第十一話 祝福日と生まれ変わりと
「視察、ですか?」
「ああ。領地の方の仕事はすっかり君に任せきりになってしまっていたからな。たまには……その、俺も領主として、確認しないとと思って──なんだジャン、言いたいことがあるならはっきり言え」
「いえいえ、全く、何も。視察、大いに結構。そりゃもう隅々まで、ゆぅっくりとご覧になって来たらよろしいですよ」
「では、私は……ジェイド様のお留守を預かればよろしいですか?」
コーラルがそう問えば、後ろからジャンがぶふっと吹き出す音がした。
「んんっ、いや……その……」
「──坊ちゃん?」
「ああ……コーラル。共に、来てくれないかな」
ジェイドの翡翠の瞳が真っ直ぐにこちらを見つめている。
彼はいつだって背筋を真っ直ぐに伸ばし、毅然とした態度で騎士達を率いている。竜の背に乗る姿はさながら戦神のように勇ましく、その姿を空に見た子供達はみな憧れに目を輝かせて大きく手を振るのだ。
戦に疲弊した街は未だ復興途上で、決して裕福とは言えない状況だ。若くして領主の立場を継ぎ、ひとり邁進してきたジェイド。それは並大抵の努力ではなし得ないことだっただろうし、綺麗事ばかりで済ませられない事も多かったはずだ。事実、バレストラにいた頃のコーラルの耳に入ってくるアルベルティ領主の評判は良いものではなかった。王都から遠く離れた荒野の田舎領主。血も涙もない戦闘狂の冷血漢。顔に醜い傷を持つ、呪われた一族の末裔……。
しかし、アルベルティに嫁ぐことが決まったコーラルにそのような噂を嬉々として囁いて来た人々の顔は、ジェイドの顔の傷より余程醜かったのではないか。お可哀想に、どうかご無事で。あの人々は、ジェイドのこの翡翠の瞳がどれほど美しいのか知らないのだろう。彼がどれほどの努力を重ねて、これまで生きてきたのか。どれほどの覚悟を持って、その背に民の命を背負っていることか。
きっと彼らは、そうやって自分たちもまた護られていることを知らないし──知ろうともしない。けれど、コーラルはそれでもいいと思う。そういう風にしか生きられない人がいることは、ただ可哀想だとは思うけれど……今は、コーラルが知っているのだから。ジェイドの強さを、覚悟を、高潔さを、美しさを。
「私で、お役に立てることでしたら」
そう答えれば、ジェイドは眩しそうに目を細めて柔らかく微笑んだ。
その表情があまりにも綺麗で、大事だと──そう言われているみたいな気がして、一気に顔が熱くなる。そんなわけないのに。
そんなわけ、ないのに。
「髪もすっかり綺麗になりましたわねぇ」
「イルダのおかげよ。いつもありがとう」
「いいえぇ、奥様は大抵のことは自分でなさってしまうんですもの。ちょっとくらいは構わせて下さいな」
イルダに手を借りながら支度を整える。パサついていた赤錆色の髪の毛も、毎日香油を塗って整えてもらったおかげかすっかり艶々だ。ハーフアップに結い上げて、飾りの少ないシンプルなワンピースを着る。今日は馬で行くと聞いているから、動きやすい装いだ。
「お待たせいたしました」
「ああ……」
「──んんっ、坊っちゃま?」
既に支度を終えていたジェイドの元へ向かうと、振り向いたジェイドがそのままの形で固まっている。後ろからジャンの咳払いが聞こえた。
「あ、ああ、そういう服も良く似合っている」
「ありがとうございます」
「髪型も、なんだ、その……悪くない」
「ありがとうございます」
「……では、行こう」
差し出された手を軽く握ると存外強く握り込まれ、いつもより心なしか距離の近いジェイドからは爽やかなコロンの香りがした。
「……坊っちゃまのアピール、全く効いてなかったわね」
「……これから頑張ってもらうしかないだろうなぁ」
そう呟いた夫婦の苦笑は、どこか暖かかった。
◇
「人が多いな」
「今日は祝福日ですものね」
「祝福日か……街に来るのは久しぶりだ」
国の始祖たる豊穣の女神に祈りを捧げ、感謝を伝えるのが祝福日だ。この日は神事である舞が披露されたり、各地の神殿で生まれたばかりの子供に祝福が与えられたりする。それに合わせて人が街に多く出てくるため、市も立って賑わうのだ。
ジェイドは3年前の戦から領主の交代、そして竜騎士団長としての仕事が山積みで忙しく、祝福日に出かける機会がなかったらしい。コーラルもまた幼い頃より自邸で仕事に勤しんできたため、祝福日の市など記憶の限りでは初めてだ。ベッティーノとアンナマリアが楽しそうに話して聞かせてくる内容から、なんとなくどんなものなのか想像した事はあるけれど。
「……ずいぶん賑やかになっている」
「ジェイド様のご指示で道も随分綺麗に直りましたからね」
「いや、ああ……」
コーラルは賑わう市を目を細めて眺めながら、胸の奥から温かいものが溢れるのを感じていた。
着ているものは質素だが、満面の笑みを浮かべた子供達が早く早くと親の手を引き、飴の屋台を指差している。肉が焼ける匂いは食欲を刺激し、果実を絞ったジュースは色鮮やかだ。神殿の前の広場では年若い少女達が白い薄絹を風にたなびかせ、ひらりひらりと舞っている。この光景は、ジェイド含むアルベルティの騎士達が命を賭けて戦って勝ちとったものなのだ。
今のアルベルティでは、孤児が多く出ている。戦で親を亡くしたからだ。また、戦火で店を焼かれた者もいれば、怪我によって仕事を無くした者もいる。国境近くは未だ荒れた地の復興も済んでいないし、作り直した畑が上手くいかずに食糧が不足している地方もある。それでも──領都から少しずつ、そして確実に復興は進んできている。ほんの僅かな一歩でも、それが続けば道になるのだ。
コーラルは幼い頃から、いずれ領主になる者としての教育を受けてきた。ずっとバレストラのためにと思ってきたものの、不思議なことに、今は故郷への郷愁も寂しさも心残りさえ少しも浮かばない。
(……私は薄情者ね)
ちらりと隣を見上げる。翡翠の瞳を煌めかせながら街の様子を眺めていたジェイドが、その視線に気付いたのかふとコーラルを見下ろし口を開いた。
「……ありがとう。君のおかげだ」
「……え?」
「戦には勝ったが──アルベルティは一度、死んだ。それが今こうして、新たに生まれ変わろうとしている」
「それは……私のおかげ、などでは……」
「あの一帯で食べ物を売っているのは、君が見つけてきた家だろう。地方の民でもああして気軽に販売場所を提供出来るから、最近では各地の名産が良く流れてくるようになっている。物が動けば金も動く。人が動けば、血が身体を巡るように街は生き返るんだ。俺はこの街の傷を治そうと、出来る限りのことをしてきたつもりだ。そして君がそこに血を流してくれた」
そっとジェイドに手を差し出され、自らの手を重ねる。ゆっくりと歩き出しながら賑わう街の中を歩く。
恰幅のいい店主の肉屋。その隣には肉と野菜を巻いたクレープの店。日用品の店や、キラキラと輝くアクセサリーを売る宝飾店。辺境領らしい武具屋も大変賑わっている。
ふわり、といい香りがした。エプロンをかけた愛想の良い女性がもくもくと湯気を立てる大きな鍋を混ぜ、クリーム色のシチューを小ぶりのカップに注ぐ。こちらまで食欲をそそる香りが漂ってきている。
「鰐瓜のシチュー……」
「今年は風邪を拗らせて死ぬ子供が少ない。炊き出しでもあれを出しているからな」
「そう、それもこれもオクサマのおかげだよ」