エドウィン 1
「君は本気でそう思っているのか?」
「当然だ」
そう断言した俺に対し、従兄弟は可哀想なものでも見るかのような目をした。
「君は哀れな人間だな」
心底気の毒そうに眉ををよせてそう言い放った従兄弟は目の前の蒸留酒を口に含むために手にとった。グラスの氷が揺れてカラン、と高い音がした。
その日、俺は結婚が決まったディルハム伯爵家嫡男である従兄弟と酒を飲み交わしていた。少し年上の仲の良い従兄弟は辺境伯爵家出身の妻を娶ることになっていた。
「辺境伯か。貿易で財を為している君の領地から考えると悪くないな」
「ありがとう。でも、僕は彼女が辺境伯の令嬢じゃ無くても婚姻を申し込んだと思うよ」
「なぜだ?」
「なぜ?彼女を愛していてるからさ。当たり前だろう?」
首を傾げた従兄弟の言葉に正直驚いた。彼女を愛していている?本気か??
「俺達の婚姻に愛は必要ないだろう?相手の爵位と何をもたらすかが全てだ。愛だの恋だの、面倒なだけだ」
政略結婚は昔に比べるとかなり減った。それでも、一定数は残っている。俺は当然のように自分は政略結婚だと思っていた。
従兄弟は驚いたように目を見開いた。そして、しばしのやりとりののちにこう言った。
君は哀れな人間だな、と。
哀れ?俺は将来の候爵位が約束され、誰もが羨む容姿を持ち、近年伸び始めて今や飛ぶ鳥を落とす勢いで成長している鉄鋼業界を牽引する立場にある。地位も美貌も金も全てを持っている俺が哀れだと?
俺は目の前の従兄弟に対し、腹の底から不快感がフツフツと湧き上がるのを感じた。せっかくの祝いの席になんて奴だ。
「俺はそろそろ帰る」
「ああ、そうするといい。君が君を変えるような女性に出会えることを祈っているよ。僕にとっての彼女がそうであるように」
従兄弟は座ったまま片手でグラスを持ち上げ、表情をやわらげた。俺は口の端を持ち上げると仮面のような笑みを浮かべて従兄弟に目をやった。
「お気遣いに感謝する」
なぜ俺が変わらなければならない?所詮は負け犬の遠吠えだ。哀れな人間はそっちだろう?
俺は最後の最後まで、親しくしていた従兄弟がなぜそんなことを言い出したのかがわからなかった。
数日後、俺は幼なじみでクランプ侯爵家のご令嬢であるアニエスの元を訪れてお茶を愉しんでいた。アニエスと俺は正式には婚約者同士ではない。ただ、俺達は気心のしれた幼なじみであり、お互いの両親は俺達が結婚することもやぶさかではないと考えているようだった。
アニエスは俺より一つ年下で、同年代のご令嬢では一番の美貌の持ち主だとされている。政治的影響力を持つ侯爵家出身で家柄も申し分ないし、所作も教育の賜物で模範的な貴族女性そのものだ。
きっとこのまま行くとこの子と自分は結婚するのだろうな、と思う。アニエスに不満は無い。結婚すれば理想的な貴族の夫婦としての体は為し、子供も作れるだろう。まさに政略結婚には理想的な相手だ。
そんな彼女がその日は酷くご機嫌斜めだった。聞けば、彼女が気に掛けているゴーランド伯爵家の庶子のスフィア嬢が正妻である夫人から意地悪をされていると言う。
「そのゴーランド伯爵夫人はひどいね。スフィア嬢は気の毒に」
彼女の話では、スフィア嬢は継母であるゴーランド伯爵夫人に社交界デビューの妨害をされているらしい。そんなことは普通では考えられない。ゴーランド伯爵は何をやっているんだ、と思ったが、そう言えばゴーランド伯爵は婿入りだ。きっと夫人に頭が上がらず、そのスフィア嬢を迎え入れたところで力尽きたのだろうと考えが至った。
目の前ではアニエスがスフィアに対する酷い仕打ちにハンカチを咥えて噛みちぎりそうな勢いで悔しがっている。
俺は少し考えた。ゴーランド伯爵家は我がバレット伯爵家と同様に鉄鋼業界で力を持っている。ゴーランド伯爵に恩を売るのは悪くない。それに、将来は自分の妻になるであろうアニエスの機嫌をとるのも大事だしな。
「なあ、アニエス。今度の舞踏会で僕がパートナーを出来なかったら、君は誰か変わりを探せる?」
「え?お誘いは何件も来ているからすぐに見つかるとは思うけど、どうして?次回の舞踏会は都合が悪いの??」
「いや。スフィア嬢のパートナーが居ないなら、僕が申し込めば参加できるかと思ってさ」
それは至極真っ当な提案だった。アニエスはスフィアを社交界デビューさせたいと悔しがっている。ゴーランド伯爵夫人は妨害している。ならば、ゴーランド伯爵家より高位貴族がスフィア嬢にエスコートを申し込むしかアニエスの憂いを解決する方法はない。
ただ、今のところそんな奇特な考えを持つ高位貴族令息はいないようだ。ならば俺が申し込むしか無いだろう。
その考えを聞いたアニエスの眉間には一瞬だけ皺が寄った。しかし、つぎの瞬間には元に戻っている。さすがは模範的な貴族令嬢だ。
「アニエスに誘いがいっぱいあって良かった。次回はお互い別々のパートナーで参加しよう」
俺はわざとアニエスが同意せざるを得ない形で話を持っていった。アニエスがエスコートを俺がしないことを不満に思っているのはわかった。しかし、スフィア嬢をデビューさせてやりたいというアニエスの希望を聞くにはスフィア嬢を俺がエスコートしてやるしかない。
どちらにしてもアニエスに不満があるなら、ゴーランド伯爵に恩が売れるスフィア嬢のエスコートをとった方が自分には有利だ。
「わかったわ。スフィアをよろしくね」
「ああ、勿論だよ」
渋々ながらそう言ったアニエスに、俺は心配させないようににっこりと笑いかけた。
舞踏会の日、迎えに行った先に居たのは金髪碧眼の少女だった。
心の不安が顔と態度にありありと出ていて、オドオドとしている。見た目は可愛らしいし、ドレスもアニエスが譲っただけあってとても立派なものだった。もっと凜と澄まして居れば良いものを。
アニエスからは『なんだか放っておけない子』と言われていたが、なるほどなと俺は納得した。確かに庇護欲を掻き立てる少女だ。そして、市井で過ごしてきたせいか、驚くほどに表情が良く動く。いつも穏やかな笑みを浮かべているアニエスとは対照的だった。
一方、アニエスがエスコート役に選んだのはマンセル伯爵家の嫡男のアーロン・マンセルだった。俺と同じ歳で、舞踏会で顔を合わせる度にアニエスにダンスを申込みにくる男だ。
ちらりと視線をやれば、情けない程にアニエスの機嫌取りをしている。アニエスが好きなのだろうか?
哀れな男とは、恋愛感情に囚われて男のプライドを無くしたああ言う男のことだろう?
俺は先日の従兄弟の言葉を思い出し、フンと鼻をならした。
また誘っていただけますか?
帰り際にスフィアにそう聞かれて、何となく了承してしまった。俺の政略結婚の相手にはアニエスの方が適している。それはわかっていたのだが、はにかんだスフィアに上目遣いに見つめられて気付いた時には俺は「勿論だ」と答えていた。
その後、なし崩し的にいつの間にか俺のエスコート相手はスフィアになった。
アニエスは俺に「いつもありがとう。スフィアをよろしくね」としか言わない。時々それ以上に何か言いたげに俺を見つめるのはわかっていた。だが、俺は一人しかいないんだ。同時に二人をエスコートするなんて無理なんだから仕方がないだろう?
そして、アニエスのエスコート相手はいつもアーロン・マンセルの役目になっていた。