六話 ある青年の物語
これは真喜が転移する、ほんの少し前の出来事である。
日本にある小さな村、中少陸村。村は閑散としていて、木造建築がぽつぽつとある。村の入り口には部外者立ち入り禁止と書かれた看板が立っている。
そんな村で生まれた青年、鬼村剣斗は、今日もいつも通り、暗くて狭い倉庫の中に閉じ込められていた。
1日一回の食事であるパンをちぎり、バケツにくんである水を手ですくう。
こんな生活も慣れてしまえば、どうってことない。1日一回の食事も慣れたし、暗いところでも、多少は見えるようになった。
剣斗が食事を終えたところで、いつぶりだかわからないが、倉庫の扉が、錆びた音と共に開かれた。
「うっ」
眩しい光に思わず目を瞑る。ようやく目が慣れてきたところで、4人の人が立っているのが見えた。
「おい、でてこいよ」
4人のうちの1人が、剣斗の手を引っ張って、外に連れ出した。
さらに目が慣れてきて、ようやくひとりひとりの顔がはっきりした。はっきりしたところで、誰だかわからないのだが、全員剣斗と同じくらいの年齢のようだ。全員髪を色とりどりに染めている。
「すわれ」
青年たちはニヤニヤしながら真喜の周りを囲む。
「座れっていってんだろう、が!」
ひとりの男が剣斗の腹を思い切り殴る。剣斗は痛さに腹を抱えてしゃがみこんだ。
「やっと座ったな。ったくてまかけさせやがって」
「お仕置きが必要ですねっと」
しゃがむ剣斗に向かって足蹴りを入れる。剣斗は無抵抗のままうつ伏せで倒れてしまう。
その後はもう蹴られるだけ蹴られて、身体中痣と血だらけになった。
どれくらい時間が経っただろう。気づいたら男たちはもういなかった。八つ当たりにも飽きたのだろう。
剣斗は口の端についた血を拭って立とうとするが、体の痛みが引かなくて、しばらくうずくまった。ようやく痛みが引きかけて、戻ろうとした時、
「おい、なぜ倉庫から出ている」
そこにはこの町の村長である、しわくちゃの男と、その息子のガタイのいい男がいた。
「誰が出ていいと言った?お前みたいなよそ者の顔なんて拝みたくないんだ。さっさと倉庫へ戻れ」
出てきたくて出てきたわけじゃない。
「なんだその目は、村長様に向かって失礼であろうが!」
ガタイのいい男に胸倉を掴まれ、睨みつけられる。
「……」
「気味の悪いやつだ。さっさと戻れ」
そのまま後方に投げ飛ばされ、男たちは去っていった。剣斗はおとなしく倉庫に戻り、扉を閉めて再び暗闇の中で過ごす。
虫が足をつたう。バケツの水で血を洗い流し、口をゆすぎうがいをする。
一通り終えて、剣斗は瞼の裏を見つめるーー
「お母さん!今日の晩御飯は??」
「今日はカレーライスよ。もうちょっと待っててね」
「はーい!!」
まだこの村に越してきたばかりの頃、離婚した母親のつてで、この村に住まわせてもらうことになった。といっても離婚したのはだいぶ前で、父親の顔すら剣斗は覚えていない。姉がいたらしいのだが、父親側についていったのだという。
「カレーすごくおいしい!やっぱりお母さんのカレーが一番だ!」
「あら、ふふ。私以外のカレー食べたことあったかしら」
「ない!だから今んとこお母さんのカレーが一番!」
「暫定ってことなのね。まぁ嬉しいわ。おかわりは?」
「おかわり!!」
そんなたわいもない会話も、平和な日常を過ごすことも、あの日以来できなくなってしまった。
「おかあ…さん……?」
突然倒れた母親に、剣斗は何度も呼びかける。肩をゆすり、背中を叩くが、一向に目を開けてくれない。村の人たちに助けを求めた頃にはもう遅かった。亡くなっていた。
過労だった。
葬式は行われず、密かに埋葬された。小さな小さな墓石。雑に執り行われたものではあったが、それだけでも十分いい方だった。
剣斗は泣いた。泣いて泣いて、泣きじゃくった。自分の泣き声しか聞こえないくらい、大きな声で泣いた。
「やっと死んだかいあのよそもんは」
「厄介もん残していっちまいやがって、あの子はどうすんだい」
「適当に飯でも食わせとけばいいだろう」
「それもそうだ」
村人たちのヒソヒソした会話。そんな声を搔き消したくて、何も聞こえないように、必死に泣き喚いた。
うるさいと殴られても、倉庫に投げ捨てられても、目を擦って、耳を塞いで、必死に、必死に泣いたーー
どうやら眠っていたようだ。母親の夢なんていつぶりだろう。少し外に出て、思い出してしまった。
あの時はお母さんがそばにいてくれれば、それでよかったのにな…
「あれ……?」
なんだろう…これ…。この生活にも慣れて、暗いとこも平気になって、孤独にも耐えられるようになったのに。なんで…なんで今になって…
涙が止まらないんだろう………。
「お母さん…お母さん…」
母親のことが脳裏に浮かぶ。何気ない仕草も、柔らかい笑みも、暖かい手の温もりも。
『どうしたの?』
胸が苦しいよ。
『何があったの?』
涙が止まらないんだ。
『大丈夫?』
こんな生活もう嫌だよ…。
痛い、寒い、辛い、怖い、悔しい。
『私がついてるわ』
もういないじゃないか。
剣斗は母親が死んだ時以来に、顔をくしゃくしゃにして、涙を流した。いや、お母さんが死んだ時は、もっと泣いた。
あの時は泣き喚いたけど、今は声を抑えながら、それでもふと油断すると、大きな声が出てしまいそうになる。それでもやっぱり抑えられなくて、こんな声出してると、真っ先に村の人が来そうだな。
すると扉の向こうから案の定声が聞こえてきた。最初はなんていってるかわからなかったけど、わかってもどうせ怒られると思ったのだが、様子が違うらしく、耳を傾ける。
「誰かいるの?」
どうやら怒ってないらしい。どころか剣斗が倉庫にあることすら知らない人だった。
聞き覚えのない、綺麗な女性の声。どことなく母親に似ているような。
「ねぇ、誰かいるの?」
再び問いかけてくる。しかし人と話してはいけないと、村の人達に言いつけられているので、扉をドンと一回叩くだけにした。
「やっぱりいるのね。君の名前は?」
しかし返事は返ってこない。
「ねぇ聞いてる?なんで答えてくれないの?」
それでも返事はない。
「大丈夫、私だけよ。" 私がついてるから " ね?返事して」
「…………お母さん?」
「えっ?」
思わず反応してしまった。お母さんな訳ないのだが、あまりにも似てて。
「やっと返事してくれたね、それで、君の名前は?」
この人は村の人ではないようだ。村の人なら嫌でも知っているだろうし、
「剣斗…鬼村剣斗」
「そっか……」
すると勢いよく扉が開かれた。そしてそこに1人の女性が立っていた。暗くてよく見えないが、黒髪をなびかせ、その目の端にはキラリと光るものが一粒あって、
「いこう?」
その女性は夜空を背景に、剣斗にそっと手を差し出した。
「行くってどこに」
女は無理やり剣斗の手を取ると、微笑みながら言った。
「ここじゃないどこかだよ」
辺りはすっかり暗闇で、月明かりが多少あるくらいだ。この村には街灯もないし、月がなければ本当に真っ暗闇だ。
「さあ、早く逃げよう」
「逃げるってどこに」
「どこだっていいじゃないか。どこへだって行けるんだから」
そうして手を引かれて、この村の出口を目指して2人で走る。彼女の後ろ姿を見ていると、何か懐かしいような、前もこうして後ろをついていった気がしてくる。
「あなたは一体…」
「私はね、君の」
「そこまでだ!」
急な怒鳴り声で2人は足を止める。その声とともに周りに多数のランプの光が現れて、すでに何人にも囲まれていることを悟った。
「私が引きつけるから、あなたはその隙に逃げて」
「引きつけるってどうやって?」
「いいから」
すると彼女は目の前に向かって走り出した。
「取り押さえろ!」
村長の指示に従い、数人の男が彼女を押し倒して、取り押さえる。
なんなんだ。全然何にもないじゃないか。でも少し隙ができた。今なら逃げられるけど…
「その女は、殺しておけ」
殺す?そんなことが許されていいはずが…いや。ここは日本であって日本じゃない。1つの村で、あの村長の言葉は絶対だ。
「さあ逃げるがいいさ。この女は今から、お前のせいで死ぬ」
村長は高笑いをして、指示を出す。
「やれ」
彼女は男たちに手足を押さえつけられ、首をぎゅっと閉められる。それでも彼女は俺の方を向いて、
「剣斗…にげ……て…」
無理だ。
剣斗が彼女の方は走り出そうとするも、周りの男たちに押さえつけられて、腹に思い切り膝をもらう。
なんで…なんでいつも、いつもいつもいつも。
「僕が何をした…ただ生まれてきて、生きているだけなのに。なんで…なんでだよ!」
この村は僕から全てを奪う。
母親も、生き方も、幸せも、何もかも全て。そして今でさえ、助けてくれようとした人を、殺そうとして…ようやく助けてくれる人が現れたのに……。
「姉さん?」
ふと湧いた疑問。僕を助けてくれる人なんて、いるはずがない。もしいたとしたらそれは…。
「剣斗…にげ……て…はやく」
そうか、だから僕を助けてくれるのか。
「僕から全てを奪って、姉さんまでも奪おうとして、許さない。絶対に、許さない!」
周りの男たちを振りほどいて、剣斗はまっすぐに彼女の方へ向かう。
村長はナイフを取り出して、彼女の首元はそれを持っていき、憎々しい汚い笑みを浮かべて、ナイフを振り下ろそうとする。
「やめろー!!!!」
その瞬間、剣斗の周りの風景が真っ白になる。地面も無くなって、剣斗は浮遊感に包まれて、そのまま意識を失いそうになる。
最後に見えたのは、姉かもしれない、僕を助けてくれた人の、儚げで優しい笑みだった。