プロローグ 第1次ポメラニアンショック
那珂川 優貴は人生に疲れていた。
どんなに真面目に頑張ったって、報われやしない。頑張ったその先には既にたどり着いた人達で溢れていて、彼が辿り着いた時にはもう何番煎じかも分からない。いいように扱われて、それでもがんばって、最後に得られるものは何も無い。
そんな経験を重ねるうちに、彼は「無意味だ」と呟くのが癖になってしまった。
もちろん、周囲の人間も何かある度にそんなネガティブ発言を聞かされてはうんざりして、どんどん彼からは距離を置いていった。
知人、友人、そして家族。気がついた時には周りには誰もいなかった。
彼は1人になったのだ。
そんな自分の人生に失望して、疲れていた。
誰のせいだろう?能力に見合わない雑用を押し付けてくる上司か?近所で俺を社会不適合者とバカにするあいつか?お前は一家の恥だと指さす家族か?
…それとも、そんな自分の環境を変えようとしなかった自分か?
誰のせいにしたところで、孤独な今は変わりようがなかった。
そして心が荒み、何もかもがどうでも良くなった彼は、1人橋の上にいた。
彼は端から川底を覗いていた。しかし、先日のゲリラ豪雨のせいかいつもより水深が深くなっている川の底は、覗いても覗いても見えそうにない。吸い込まれそうな深さだった。
(これだけ水深が深かったら、痛みも感じないだろうな)
彼は明日のことなど考えていない。
ただ、どうしたら痛みなく楽になれるのか、そればかりだった。そして彼は橋の手すりに左足を掛けて登り、両足で手すりに立った。
(もし生まれ変われるんだったら、お金持ちのお嬢様の犬になって楽したいかな…)
彼は川の水の冷たさを感じながらそのまま意識を失った。
―――
…目覚めた時、優貴はなぜか芝生の上にいた。
(俺は確かに川に"飛び込んだ"気がするのだが)
それにしてもひどい頭痛がする、と思いながら彼は立ち上がり、周囲を見渡した。
彼の頭上にはやたらとキラキラ輝く木々が多い茂っていたが、妙な違和感がそこにはあった。
(木々や花々がやたらとデカくないか?)
もし彼が錯覚を見ていないとするならばエノコログサ、通称 ねこじゃらしが彼の背丈よりも高い計算になる。
彼は180cm近くあるので、それはどう考えても不自然だと分かった。東西南北をそれぞれ確認した彼は自分は森の中にいること、かつどんな植物も自分よりはるかに大きいのだと気付いた。きっと夢の中だから大きさの比率がおかしくなっているのだろうと、彼は自分を納得させた。
「フィーン!!どこにいるのー!?フィーン!!」
遠くから聞いたことのない女性の声が聞こえた。どうやらフィンという人物を探しているらしい。声がどんどんこちらに近づいてくるのを感じ取った優貴は、その声から距離を置こうと動き出した。
彼は女性とはまともに挨拶すら出来ない。高校は男子校、専門学校でも女性とはほぼ関わっていないので、女性への耐性がないのである。皆無と言っても大袈裟ではない。
しかし、声はどんどん優貴に向かって近づいてきた。
(いや、大分早歩きのはずなんだが異様な早さでこっちに近づいてこないか?困るぞ!!)
どうすればいいのかと焦っている内、優貴はその声の主に見つかってしまった。
「あぁ、フィン!ここにいらしたのね!はぁ〜、いくらなんでも悪戯が過ぎますわよ?!突然馬車から飛び出しちゃうなんて…でも無事で…無事で本当に良かったわ。ひっく」
何故か彼女は優貴を見つけた途端、ひっくひっく言わせながら泣き出していた。
(な、泣いてる?!ど、どうしようなんで、なんで1人で急に泣き出したんだよー!!)
あまりにも唐突な展開に優貴はついていけず、どうしようと慌てたが、すぐに別のことに気づいた。
(…ん、まてよ?今の状況から察するに、この女性は"俺のこと"をフィンって呼んでたのか?そしたら全然人間違いなんだが…あ、あのな、喜んでるところ悪いんだが、俺の名は…)
「キャン!」
?!
(俺の名は優貴で、フィンじゃない!人違いだ!)
「キャンキャン!!」
「あら、フィン。どうなさったの?さっき森で迷って怖い目にでもあったですか?大丈夫ですか??」
女性は涙ぐんだ目でこちらを見ながら"フィン"を心配していた。
…おかしい。なにかがおかしい。
優貴の感じた違和感は次の瞬間、確信に至った。
目の前の女性の瞳にポメラニアンの姿が映っていたのだ。
いや、まさか。いくら夢でもそんなこと、あるわけないだろ。と、試しに声を出してみた。
「ワン!」
「フィン?」
…女性の瞳の中で、確かに1匹のポメラニアンが吠えていた。
そして気付いてしまったのだ。
那珂川優貴はポメラニアンになってしまったという事実を。
これは1度人生に失望し、なにもかもどうでも良くなっていた青年が、1人の女性を救うために"変わる"ための物語である。