なぜ彼は作家として認められないのか
「つまらないよ つまらないんだよ君の書き物は 全てにおいて塵のようだ 美しさも儚さも凄みもない もう書くのはよしたらどうだい 紙と万年筆の無駄遣いだよ」
劇場版アニメの大ヒットなどで社会現象にもなった漫画だけに、ご存じの人も多いだろう。その「鬼滅の刃」に登場する元小説家の鬼、響凱は、自作を知人から上記のように酷評されて逆上し、彼を殺す。この知人は編集者だったと一部で言われているので、ここでは彼をプロの「編集者」としておく。なぜ響凱の原稿はこのように酷評されたのか。
響凱は、彼にしか書けない唯一無二のテーマを持っていた。踏みつけられた原稿にそれは書かれていただろうか? 人間をやめて鬼になった者の告白──。「これは実話だ」と明かして読ませていたら、編集者氏はあのように悪しざまに罵倒したかどうか。
察するに、書けなかったのだ。そして肝心な何かが原稿から抜け落ちていることを、編集者は見破ったのだろう。
確かに「いかにして自分は鬼になったか」という話はそう簡単には書けない。実話の体裁を避け、名前や設定を変えたフィクションに仮託したとしても、陰険な上司の鬼舞辻無惨に見とがめられれば下手をすると殺される。だから書かなかった(ペンで鬼舞辻の役に立てるほどの能力があったなら最初から鬼になどなっていない)。恐らくそんな自分を、臆病で卑怯だと自覚してもいた。そういった心の揺れは往々にして文面に表れてしまう。
そして辣腕の編集者ともなれば、文章に表れるそれらの揺らぎを決して見逃さない。「こいつには他に書くべき何かがあるな?」と嗅ぎつけてしまえば、それを書かせるのが彼の仕事だから、きつい言葉も出るだろう。さらには文章の先に、響凱という人物に何が欠けているかが見えてしまっても不思議ではない。
響凱は本当に文学を愛していたのか。
少なくとも、芸術家としての自我と保身とを天秤にかけた上で、前者を選ぶことはできなかったようだ。だが実は上司の迫害以上に、「人を捨てて鬼になった自分」と正面から向き合うことを彼は避けたのではないだろうか? それは、文学が本来はそこから始まるべきはずのものだ。
そうした「文学への愛」の欠落、腰の引けた姿勢が、編集者氏には一目瞭然だった。だから職業柄「すべてにおいてゴミのようだ」と言わずにいられなかったのだと思う。しかし、「もう書くのはよしたらどうだ」とは言えても、「つまらないのを承知で書くくらいなら」とまで付け加えなかったのは、果たして優しさなのかどうか。
文学は時に世界を変えるが、同時代の亜流レベルの作品がそんな奇跡を起こすことなどあり得ない。世上の既成概念におもねろうとして書かれるものは、つまらない上に毒にもなり得る。仮に編集者氏が文学を愛している人間(鬼でも構わないが)だったとするなら、そうしたまがい物に反吐が出るほどの嫌悪を感じても無理はない。
とにかく、そんなゴミのようなものを読まされ、正直に感想を述べたら逆ギレされて殺された編集者氏は災難だった。
よって、竈門炭治郎少年は床に散乱した原稿用紙を無理に避けてやる必要はない。命のやり取りをしている場なのだから、踏みつけにして一向に差し支えない。ついでに「今度生まれてくる時にはもっとマシなものを書け」とでも言ってやるのが本当の優しさだと思うが、そこはやはり少年漫画ゆえの限界なのだろう。
響凱に限らずこの漫画に登場する鬼たちは、個性的に世の中を泳いでいるように見えて結局のところ、ボスのコントロール圏から決して逸脱しない。この傾向は主人公側=人間側にも共通しているようで、各キャラがこういう「個性の搾取」に甘んじて疑いもしないところは、良くも悪くも少年漫画だと感じさせる。