アーロン 1
アーロン視点から
いつもの苦しさは無く、今日は気分がいい。ふと外に目をやれば、出窓には彼女が好きだったピンク色のバラが飾られていた。きっと侍女のケイリーが飾ってくれたのだろう。
起き上がろうとすると胸にぐっと圧迫されるような痛みが走り、僕はゴホゴホッと激しく咳き込んだ。
くそっ、今日は体調が良いと思ったのに。
僕は諦めてベットの上からもう一度ピンク色のバラに目をやった。彼女はピンク色のバラが好きで、見つけるといつも嬉しそうに顔を寄せて微笑んでいた。彼女が花に顔を寄せて微笑む様は本当に可憐だったな。きっと美の女神も嫉妬すると思うよ。
彼女を初めて見たとき、僕は一瞬で目を奪われた。金の波打つ髪に長くクルンと上に上がったまつ毛に縁どられた茶色い大きな瞳、鼻はツンととがり高すぎず低すぎない絶妙な高さで、唇と頬はバラ色に紅潮していた。
花の妖精が現れたのだと、そう思った。それほどに彼女は可憐で可愛らしく、まだ幼い僕の心を強烈な力強さで奪ったのだ。
僕と彼女、アニエス・クランプの出会いはまだ僕が8歳、アニエスは7歳になったばかりの頃だった。父親であるマンセル伯爵に連れられて訪れたそのお屋敷は、庭園が美しく整えられた大きなお屋敷だったよ。
アニエスは庭園で一人遊びをしていたようで、僕たちが到着してから暫くして両親であるクランプ侯爵夫妻に連れらて僕らの前に現れた。そして、僕の顔を見るとにっこりと花が綻ぶように微笑んだ。
「アニエスですわ。よろしく」
まだ拙い淑女の礼をすると、アニエスはツンと澄ました顔をしてご両親の隣に座った。本人は一人前の淑女のつもりなんだろうけれど、その姿は妙に大人ぶっていてかえって彼女を子供っぽく見せていた。
アニエスは精一杯大人ぶっていたけれど、所詮は7歳になったばかりの子供だ。すぐに飽きてきた彼女は心ここにあらずといった様子で落ち着きなく足をぶらぶらさせた。そして、しまいにはスカートに施されたレース飾りを指で弄んで暇つぶしを始めた。
「アニエス。アーロンに庭をご案内して一緒に遊んできなさい」
見かねたクランプ侯爵の言葉に、アニエスは目を輝かせた。そして、自分にお客さまを庭にご案内するという重大な任務が与えられた事に大層満足したようで、得意げに僕に手を差し出した。
「うちのお庭はお母様の管理する花園がとても美しいのよ。見せてあげる」
アニエスは黄色の大きな帽子を被っていた。大きなリボンとレース飾りのついたフリフリの帽子だ。僕が庭園を案内されながらアニエスの後ろを歩いていると、一匹のてんとう虫がアニエスの帽子に止まった。アニエスは僕より一つ年下で背が低いから、僕からは赤いてんとう虫が黄色い帽子の上を歩く様子がとてもよく見えた。
「こっちがお母さまが大事にしている赤いバラで・・・どうしたの?」
アニエスは斜め後ろを歩く僕が彼女の帽子に視線が釘付けになっているのに気づき、怪訝な顔をした。アニエスからは自分の被っている帽子か見えないから気付いていないのだろう。
「帽子に虫がいるよ」
僕が教えてあげると、アニエスは途端に酷く取り乱しだした。
「どこ?やだやだ、とって!とって!!」
半泣きになりながら僕に縋り付いてきたのでてんとう虫をちょこんとつついて追い払ってやると、アニエスは少し涙の浮かんだ目でこちらを見上げ、ありがとうと少し照れ臭そうに頬を染めて微笑んだ。その笑顔をみたら、なんだか僕は自分が彼女を守った騎士になったような気がした。
アニエスのこのときの姿は本当に可愛かった。だから、僕は少しばかりやりすぎたんだ。今度はわざとアニエスの帽子に虫を付けた。最初は怖がって縋り付いてはお礼を言っていた彼女だけど、さすがに何回も繰り返されると僕がわざとやっていることに気付いたようだ。そして、今度は僕にひどく怒り始めた。
「アーロン。アニエスに何をしたんだ?酷くお前に怒ってもう二度と会いたくないと言っているそうだぞ」
翌朝、アニエスの父親からの手紙を握ったまま険しい表情をした父親に問いただされて、僕は頭を殴られたかのようなショックを受けた。二度と会いたくない?嘘だろ??
僕は正直に父親に自分がしたことを話した。こんなに怒らせるなんて思っていなかったんだ。
「先方が許してくれるかわからないが、謝罪に行こう」
父親は僕に目線を合わせてそう諭してきた。
アニエスは僕の謝罪を受け入れてくれたけど、それ以来彼女は僕がたまに両親に連れられてお屋敷に訪ねていっても最初の挨拶だけそこそこにして僕の顔を見ることも無く部屋に隠るようになった。僕は可愛いあの子の色んな顔が見たかっただけなんだ。本当にあの時の自分に出会えたら殴ってやりたいほどだよ。
次に彼女ときちんと再会したとき、僕はすぐに彼女があの子だとわかった。波打つ金の髪を美しく結いあげ、その髪に飾られた大きなリボンが特徴的な髪飾りは流行のレースと羽があしらわれた可愛らしいデザインだ。今日が社交界デビューのようで、大きなアーモンドのような目をキラキラと輝かせていたが、緊張からか口元の笑みは少し強張っている。ほっそりとした体はまだ華奢な印象が有りながら、出るべきところは出ていて時の移ろいを感じさせた。
僕は彼女の隣に視線を移した。彼女をエスコートしているのはバレット侯爵家の嫡男のエドウィン・バレット。僕と同じ年に社交界デビューした、大変な美男子で有名な奴だ。美形で体格も良く、しかも最近台頭してきた鉄鋼業界を牽引する侯爵家の嫡男。まさに非の打ち所が無い男だ。それでも僕はすぐにアニエスをダンスに誘った。
「こんにちは。一曲お相手願えますか?」
手を差し出した僕に、アニエスはキョトンとした顔をした。もしかしたらまだ嫌われていて断られるだろうかと緊張で胃を吐きそうな思いだ。アニエスはエスコートしているエドウィンを見上げると何かアイコンタクトを交わし、それから僕を見上げて少し照れたようにはにかんだ。
「私で良ければ喜んで」
僕がずっと幻想のようにとらわれていた彼女に間違いなく恋した瞬間だ。
ダンスは楽しかった。僕はあまり体が丈夫でなく、動き回るとすぐに胸が苦しくなるのでダンスは好きじゃ無かった。けれど、その時に踊ったダンスはとにかく楽して、今でも人生最高の思い出の一つだ。
僕は家に帰るとすぐに彼女にご機嫌伺いの手紙をしたため、次の舞踏会のエスコート役をかって出た。結局エスコート役は断られ、ご機嫌伺いは数回に一度当たり障りのない返事が来るだけ。それでも僕は諦め無かった。彼女が婚約さえしていなければ、僕にもいつかチャンスはくる。そう思ってご機嫌伺いをし続けていた。
そんな日が続いたある日、僕はクランプ侯爵家から来たご機嫌伺いの手紙の返事を読んで息をのんだ。そこには、次の舞踏会のエスコート役を僕にお願いしたいと書かれていた。
にわかには信じられず、僕はまず封筒が間違いなく自分宛であるかを確認した。確かにアーロン・マンセル宛になっている。
次に、差出人がアニエスであるかを確認し、最後に封に施された封蝋が間違いなくクランプ侯爵家のものであるかを以前の手紙と見比べて念入りに確認した。僕の目にはどうにも本物に見える。
僕がどんなに歓喜したか。それは想像に難くないだろう?