第十話 竜舎と竜の声と
「奥様、やはり体調が悪いのでは? お顔の色が悪いです」
「──問題ないわ。それよりこの書類だけでも片付けてしまいたいのよ。せめて中途半端に手を出したものだけでも……責任を持ってやり遂げたいから」
「……奥様は十分立派に辺境伯夫人としてのお役目を務めてらっしゃいますよ」
「ありがとう、ジャン。──それじゃあ、閣下にサインをいただきに参りましょうか。ね?」
いつもと同じように笑ったはずなのに、見つめたジャンの顔がどうにも切なげだ。上手く出来ていなかったのかもしれない。間違えたのはコーラルなのだから、そんなに悲しそうな顔をして貰う価値などないのに。もう一度しっかりと口端を持ち上げてから、ジャンと共に騎士団棟の執務室へ向かった。
その途中。騎士団棟へと続く渡り廊下からふと外を見ると、少し離れたところにある竜舎がどうにも気になった。持ってきた書類はジェイドに指摘された部分を見直して纏め直したものだから、許可のサインはすぐに出るだろう。今日はこの他に予定はないし、これ以上出しゃばって事業に手を出すつもりもない。
「ねえ、少しだけ……竜に会わせて貰うことは出来るかしら」
「ああ、竜舎はまだお近くでご覧になっておりませんでしたね。竜は人を選びますから、近くで会うのは難しいかもしれませんが……眺めるだけならいくらでも出来ますよ」
ジャンはそう言うと、ここからの芝は少し歩きにくいですから、と手を差し出してくれた。硬く厚いこの手もまた、アルベルティを護ってきた手なのだろう。コーラルの手には一体何が出来るのだろうか──?
近付くとこの竜舎もまた、かなりの大きさであることが分かる。堅牢な石造りで王城のダンスホールも収まってしまいそうな高い屋根に、城門もかくやという大きな出入口。ここからは確認できないが、真上から見ると竜舎の真ん中は吹き抜けのようになっており、緊急時はそこから直接竜の背に乗って竜騎士たちが飛び立つのだという。今は全部で8頭の竜がここで暮らしているそうだ。
「私が契約していた竜は3年前の戦の傷がもとで死にましたがね、サッジョと言って……賢い子でした。ふふ、子、なんて言っても私よりずっと長生きの先輩だったのですがね。サッジョは私がこうして竜舎の近くにくると、あの吹き抜けから飛び出して迎えに来てくれたものです」
「そう……絆があったのでしょうね……羨ましいわ」
「ええ、サッジョは生まれてからずっと相棒を選ばずにいたそうですが、私がまだ首も座らぬ頃に私を選んでくれたのだそうですよ。母が散歩に連れ出したところに真っすぐ飛んできて、べろべろと舐めて涎まみれにされたのだとか。母も元々城勤めでしたからね、赤子の私をさっさとサッジョの背中に乗せてしまったそうですよ」
「ふふ、豪傑なお母さまでしたのね」
竜は自らの背に乗せる人を自分で選ぶ。サッジョとジャンのようにあっさりと契約をする場合もあれば、力試しをするように戦いを挑み、これはと認めたものと契約する竜もいるらしい。ジェイドの相棒であるアゲートという竜も、ジェイドと契約する際はそれはもう苛烈な力試しを挑んだそうだ。ジェイドの顔の大きな傷も、その際に出来たものなのだとか。てっきり戦でついたものだと思ったら、盟友である竜につけられたものだったとは驚きだ。しかしお互いの命を預けあう者同士だからこそ、本気の力を見せ合うことが必要なのかもしれない。
「竜はここで繁殖させるのですか?」
「ええ、基本的にはそうですね。あちらに見える山にも古くから竜が住むと言われていますが……野生種が山を降りてくることはほぼありません。先祖は同じなのでしょうけれどね。竜は一度伴侶を決めたらもうその相手以外とは番いませんし、なかなか子も出来にくい。まあ竜は人間よりずっと長生きしますから、生涯に複数の契約者を持つ竜もいますよ」
「そうなのですね。いくら強大な戦力だといっても、無条件に増やせるわけではないのですね」
「今は幸い2組の番がおりますから、うまくいけば子が出来ることもあるでしょう。ああ、今最も若い竜はサッジョの子なのですよ。最近騎士団の中から契約者を選んだところです。母の竜も穏やかな気質ですから、きっと良い相棒になってくれることでしょう」
そんな話を聞きながら、竜舎の周りを見学していたその時。
ガシャン!! ガラガラ──ドン!!
何かが割れるような音と、重いものが叩きつけられるような地響きがした。ガラスがびりびりと揺れている。
「奥様、お下がりください」
「竜が……ねえ、ジャン、聞こえる? 竜が呼んでいない?」
「は? 竜、が──私には先ほどの衝撃音しか、聞こえませんでしたが……」
「違うのよ、今も。なんだか痛がっているわ。何とかしてあげないと」
「……まさか、奥様は」
コーラルの耳には、きゅうきゅうと苦しそうに鳴く竜の声が聞こえてくる。慌てるジャンを引き連れて大きな入り口へと戻れば、若い騎士たちがわぁわぁと騒いでいた。
「お前たち、何があった!」
「あ! 副隊──じゃなくてジャンさん!! フォンテが急に暴れだしまして!!」
どうやらこの騎士がサッジョの息子である竜、フォンテと契約を結んだ相棒らしい。
コーラルはくい、と後ろからジャンの袖を引く。
「ジャンさん、私がフォンテに会うことはできますか?」
「奥様が? 今はフォンテも興奮しているようですし、危険です」
「承知しています。けれど……」
ここでコーラルがでしゃばるのは、辺境伯婦人として良くないのかもしれない。ジェイドを怒らせてしまうのかもしれない。また余計なことをして、と。自分の仕事さえ真っ当出来ていないくせに、と。
「声が、聞こえるのです。みなさんには聞こえませんか? 痛い、と。助けて、と」
もしもこの声が、コーラルにしか聞こえないのであれば。
「私の後ろを、ついて来て下さい」
「ありがとう、ジャン」
今この声を無視することなど、出来るはずがないのだ。
「おい! フォンテが暴れたって? 被害は!」
ジェイドが急ぎ竜舎に駆け込むと、そこにはフォンテを優しく撫でながら微笑むコーラルの姿があった。ジャンやフォンテの契約者となった竜騎士のマルセロ、その他の竜騎士が竜舎の中で割れたガラスや砕けた壁を片付けている。竜舎の外では竜騎士ではない騎士団の若手たちも片付けを手伝っているようだ。
「ぁ……閣下……」
こちらに気付いたコーラルが、どこか不安そうに瞳を揺らしている。先ほどまでフォンテを見ていた柔らかい微笑みは消え、声にならない声が喉から漏れている。フォンテが大丈夫だよ、とでも言うように首を寄せた。
(俺が、怯えさせているのか)
楽しそうに広い世界へ羽ばたこうとする彼女に嫉妬して。羽をもごうとしてしまったから。
「団長っ!! 奥様ったら凄いんですよ、フォンテの言葉が分かるんですって!!」
マルセロが澱んだ空気を霧散させるかのような大声で叫ぶ。そもそもこいつは場の空気を読むなどという高度な技は持ち合わせていないのだ。
「言葉が分かる……?」
「あ、いえ……正確には言葉ではないのかもしれませんが……」
「かまわない。何が起きたか、予想でもいいから教えてくれ」
「え、と……フォンテは朝のご飯が足りなかったみたいで。こっそり森の方へ飛んで、そこに生っていた実を食べてしまったみたいなのです。それからしばらくして、お腹がとても痛くなって……暴れてしまったのだと」
「森の実か……どんな色や形だったか分かるか?」
ジェイドがそう聞くと、コーラルはフォンテの方を振り返ると、首にそっと手をやったまま数秒間見つめあった。
「緑色で、これくらいの大きさで、味は酸っぱかったと言っています」
確かに言葉ではないのかもしれないが、コーラルがフォンテと意思疎通できるというのは本当のようだ。ジェイドをはじめとして、竜と契約した竜騎士はなんとなく意思の繋がりを感じ、従わせることが出来る。しかしそれはあくまでも大まかなものであって、食べた実の色や大きさまで伝えることは不可能だ。
「それだとエゴノキか? あの森に確か生えていたように思うが。あれの実を食べると胃腸障害や溶血作用があるんだ」
「ああ、確かにございますね。それにフォンテはまだ育ち盛りですから餌が足りなかったというのも納得できます」
ジャンが言う。フォンテはジャンの竜であったサッジョの子ということもあって、とりわけ可愛がっているからよく見ていたのだろう。まるで孫を可愛がる爺のように。
「フォンテ──! ごめんな、俺がちゃんと見てやってなかったから!」
マルセロは入団3年目のまだ若い騎士だ。この街出身で幼いころから竜騎士に憧れていたといったか。訓練をしているマルセロをじっと見つめたフォンテがその側まで降り立って、つんと鼻で突いたのだ。ジェイドがアゲートと契約した際には命の危険まで感じるほどのやり取りがあったことを思うと、なんとも羨ましいというか複雑な気持ちになったものである。しかし、マルセロが竜に選ばれたことに関しては全く異論はなかった。若さゆえの経験不足や視野の狭さはあるものの、その心は真っすぐで濁りがない。手を抜くようなことはしていないはずだ。だから今回のことも、マルセロが防げなかったのなら誰も防げなかっただろう。
そして解決にももっと時間がかかったはずだ──コーラルがいなければ。
「それでコーラルはどうやって抑えたんだ?」
「わ、私は何も……お腹が痛いというのでそこを撫でて、悪いものを食べたなら吐き出しなさい、と伝えただけで」
「──そうか。暴れる竜に近付くのは怖かったろう。……怪我はないか」
「え、ええ。ございません。あの……出過ぎた真似をしてしまい申し訳──」
「っ、そんなことはない。君のおかげで助かった、竜騎士として礼を言う」
瞳を揺らして謝罪の言葉を口にしようとするコーラルが見ていられず、つい言葉を遮るようにしてしまった。謝るべきはジェイドの方なのだから。
「それと……君が竜と話せるのはとても優れた能力だ。もしよかったらまた力を借りることがあるかもしれない。──頼めるだろうか」
「え……は、はいっ! 私に出来ることでしたら、なんでも致します!」
そういったコーラルは白い頬を朱に染めて、花のように笑った。美しい、と思った。この笑顔を奪ってはならないのだと。
「それじゃあまず最初にひとつ、頼んでもいいだろうか」
「ええ、もちろん」
「……名前で、呼んでくれないか」
「──え?」
「ジェイドと。そう呼んで欲しい」
「あ、はい……それは、もちろん。ジェイド……様」
目の前に美しい女性がいる。その彼女に自分の名前を呼ばれただけで、ぞわりと背中が震えた。彼女がここに来てもう数ヶ月、責務だなんだと言って抱きもした。それなのに、ただ、名前を呼ばれただけで。
彼女は、俺の、妻なのだ。
「ありがとう、コーラル」
俺は、彼女のことが──。