自殺志願者は後悔する
屋上の縁ギリギリでたっぷり三〇分は突っ立った末、ついに俺は躊躇いながら、最後の一歩を踏み出した。
その先に、いましがたまで踏みしめていたコンクリートの床はなく、だから俺の体は傾き、落ちる。
落下感と浮遊感が不快だった。
時刻は朝の六時半。朝焼けと、駅前のビル群の窓に反射するキラキラした太陽の輝きが遠くに見える。
禄な人生じゃなかった。
子供の頃から勉強も運動もできず、性格も暗く、人から見下されて生きてきた。高校は偏差値の低い近所の公立に行き、卒業とともに地元の零細企業に就職した。十五年勤めたが、万事要領が悪く仕事ができないので上司や先輩には疎まれ、後輩には馬鹿にされた。
ある日、家賃三万円の狭く汚いアパートで、コンビニ弁当を食べているときに気付いた。自分の人生に楽しいことが何もない。
恋人も友達もおらず、趣味もなく、生活に余裕もない。職場では誰からも頼られず、全員から嫌われている。もう何年も、笑った記憶がない。
何の意味があって俺は生きてるんだろうか。
きっとこれからも何十年と辛いだけの日々が続くというのなら、それでも生きる必要があるのか。
「死のう」と決意するまでに、それから一年掛かった。ある日、自分ではそれなりにうまく仕上げたつもりの仕事を上司に手酷くけなされ、その様を陰から後輩にあざ笑われ、決心がついた。
仕事を辞めて、一週間ほど自室にこもりカップ麺だけを食べて生活した。
家具は全て売り払った。
母の命日である昨日、墓前に線香と花を捧げ、そのままアパートには戻らず駅前の二十四時間営業の大型浴場で一晩過ごした。そしてそろそろ空が明るくなったなと感じたので、俺は死ぬことにした。
死の直前には走馬燈のように一生の出来事が思い出されるという。しかし、何も浮かばなかった。落下する俺の頭の中は真っ白だった。
「本当に死んじゃっていいの?」
その頭の空白にスルリと入り込んでくるように、声が響いた。中性的で、大人とも子供ともつかない声だった。
「アナタは本当に死にたいの?」
また声が響いた。
俺は死にたいのだろうか?
違う。自分でもわかっている。
死にたいのではなく、生きていたくない。辛い毎日が積み重なっていくだけの長い灰色の人生なら、すぐに終わらせてしまったほうが楽だ。
「でも、そのうち何か思いもかけない良いことがあるかもしれないよ
「ちょっとした切っ掛けで幸せに変わるかもしれないよ
「そういうことは考えた?
「それでも、アナタは本当に死にたいの?」
わからない。
答えられない。
今の苦しみから解放されること自体が、想像できない。
「じゃあ夢をみせてあげるよ。アナタの人生にどんな可能性が残されていたのかがわかるように。本当に死にたいのか、その夢が終わったときにもう一度考えてみれば?」
頬に当たるほんのり暖かい感触と鈍い振動で意識を取り戻した。
死んでいなかった。
生きていた。
確かに八階建て雑居ビルの屋上から飛び降りたはずなのに、傷一つ無く俺はアスファルトの道路に横たわっていた。何かにフワリと優しく抱きとめられたかのように、俺は着地したのだ。
ビーッと車のクラクションが響いた。
目の前に白い軽トラックが止まっていた。その運転席から五十がらみの頭のはげたおじさんが降りてきた。
どうやら俺が道路に寝転がっていたせいで、通行を妨げているようだ。
「おい兄ちゃん、危ないぞ! なにこんなとこで寝てんだ! ほら退いた退いた」
ホウキで埃を掃くみたいに、おじさんは俺の身体を転がすような仕草をとり、俺はその動作につられて端の方に転がった。
道が空いたので、おじさんは満足げに自分の軽トラに戻っていく。いや、戻っていこうとして、途中で足を止め
「酔いつぶれて道路で寝ちまったって風でもないんだよなあ。なあ兄ちゃん、こんなところで何してたんだ?」
軽トラのドアに手を掛けた状態で、問う。
答えられない俺を見て
「まさかその・・・・・・死のうとしてたとか、そういうんじゃねえよな・・・・・・?」
やはり俺は答えられない。口をもごもごさせながら、何も言葉を発せず、うつむく。
「・・・・・・そうか。兄ちゃん家はこの辺か? 乗っけてってやるよ。ほら遠慮すんな。ほれ、乗れ乗れ」
おじさんは、わざとらしいほど豪快にバンバンと軽トラのドアを平手で叩いた。
それから二十分、おじさんは助手席に座る俺に向かって一方的にしゃべり続けた。
隣町で石材店を営んでいること。
一時期の不況のどん底を抜け、今は多少売り上げが上向き掛けていること。
家は娘二人と奥さんの女所帯だからどうにも肩身が狭いということ。
俺はそれを、「はい。はい」と時々相づちを入れながら暗い顔で聞いていた。
おじさんはやけに道に詳しく、俺が使ったこともないようなクネクネとした裏通りをいくつも通り抜けて、アパートの前にトラックを止めた。
「仕事はなんかやってんのか?」
「いえ。先週辞めました」
「だったら。ほらコレ」
渡されたのは、何かの包み紙の裏側におじさんの店名と住所が書き付けられたものだった。
「今ちょうど人手が少し欲しい所なんだ。もしその気になったら顔出してくれ。な?」
それから二週間、またカップ麺だけの生活をおくった。もう一度死んでみようという気分には、なれなかった。
起きてボーッとして暗くなったら寝るだけの無為な日々を過ごしながら、「すぐに死なないんなら、とりあえず職を捜さなければいけない」と考えていた。それで渡された書き付けを頼りに、おじさんの店を訪れた。
そのままその日からおじさんの店で働くことになり、がむしゃらに仕事を覚えようとするうち、気が付けば三年の月日が経っていた。
石屋という仕事が性にあっていたのか環境が良かったのか、俺は人並み以上の働きをできるようになっており、親父(おじさんのことを俺はいつの間にかそう呼ぶようになっていた)からもすっかり信頼されていた。
売り上げの多くは墓石の加工・納入だが、庭石の依頼を受けることもある。そんな依頼のひとつで、その日は隣町の一軒家を訪れた。親父と二人で庭に敷き詰める玉石を運んでいると、どこからか「あー」とも「うー」ともつかない気味の悪いうなり声が聞こえた。家の縁側の下から聞こえてくるようで「ちょっと行って確かめてくる」と言うと、親父は「行くな」と答えた後「俺には何も聞こえん」と続けた。そのときの親父はゾッとする程の無表情で、いつもの明るく愛想のいい印象からかけ離れていた。
後にも先にも、親父がそんな顔を俺に見せたのはその一回きりだった。
それからさらに年月が過ぎ、俺は親父の娘さんと結婚していた。子供も生まれ、あのぼろいアパートは引き払って店の二階に家族ともども暮らしていた。
幸せに暮らしていた。
ある日、ニュース番組で若者自殺についての特集が流れた。いま10~30代の自殺者が年二パーセント程度の割合で毎年増加しているそうだ。妻が「あなたは自殺しようと思ったことある?」と
訊くので俺は「ない」とだけ答えた。妻と五歳の息子は俺にゾッとするような無表情の顔を向けていたが、俺の答えを聞くと優しくニッコリ笑った。床下からは「あー」「うー」という、まるで飛び降り自殺に失敗した人間が出すような、気味の悪いうなり声が聞こえていた。
秋の夕方、二十代の男が店に入ってきた。近々自殺するからその前に墓石を用意しておきたいのだという。「どういう死に方を考えているんですか」と訊ねると「朝方、雑居ビルから飛び降りつもりです」とゾッとするような無表情の顔をこちらに向けて答えてきた。この男は幸せじゃないんだな、と俺は思った。店の床下からは飛び降り自殺に失敗した人間の「あー」「うー」という苦しげなうなり声が聞こえていた。
「そろそろ夢は終わるよ」
という声が頭の中に響いてきたのは、風呂場で息子の髪を洗ってやっているときだった。
「まだ早すぎる」と俺は答えた。
「せっかく幸せになれたのに」と。
声は
「でも、これは夢だからね」
と言ってきた。
「夢が終われば、あの瞬間に戻る。そこから現実で幸せに生き直せばいいよ」
と。
頭が真っ白になり、俺は自分が落下していることに気付いた。八階建ての雑居ビルの屋上から落下している途中だと、思い出した。
「アナタは本当に死にたいの?」
訊ねられた。あの中性的な声に。
「死にたくない。生きて、人生をやり直したい」
俺は答えた。
「うん。わかった」
グチャッと音がした。
俺の身体が地面に激突した音だった。
激痛が全身にはしった。
耳と口から生ぬるい液体が漏れだしている。血だろう。
息が苦しい。呼吸ができない。肺がつぶれているかもしれない。
両足がねじれて八の字型に曲がっていて、直せない。
身体全体がくまなく針で突き刺され続けているように、痛い。
霞んだ視界の端に、誰かが立った。
俺を見下ろしている。
「大丈夫だよ。アナタはもう死ねなくなっている。アナタの望み通りに」
立っているのは、あの中性的な声の主だろう。顔は見えない。しかし色白でスッと細長い裸足の足は、声から想像される姿そのものだ。
「見えていないかもしれないけど、頭が割れて脳が半分くらいこぼれ落ちているよ」
そういって、何かドロリとした物を彼は地面から掬い上げ、俺の頭の中に詰め込んだ。
酷い吐き気と眩暈におそわれた。
肋骨が折れて内蔵を突き破っているようで、のたうち回りたいほどの痛みを感じ続けている。しかし身体が一切動かない。
涙が目にたまる。たまった涙には何かが混じっているのか、白く濁っており、目に染みる。
なんなんだ。
どうなっているんだ。
身体がこんな状態なのに、死ねないし、意識も失えないのか。
「そうだよ。アナタが自分でそうしたいって言ったんじゃない」
俺が言った?
そんな馬鹿な。俺はこんなこと望んでいない。ただ「やっぱり死ぬのは嫌だ」と、そう思っただけなのに。
声の主は俺の剥がれ掛けた顔の皮膚をガッと掴み、俺の身体を引きずっていく。
辿り着いた先は傾き掛けた木造マンションの一室だった。
「あー」
「うー」
部屋の至るところから声が聞こえる。どうやら俺と同じような状態の人間がここにはたくさん押し込められているようだった。
かつて嗅いだことの無いような悪臭が充満している。腐った肉と内蔵と排泄物と蠢く害虫の臭いだ。自分の嗅覚がまだ機能していることを心底恨んだ。臭いは吐き気を誘発するが、胃は肋骨に突き破られ内容物を全て出し尽くしている。
鼻の頭をムカデがカサカサと這っていったが、身体が動かないから追い払うこともできない。感触からして、今は脳の中を這い回られているようだ。
「見えない。見えない。一体どうなっているの」
俺の隣に置かれている頭だけの女がずっとそう呟いている。
声の主がドアの外にでていった。
「行かないでくれ。こんなところに置いていかないでくれ」
顎が砕けているので、そう口に出すこともできなかった。
「助けてくれ助けてくれ助けてくれ助けてくれ」
そう心の中で唱え続けていたが、同時に誰も助けてくれないことはわかっていた。俺は永久にこのまま、ここに居なくてはいけないんだろう。
目の前に身体がグズグズに溶けかけて蛆にまみれた男がいる。男はピクピクと痙攣し続けている。その度に腐敗臭がこちらまで漂ってくる。
やっぱり死んでしまうべきだった。
強く、強く後悔した。
「死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい」
部屋のそこかしこから聞こえてくる低いうめきは俺の心を代弁しているようだった。