「魔女の苛立ち」
(……ん……で……ぉの……人は……ぁ?)
アレンは既に思考がその役目を失いかけている中突然目の前に現れた謎の女が魔女に対して言った『アレンを助けて欲しい』という言葉が信じられなかった。
それはこの彼自身にとって都合の良過ぎる出来事に対する疑問だけではなく、人々に裏切られた自分に突然救いの手を差し伸べてくれた存在が現れたことへの不信だった。
既にアレンには人を信じる力は失われていたのだ。
(あぁ……そ……っか……こえは……ゆ……め……ぁんだ……)
アレンは目の前に現れた白い女を幻と断じた。
余りにも多くの者に裏切られ、終いには生死すらも玩弄する魔女によって苦しめられた自分の心が無意識に願った他者からの憐憫を求めた故の産物こそが目の前の女だとアレンは直感的に感じた。
いや、そうとしか考えることしか出来なくなっていたのだ。
(……れも……あたた……か……な……)
だけどその幻想かもしれない優しさがアレンにとっては救いに感じられた。
仮令幻でも全てから捨てられた自分を見てくれる存在がいる。
それがアレンの心の中の絶望を少しであるが和らげた。
「本当に運がいい―――……
―――いえ、間がいいわね?
あなたのせいで彼の絶望が薄まったわ」
「………………」
少年とは対照的に魔女は忌々しさと苛立ちを深めた。
「……はい。でも、それであなたが彼をこれ以上苦しめる理由はなくなったはずです」
「ちっ……!」
「……ぇ?」
魔女の常人ならば恐怖に駆られるであろう自分への嫌悪を受けながらも女は悪びれることなく平然と自分がこの場に姿を現した理由を明かした。
「あなたにとって一人の人間から絶望を手に入れられる機会は一度きり。
それはあなたがその一人を苦しめる必要性が失われる瞬間でもあります。
あなたは残酷で合理的ですが残虐で下劣ではありません」
「……本当にムカつくわね……本当にあなた……!!」
女のその魔女の本質をついた指摘に魔女は自らが掌の上で踊らされていたことへの怒りを露わにした。
(……の……んなは……)
同時に死にかけていた。いや、少しばかりの思考を取り戻したアレンの心にも再び怒りが蘇った。
女は自分が嬲られていたのを知りながらそれを黙ってみていた。
そして、終いには自分を助けるためにこの場に姿を現した。
冷静に考えてみれば必要不可欠な出来事であるが、しかし、苦しめられその憎悪で頭が一杯になっているアレンにとってはそれは独善的なものに感じられたのだ。
アレンの目からすれば女の在り方は傲慢なものでしかなかった。
「……まあ、いいわ。
この際、あなたのそのずるい性悪さには目を瞑るわ。
それで?その人を私が助けて私に何の得があるのかしら?」
魔女は女に対する忌々しさを胸の奥へとしまい、女に対して値踏みするかの様に訊ねた。
少年を生かす理由などない魔女からしてみれば女の申し出には興味はあったが惹かれることはなかった。
しかし、それでも話だけは聞こうと決めたのだ。
「……はい。あります」
「……何ですって?」
魔女の問いに対して女は迷うことなくそう答えた。
「……あなた自分が何を言っているのか分かっているのかしら?
あなた、魔女に取引を持ちかけているのよ?」
魔女は訝しむのでもなく、怪しむのでもなくただ信じられずに確認してきた。
女のことをよく知る魔女からしてみれば女の言葉はあり得ないことだった。
「……はい。もう私の心は決まっています」
「……?」
「………………」
魔女の問いに女はただ決意を込めてそう言った。
その姿に魔女は呆気に取られ憎しみに再び染まりそうであったアレンすらも理性を取り戻した。
「……ふ~ん?
じゃあ、言ってみなさいよ?
一人の人間を助けるためにあなたが魔女に差し出す対価を」
我を取り戻した魔女は取引そのものよりも女が差し出そうとしてる対価に興味を抱いた。
そこには目の前の女への嫌悪感も僅かに含まれていたが、同時にこの女が魔女である自分に取引を持ちかけてきたことへの優越感、そして、女が少年を助ける為に支払う代償への好奇心があった。
それはまるで多くの支配者たちが自らが支配する者たちから宝物を献上される時に感じるものと同じものだろう。
ただし、今回ばかりは支配者ではなく反逆者、征服者、侵略者たちが感じていたものの方が近いが。
そして、女は言う。契約の対価を。
「……この少年を生かせば、十五年後に一万人以上、いいえ……この国の全てが絶望することになるでしょう。
その絶望をあなたにあげます」
一人を救うために女は数え知れぬ人間を犠牲にすることを魔女に告げた。