恋が友情に打ち克つ日
気になる人がいた。
一つ上の先輩で、特に人を繊細に描きだすのがとっても上手くて。
言葉にできないほど、その絵はきれいなのだ。
自分が絵を描くなら、あんな絵を描いてみたい。
そして、少しでも絵について話がしたい。
でも、私は絵を描いたことがなくて、いつか上手くなったら話しかけてみようと思って。
いつの間にか、一月が過ぎていた。
だれにでもいいから話したい。そう思って教室を見回すと、暇そうにスマホをいじっている友達が、偶然顔を上げたところに目が合った。
一番後ろの席だからって、授業中でも好き放題いじっていたのだろうけど、休み時間まではこの私が許さない。
「ねぇ、リョウコちゃん」
「どしたの、ミズ」
リョウコちゃんはスマホを見たまま、おざなりな返事をしてきた。
「どうしても、話したいことがあるの」
「んー?」
私の鬼気迫る感情が伝わったのか、リョウコちゃんの目線はこちらを向いた。
「いま聞かないとダメ?」
「今すぐ!」
「……しょうがない、このリョウコちゃんに話してみなさい」
「さっすが!」
持つべきものは親しき友人だ。
「実はね――」
「と、言うわけ。……こんな自分が本当に情けない」
その一部始終をリョウコちゃんに話すと、彼女は手元のスマホをくるくる回しながら口を開いた。
「話しかけちゃえばいいじゃん。それでいいじゃん」
「そうじゃなくてさ」
「その先輩、美術部なんでしょ? 入っちゃえばいいじゃん。話しかける機会も増えるしさ」
「そういうアドバイスとかを求めてるんじゃないのー! そんなのわかってるのー!」
私の咆哮に、はあ、とため息をつかれた。
「ミズはさ、本当にそういうとこめんどくさいよね」
「むぐぐ」
分かっている。
今をどうにかしたい。何をすればいいかなんてわかってる。けど、その一歩が踏み出せない。
「背中を押して欲しいんでしょ」
「むぅ」
口に出すのも憚られるが、そのとおりである。
「いいよ、別に。アタシも漫画好きだから、絵に興味がないわけでもないし。美術部の見学、ついていってあげる」
「ホント!? ありがとう! 好き!」
思わずリョウコちゃんの手を握りしめてしまった。
「はいはい」
その手は一瞬で払われてしまったけど。
リョウコちゃんを連れて、美術部の前まで来た。あとはドアを開くだけなのに、それができない。
「ほら、ミズが行くんだから、ミズが開きなさいよ」
「………………」
「もうそろそろ、一時間くらいになるよ」
この先には、美術部がある。
果たして、絵を描けない私が入ってもいいのだろうか。
この門をくぐる資格は、私にはないんじゃないか。
「ねぇ、ミズってば」
覗き込んできたリョウコちゃんから顔を背けると、駆けだした。
「あ、ちょっと!」
「今日はやめとく!」
駆け抜けて、駆け抜けて。
とにかく離れよう、と駆け抜け切ったところで、終着点の屋上についた。
何も変わらない。
入学したころから、この屋上にはよく来ていたけど、その景色はずっとかわらない。
大きな電機屋さんの看板も、夜も煌々としているコンビニも、ちょっと色の目立つ一軒家も。
たった一年では何も変わらない。
けれど、私にはたった一年なんかじゃなくて、もう一年。
もう、三分の一が過ぎてしまった。
「やっぱり、ここに、居た」
入口の方から、絶え絶えな声が聞こえた。
振り返れば、息も絶え絶えなリョウコちゃんが、缶ジュースを両手に持って、壁にもたれかかっていた。
「桃とグレープフルーツ。どっちがいい?」
リョウコちゃんは、笑顔でその二つの缶を見せびらかしてきた。
「……強いて言うなら、桃かな」
くぴくぴと、微妙な味のジュースを飲みながら、リョウコちゃんと一緒に屋上からの風景を眺めていた。
このきんきんに冷えたジュースはきっと、下の自販機で買ってきたんだろうけど、破滅的においしくない。喉を通る冷たさだけがこの飲み物の救いなんだけど、それなら普通のオレンジジュースの方が私はいいと思う。わざわざ文句を言うことはないけど。
「それでさ」
「なあに、リョウコちゃん」
リョウコちゃんはコン、と屋上の手すりの上に缶ジュースを置いた。
「べつに、逃げなくてもよかったんじゃない」
「私も、そう思うけど」
「じゃあ、なんでまた」
一言で言い表すのは難しい。
恥ずかしいだとか、情けないとか、自分のことがよくわからないとか、時期尚早とか、そんな感じなんだけど。
「その、リョウコちゃんはさ」
「うん」
「なんていうか、自分の感情がわからない、ってときはない?」
「……さあ、どうかな」
何でもかんでも、すぱっと決めちゃうリョウコちゃんにはもしかしたら縁遠い感情なのかもしれない。
「本当に、先輩の絵はすっごく素敵なんだ。人間をあそこまで優雅に、繊細に、正確に描いてるんだもの。どこまでも素敵で、憧れた。絵を見てるだけで、ドキドキするもの」
「へぇ」
「……でも、絵を描けない私はそんなこと言ってもいいのかな、って少し疑問でもあってさ。好きなのか、さえわかんない」
「本人に直接聞いてみれば?」
リョウコちゃんはあっけらかんと言うけれど。
「でも、本人に直接聞いちゃうと。きっと、この感動はなくなっちゃいそうでさ。だから、ためらっちゃうの」
「うん」
「悩んで、悩んで、その末に逃げ出しちゃうくらい」
「ま、気持ちはわかるけど」
リョウコちゃんは手すりの缶をくるくると回し始めた。
「でも、それってためらった末の現実逃避でしかないよね。結局、悩むか話しかけるか、しかないんだからさ。悩んでも解決しないんだから、話しかけるしかないもの」
今日のリョウコちゃんは、実に冷たい。手に握った缶の温度を忘れるくらいに。
「……ごめん、ミズのことを責めるつもりはなかったんだけど」
「いいよ。きっと、リョウコちゃんの方が正しい」
現実逃避でしかなくて、悩み続けることには本当に意味がない。
「それでも、どうしても、声をかけられなくて」
声をかけようとして、ためらってしまう。
ドアを開けようとして、手が引っ込む。
「それは、きっとさ」
リョウコちゃんは一度、ためらったように口を閉じて、それから重苦しくその唇を開いた。
「恋を、してるんじゃないかな」
その言葉の意味は知っている。
でも、この気持ちは本当に恋なのか。
「どうしてリョウコちゃんはわかるの」
「……なんとなく」
彼女は、知っているのだろう。その感情を。ソレに振り回される私を見て、恋をしているに違いない、と感じたのだろう。
自分よりも先を知っているリョウコちゃんが、どこか大人に見えた。
だけど、この気持ちが恋だったとしても。
「でも、さ。先輩はどう思うんだろう」
あなたに恋をしています、なんて伝えて、戸惑わないはずがない。
「いいじゃない、別に。好意をぶつけられて困惑はすれど嫌がる人なんていないし」
「そう、なのかな」
「そういうもんよ」
リョウコちゃんの言葉は力強い。
いつだって、自分に自信があって、決断に迷わないからだろう。
夕陽のせいなのか、その横顔はとても輝いて見えた。
「リョウコちゃんは、いつだって私の背中を押してくれるよね」
私の言葉を聞いて、その横顔が一瞬だけ陰ったようにも見えた。
「……自分の背中は押せないからね」
「どういう意味?」
「別に、何でもない。それより、こういうのは早い方がいいんじゃない?」
わかってる、とうなずいて。
リョウコちゃんは、微笑んでくれた。
「行ってくるね」
「ん。待ってるよ」
意味もなく話しかけるわけじゃない。
絵について、語るわけでもない。
ただ、このくすぶっていた感情をぶつけるだけ。
そう思うと、触れることすらできなかった美術室の扉は一瞬で開いた。
中には、先輩が一人で絵を描いていた。
「おや、いらっしゃい。美術部に何か用かな?」
眉目秀麗、と世間では呼ばれるような男の人だった。きっと、クラスのみんなはかっこいい、というのだろう。
今も筆を握って絵を描いている最中だった。もしかしたら、お邪魔だったかもしれない。けれど、この気持ちは伝えないと。
「先輩に話があってきました」
私の声を聞いて、先輩は筆をおいてくれた。
「どうぞ。座るといい」
「ありがとうございます」
先輩が引いてくれた椅子に、座り込む。
不思議と、緊張している、という自覚はない。
「それで、今日は何の用かな?」
「私、先輩に、恋をしている気がするんです」
先輩は驚いたように、きょとん、とした顔をした。
「気がしている、っていうのはどういうことだい?」
「自分でも、わからないんです。でも、伝えないと、と思って」
先輩は分かったように、一度うなずいてくれた。
「聞いてもいいかはわからないけど、理由はあるのかい」
私から伝えるつもりだったんだから、ダメな理由なんてない。
「私、先輩の絵が本当に好きなんです」
「例えば、どこが?」
どこが、と聞かれて理由は分からないけれど、少し胸が苦しくなった。
「例えば、教室の中で佇む子の絵、とか。後ろ姿だけなのに、その子が本当に現実にいるみたいでびっくりしたんです。それに、廊下にもたれかかる姿の質感とか、帰り道の跳ね上がる髪とか、手すりにもたれかかった姿とか――」
「ちょっと、いいかな」
先輩の手が、目の前にかざされた。
ちょっと、ヒートアップしすぎたかもしれない。
「と、とにかく。後ろ姿だけで圧倒的な人間感を描く先輩にあこがれたんです」
「それは、ありがたい。とてもありがたいね」
先輩は困ったような笑顔を浮かべていた。
それはそうだろう。いきなり来て、恋をしている理由なんて話されても困るだろう。
「ご迷惑、でしたか」
「いや、全然。むしろ、僕の絵を見てくれただけでもとてもうれしいよ。けどさ」
先輩は大きく息をついた。
「それは、僕じゃなくて、僕の描いた絵が好きなだけだと思う」
「それは、その通り、なんですけど。そうじゃなくて、なんていうか、先輩の描いた絵を見ていると、その、息が詰まるっていうか。ドキドキするっていうか。この気持ちはきっと、恋なんじゃないか、って思うんです」
言葉にするだけで、とぎれとぎれで。たどたどしくて、形にするのが精いっぱいだったけど、それでも今の気持ちを言いきれたと思う。
「そうか。そこまで言ってくれるのは本当にうれしい。でも、繰り返しになるけど、その恋の対象は僕じゃあなくて、僕の描いた絵に対してだと思うんだ」
そういいながら、先輩は描きかけの絵に視線を戻した。
「実は、僕の描いた絵にはモデルがいるんだ。後ろ姿だけの、それも一度見ただけの」
「モデル?」
「そう、下の名前だけははっきりと覚えてるんだけど。たしか――」
絵を見ているときのドキドキと、先輩とが重なり合わないと感じていたけど。
その名前と、絵の中の後ろ姿を重ね合わせて。
「――――そっか」
ようやく、この恋に気が付いた。
階段を三つ飛ばしで駆け上がる。
『いい笑顔だ。君をモデルにしたい気分にもなったけど。そんなことより今は大事なことがあるだろう?』
廊下も人の眼なんて気にせずに突っ走る。
『僕のことなんて気にせず、言ってくると良い』
屋上の扉に手を当てると、力任せにガン、と開いてやった。
屋上には、ベンチに座っているリョウコちゃんだけが居た。
音に驚いたのか、私に驚いたのか、どちらにしても、リョウコちゃんの顔は完全に不意を突かれた、という顔だった。
「ミズ、早かったね。もしかして、告白成功した?」
リョウコちゃんの顔は祝福してくれているのだろう。
でも。
「違う」
体は呼吸に忙しい。でも、彼女にこの言葉をしっかり伝えないと、心臓が休めない。
「じゃあ、失敗しちゃった?」
「違うの」
「保留、なんて情けない答えをされたとか?」
先輩にはそもそも、告白なんてできていなかった。
好きな気がする、なんて失礼なことを言っただけ。
ちゃんと、後で謝らないといけないだろう。
「そうじゃなくて。聞いてほしいの」
でも、今はそんなのは後回し。
リョウコちゃんの目の前に立つ。
至近距離まで来ても、この気持ちは収まらなくて、むしろ高まるくらい。
「どうしたの、ミズ」
リョウコちゃんの顔は夕陽に照らされてわからないけど、私の顔はきっと真っ赤だと思う。
だから、この気持ちはまっすぐに伝えないと。
「私、リョウコちゃんのことが好き」
「私の背中を押してくれるところが好き。自信があるところが好き。悩みを聞いてくれるところも好き。見た目も余すところなく、歩き方だって、しぐさだって目で追ってしまうくらい好き」
ほかにも、好きなところはいっぱいある。
それを伝えようとして、顔を背けられてしまった。
「ねぇ、ミズ」
「…………なぁに」
「重いよ」
「私の気持ちが?」
「体重が」
「な」
女の子になんてことを言うんだ、と言おうとして。
ようやくリョウコちゃんに覆いかぶさるようになっていたことに気づいた。
「とにかく、どいてほしいんだけど」
「……どかない」
「どうして」
重いと言われたのもあるけど。
「どうしても、答えを聞きたいから」
垂れ下がった自分の髪の毛が、夕陽を遮って、リョウコちゃんの顔がよく見える。
「どうしてこんな結論に至ったかは知らないけど」
その顔は真剣で、でも悲しげで。
「アタシにはわかんない」
「アタシだってミズのことは好きだけど」
「目で追ったりもした。告白しに行く、なんていったときはさみしくなる、とも思った」
「でも、アタシの好きは恋かどうかなんてわかんない。きっと、ただの友情かもしれない」
「だから、答えられない。ミズのことを――」
いつもの自信のある彼女はどこかへ消えて。
自分の気持ちに迷う少女が、そこにいた。
「でも、私はリョウコが好き。見てるだけでドキドキする」
さっきとは逆で、彼女が迷っていて、私はまっすぐに言葉を伝えていた。
「きっと、女友達が恋人になるなんて普通じゃない」
彼女は、ようやく、といったくらいの小さな口を開いた。
「でも、私にはこの気持ちを伝えることは普通なの」
観念したように、彼女はため息をついた。
「ねぇ、ミズ。ちょっと髪を上げてくれる?」
片目をつむりながら、彼女は私の髪の毛をうっとうしそうにしている。
「ああ、ごめんごめん」
言われるがまま、左手で髪をあげようとしたとき。
唇を湿った風が通り抜けた。
「――――」
「どきなさいよ」
片手を上げたままの私は、そのままこてん、とベンチに倒された。
彼女はしわになったスカートを少し伸ばすと、そのまま立ち上がった。
「ほら、行くよ、ミズ」
「ちょっと待って、今のってどういう意味?」
「何よ、初日からそれ以上を望むなんてよくばりさんね」
それだけ言うと、彼女は屋上から姿を消した。
「ちょ、ちょっとまってよ!」
私はその背中をあわてて追いかけた。
もしも、今のを答えと言うのなら、あまりにも大胆が過ぎる。
少女二人の声は消えて。
ころころ、と転がる缶の音だけが屋上に残った。