第一話 裏切りと旅立ちと
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「ずっと3人、仲良しでいようね!」
そう言ったのは誰だったろうか。私だったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。
いずれにしても、その約束が守られることはなかった。
彼と彼女は今私の前で熱い抱擁を交わし、彼の肩口から覗く彼女はニヤリと嫌らしい笑みを浮かべている。蛇のような目で私を見つめるその顔は、幸せというよりは、優越感にしか見えなかった。──いつから変わってしまったんだろう?
彼女の美しいブロンドは憧れだった。私は錆の様な赤毛だから。
そして私は彼にも、憧れていたのだ。友達ではなくて、彼の特別になりたかった。けれど彼は家を継ぐべき長男で。私も、そうだった。貴族の結婚は個人の感情で出来るものではない。家と家との繋がりだ。そのことが分かる様になった頃、私はもうひとつの事実に気付く。彼女が彼を見る視線には、隠しきれない熱が篭っていた。
だから私はそっと離れた。勉強をしなければいけないから。私は家を継ぐために、もっと学ばなければならないから。
そうしてひとり勉強に明け暮れて17歳になったその年。父は継母になるという女性と、私の弟だという赤子を連れ帰った。
この国においては、全てにおいて男子が優先される。女子にも相続権はあるが、それは男子がいない場合のみ。
私は、何もかも失った。
「私たちの結婚式にも出て欲しかったのに……まさかコーラルの方が先に嫁いでしまうなんてね」
「辺境までは馬車で3週間と聞いた。なかなか会えなくなるのは寂しいよ」
「……そうね。きっと会うのはこれで最後になるかもしれないわ。どうか2人も──お幸せに」
幼馴染の2人、アンナマリアとベッティーノは来年の春結婚する予定だ。
花嫁の1番親しい人が、その幸せを祈って刺繍を入れると言う風習があるウエディングベール。アンナマリアのベールに刺繍を入れるのにはかなりの時間が必要だった。ご丁寧に図案まで指定があり、それはもう美しくて細緻で、陰湿だった。
お陰で私は自分の旅支度もそっちのけに、この数週間を刺繍に費やしたのだ。まあどちらにせよ、用意しなければならない物などほとんど無かったのだけれど。余計なことを考える暇がなかったことだけは感謝してもいいのかもしれない。
少し俯くと、指を絡ませあう2人の手が目に入る。口の中に何か苦いものが広がるような思いがして、綺麗に包んだそのベールを差し出した。
「これ。頼まれていたものよ」
「まぁ! 絶対に間に合わないと思っていたのに……さすがコーラルね。ありがとう、これで私達はみんなに祝福されて夫婦になれるわ」
「そうだな。ありがとうコーラル。君の幸せも遠くから祈っているよ」
白々しさにかえって心がすっと冷めた。『最後にやけを起こされたら怖いわ』『今まで隠していたけれど、コーラルは私に嫉妬して意地悪を言ってきていたの』『ベッティーノが優しくするから勘違いしたのね』
近くにいたコーラルに気付かず交わされた会話を聞いて、やっと理解した。もうとっくに終わっていたのだと。コーラル、と呼んでくれるベッティーノが好きだった。目を見て、私を無いものとして扱わない人は他にいなかったから。『僕はコーラルのことを特別に思ったことはなかったんだけどな』『意地の悪い女性は見苦しいね』そうか、そうだったのね。終わったのでは無く──始まってもいなかったのだ。
私は明日この町を出て行く。皆が顔見知りで、狭くて、隠れる場所もないこの町を。あちこちに愛人を作り、自らはろくに働きもしない領主の娘。勉強にかまけて婚約者もおらず、みすぼらしく、領地経営に口を出すような小賢しい女。同じ年頃の幼馴染はさっさとくっつき、あぶれた私は弟の手前家に居座ることも出来ない。継母が嫌がるからだ。
継母が見つけてきた縁談は、遥か遠く北の辺境伯領。3年前に隣国との大きな戦があり、辛勝したものの未だ街は荒れ果てているという。その戦で先代の辺境伯閣下は戦死され、嫡男に代替わりした。
私はその辺境伯閣下に嫁ぐ。通常の婚約期間もないままに、普通ならこちらが支払う持参金もなにもなく。逆に支度金としてびっくりするほどの額が贈られた。もちろんそれが私の支度に使われることはないが、もはやそんなことに驚く私ではない。買われたのだろう──多分。
それでも良かった。息苦しいこの町を出ていけるのならば。
◇
コーラルの手には小さなトランクがひとつ。わずかな着替えと、執務で使っていた手によく馴染んだペン。それから仕事で学んだ事をメモしてまとめた日記帳。コーラルについていた侍女などいないから、連れて行く者もいない。見送りに出てきてくれたのは、勉強や執務のやり方を教えてくれた老齢の家令がひとりだけ。
「お嬢様……どうか、お幸せに」
「ダヴィデ、今まで色々なことを教えてくれてありがとう。貴方も身体を大事にね」
コーラルが手を差し出すと、ダヴィデもその手を握り返してくれた。かさついていて、骨張っていて、でも、温かい手。なんだか久しぶりに人の温もりに触れた気がした。そして温もりに触れて初めて、自分の手が冷たかったことに気がついた。
辺境伯閣下が用意してくれた馬車にひとり乗り込む。馬車はシンプルだが質が良い。貴族が財力を誇示するような装飾ではなく、辺境ならではの質実剛健な作りだ。揺れは少なく、クッションも充分。肩の力が少しだけ抜けた。
それから3週間の間、コーラルはひたすら窓の外を眺めて過ごした。領どころか、暮らしていた町から出たことさえなかったのだ。畑が変わり、見たこともない花が咲いている。馬が草をはみ、子供が籠を持って笑いながら走っている。雨が地面を濡らし、土の匂いがたちこめる。風が吹き、草原を揺らす。飽きることはなかった。無口な御者の男が時折気遣わしそうにこちらを見ていたが特に声をかけられることもなく、コーラルは人生で初めての長旅を終えた。
未練も寂しさも、何も感じなかった。