのだろう、それらしいことを言って「婚約予定」などと仄めかしつつ、より条件の良い売り先を物色しているようであった。見つかればよし、ダメでもベッティーノが保険として控えている。
「お前はせっかくそんな男好きのする身体を持って生まれたのだから、もっと上手く使え!」
そう言われたから、高位貴族の令息にしなだれかかり、胸元の開いたドレスでしがみついてみたのに。その場では鼻の下を伸ばして腰から尻を撫で回すくせに、2度目のお呼ばれは決してない。そんなことを数度繰り返すうちに聞こえて来たのは──身体のいい女と遊ぶのは良いが、妻にするのは恥ずかしい、と。やはり生涯の妻にするなら賢い女が良いよな、と。そんな言葉だった。
両親にも伝えたのだ。勉強がしたいと。コーラルは男性達が話す政治の話にも的確な相槌を打っている。コーラルは領地運営の知識を持ち、相手を唸らせる提案ができる。私もコーラルのように知識さえあれば、きっとコーラルよりも格の高い嫁ぎ先が見つけられるはずだから、と。碌なドレスも持たず、社交にも出ず、引きこもっているくせに。あの藤紫色の瞳はいつだって全てを見通すかのように理知的で、アンナマリアの胸の奥の柔らかい場所を抉ってくるのだ。負けたくない。負けるわけにはいかない。
しかし返ってきたのは、「女に知恵などいらない」「お前は身体を磨いていれば良い」「子を産めば女の仕事は終わり」と、そんな言葉だった。なぜ分からないのだろう。いくら美しくても、知恵のない女などただの飾りの人形と一緒だと。女の見た目など、数年もすれば枯れていってしまうというのに。
コーラルが涼しげに会話をしている横で、曝け出した肌を男に押し付けて回る自分が惨めだった。羨ましかった。もう、限界だと思った。
だから、ベッティーノと寝た。
両親は激怒したが、その一方でアンナマリアには然程の商品価値がないことにも気付き始めていたのだろう。それならば手堅いところで手を打っておいた方が結果的に得である。花の命は残酷なほどに短いのだから。
コーラルがベッティーノに想いを寄せていることは分かっていた。それはそうだろう、あの子はどこにも居場所がなく、いつだってひとりだった。そこに現れたベッティーノという少年は見目も良く快活で、人の目を真っ直ぐに見て笑う。憧れない方がおかしいというものだろう。それはアンナマリア自身にも言えたことなのだけれど。
男女のあれこれを幼い頃から教育されてきたアンナマリアからすれば、コーラルのあれは恋というよりは憧れだった。調子に乗せておいて最後に突き落とした方が絶望を与えられたのだろうが、コーラルがなまじ賢い女だっただけにそこまで勘違いさせ続けることは出来なかったが。
そんな日々ももう終わるのだ。コーラルは辺境地に追いやられた。ベッティーノとアンナマリアは祝福されて夫婦になる。私の勝ちだ。全てが思った通りになった。
はず、だったのに。
「あぁーっ、ベッティーノさまぁ! 全然会いに来てくれなくて寂しいわぁ」
「やぁ、ごめんごめん。また近いうちにね」
「約束ですわよぉ」
「ベッティーノ様だわ! ねぇ、ブリギッタとデートしたって聞いたわ。それなら私とも行ってくれるわよね?」
「デートだなんて。少し荷物持ちを手伝っただけだよ」
「まあっ、朝までかかるなんて、どれだけの荷物を持たされたのかしら!」
「はは、ブリギッタ嬢はなかなか寂しがりやでね」
「もうっ、それなら私だって寂しいのにぃ」
「順番に待っていてくれたまえ、必ず慰めてあげるからね」
「お早くね!」
結婚式の細々とした打ち合わせを終えて、休憩がてら寄ったカフェ。天気も良く、テラス席で綺麗に整えられた花々を見ながら飲む紅茶が美味しかったのに……今はもう、華やかな香りも、甘いケーキも、舌にまとわりつくベタリとした泥のようにしか感じない。
「……ベッティーノはお友達が多いのね」
「ああ、そうなんだよ。みんな可愛い友達さ」
「……仲がよろしいのかしら」
「普通じゃない? まあ僕を頼ってくれるから、期待に応えてあげたいとは思うかな」
「……私の期待にも、応えてくれるのかしら」
「もちろんだよ。なんと言ったってアンナマリアは僕の最愛の奧さんになるんだもの」
「最愛の……そう、よね。ありが──」
「あっ、ベッティーノ! 一昨日の夜は楽しかったわね! またお願いしたら聞いてくれる?」
「やあエリザベッタ。君の願いならいくらでも聞こう。友達だからね」
「うふふ! そうね! 最高の友達だわ! じゃ、また近いうちにね」
ぷるりと艶めく赤い唇に指を付け、その指をそのままベッティーノの唇にぴとりと塗りつけた肉感的な女性。赤く濡れた指をひらりと振って、去っていく後ろ姿から視線を剥がす。振り返れば、擦り付けられた彼女の紅で赤く塗られた唇の端を緩く上げて、小首をかしげる自らの婚約者がいる。
「そろそろ出ようか? アンナマリア」
「……そうね。そうしましょう」
スマートに手を引かれ、店を出る。優しくて、見目も良くて、完璧なエスコート。この人はいつだって、私の目を真っ直ぐに見る。頼まれると断れないお人よしで、人のために動く。私のお願いは嫌な顔をせず聞いてくれるし、「分からないから教えて」と尋ねれば、なんだって教えてくれる。私はこの人と結婚するのだ。思い描いた通りに。計画通りに。なんの憂いもなく。
だって私は、勝ったのだから。
──私は一体何と、戦っていたのだったかしら。