世界は灰色だった
世界は灰色だった。
それは莉子にとって当然の事だった。
それは莉子にとって世界の基準だった。
「おいで」
まだ成人にも満たない彼女にとって、父親が常識であり、彼女にとっては疑いようが無かった。
「一緒にケーキを食べよう」
父親が買ってきた箱にはショートケーキ、モンブラン、プルーツタルト、チーズケーキが入っていた。
箱はテーブルの上に置かれ、テーブルにはフォークも皿もなかった。
父親はショートケーキに乗っているクリームを莉子の指につけさせた。
それを細い目でしばらく見つめた後に、お腹を空かせた動物のように口に含み、舌を絡ませた。
こうなってしまったのは3年前、妻と離婚した時からである。莉子が母親を失った時からである。
莉子は離婚の理由を知らなかったが、喪失感を彫刻にしたような父親の表情は、当時小学生だった莉子の目にはっきりと映っていた。
3年が経った現在、父親は近隣の人たちには良き父に、社会では良きビジネスマンとして評価されていた。学校行事やPTAにも参加し、酒は飲まず、仕事が終わればまっすぐ家に帰り、残業はあまりしなかったが、それでも仕事が遅いと周囲から揶揄される事は無かった。
しかし、同時にこの儀式が行われるようになり、3年経った今も定期的に続けられている。
今度はモンブランを腕につける。ノンスリーブの服を着た莉子の腕は線を敷かれたようにクリームがついていた。それをなぞるように、ゆっくりと父親は舌を這わせた。
莉子はこのような儀式が初めて行われた時に、戸惑いはしなかったものの抵抗はしなかった。
ただ思考を続けていた。
押しのける事はできる。
でもそうすれば父はどうなる?
母という拠り所を失ってしまった。
私が拒絶すれば父は壊れてしまうのでは?いや、もうすでに父は壊れているのか?しかし普段はそんな事はない、仕事に行き、私を学校に通わせてくれる、ご飯を食べさせてくれている。成績が良いとほめてくれる。悪さをすれば叱ってくれる。
そうだ、何よりも仮にこれ以上父が壊れてしまったら…。
私の家は、本当に壊れてしまう。
母の事は分からない。分からないけど、だから希望を持ってしまう、いつか帰ってくるかもしれないと。その時まで家がなくならないようにしなくちゃ。奇跡を信じて。奇跡?私はもう滅多に起きないものだと考えてる?もう戻ってこない?希望は?叶わないなら絶望?どうしようわからないわからない。
次第に莉子は考える事を放棄した。
ただ父親の儀式が終わるまで、部屋の壁をただじっと見つめるようになった。
白いはずの壁は、灰色に見えた。